イセではないもの
ミカエルは警戒を強め、イセを見ていた。
なぜか急に動揺し始めた様子のイセである。
何が起こっているのか、ミカエルは見極めようとしていた。
果たして、ミカエルにとって好ましい理由による動揺なのか。
イセは、おもむろに上を見上げ口を開けた。
イセの口からチラチラと黄土色の光がもれた。
ミカエルはのけぞるイセの喉を見ながら、眉を潜めた。
一体何が起ころうとしているのか。
突然、イセの口から黄土色に光る煙が噴き出した。
それはもうもうと天に上ったかと思うと、グルグルと渦を巻き、大きな球体になった。
それまで抱え込んでいたフロウを、イセはその球体に投げ上げた。
フロウはその体と同程度の直径がある球体に体を飲まれた。
イセの両手が自由になった。
イセは両腕を広げ、天を見上げていた。
その両眼と開いた口から、黄土色の光線が天上に伸びた。
ミカエルの背を冷たい汗が流れた。
ミカエルは懐かしい臭いをとらえていた。
腐乱臭。
これはよくないサインだ。
イセの傍らに無表情で立っていたミカゲが、その場に崩れ落ちた。
イセはそれを一顧だにしなかった。
イセの顔が前を向いた。
その両眼は沼のような深い濁りを示した。
そこからあふれ、こぼれるように、腐乱臭がしたたり落ちた。
ミカエルは畏れを抱いた。
先ほどまでは、イセは人だった。
しかし、今はそこから離れた存在感としての異彩を放っている。
爆発したい。
ミカエルの耳にはそう聞こえた。
今のはイセの声なのか。
時を越えて、四ツ辻の肉屋の声が重なった。
「グッ!」
ミカエルの後ろでハシマが苦痛の声をもらすのが聞こえた。
ミカエルは振り向かなかった。
ハシマも守らなければならない命だ。
何もかもを破壊しようとする異形から、目を逸らす暇はなかった。
イセはまるでオーケストラの指揮者のように腕を振るった。
ゴゴゴオッという激しい地鳴りが起こった。
地を割り、天に向かって伸びる黄土色の木々があった。
それは次々と現れ、広場を異世界にしていった。
ミカエルは直ちにハシマを肩に担ぎ上げた。
ミカエルは、振動の中で驚異的なバランス感覚を発揮し、足場を探し、地形の激変に耐えた。
地鳴りが鎮まった時、ミカエルは大きな木の根の上に立っていた。
ミカエルは、視線を前に向けたまま、ハシマをそっと根の上に下ろした。
ハシマは荒い呼吸を繰り返していた。
昼も夜もない、黄土色の世界だった。
ミカエルの視線の先にはイセがいた。
それは、イセなのか。
ひと際大きな木の幹に、イセが埋まっていた。
先ほどまで、動きにくい、とこぼしていたイセの下半身が、大木と同化して根を張っていた。
イセの開かれた目と口からは、絶えず濃厚な腐乱臭がこぼれ落ちていた。
異形でありながら意志と疎通性の保たれていた四ツ辻の肉屋とは違っていた。
ミカエルは、試みる前からイセとの対話を諦めざるを得なかった。
対話が可能な雰囲気は微塵もなかった。
イセである木の根元にミカゲが倒れていた。
イセである木の伸びる上空には、フロウを飲み込んだ丸い黄土色の球体が浮かんでいた。生い茂る木々の隙間から見えるその球体は、繭玉のようにも月のようにも見えた。
突如として、周囲の木々の枝が伸び、ミカエルを襲った。
ミカエルを串刺しにせんとする枝に対し、ミカエルは短剣を振るった。ひと枝、またひと枝と、ミカエルは斬り落としていった。
数えきれないほどの枝が襲ってきた。
斬り落としたところで、すぐさま次の枝が来るのである。
ただの枝ではない。
灰色の靄がまとわりつき、嫌な臭いを放っていた。
魔法防御の結界は、その靄を打ち消し、受け流した。
その靄の性質は不明だが、沢の下の魔術がなければ、たちどころに絶命しかねない効力を発揮していたに違いない。
「クッ」
ミカエルは思わずうめいた。
致命傷は避けているものの、次々襲い来る枝に、ミカエルは切り裂かれていた。
濃いグレーのシャツとブラックジーンズににじむ血は目立ちはしない。しかし、着実に傷は増え続け、ダメージは加算されていった。
きりがない。
これではいずれやられてしまう。
ミカエルがそう考えながら、短剣を振るっていた時だった。
「右、斜め上、45度、三本枝の根元」
ミカエルの後方の足元から、ハシマのかすれ声が聞こえてきた。
ミカエルは、ハシマが言いたいことを一瞬で理解した。
「せい!」
ミカエルが斜め上方に薙いだ短剣から、白と緑の光を宿す衝撃波が放たれた。
ゴフッという鈍い音がした。
枝を暴れさせていた木のひとつが、瞬く間に霞みとなって消えた。
「ゴホッ、左、ゴホッ、左下、幹の、うろ」
ミカエルはハシマの咳込みを気にしながら、再び狙いを定め、衝撃波を撃った。
再び木が消失した。
「前方、ゴホッ、根元、三又に分かれた、ゴホッゴホッ」
ミカエルはハシマを振り返りたくなった。
それがよくなかったのか。
ミカエルの背中を別の木の枝が襲った。
ミカエルは察知して体をよじったが間に合わなかった。
「グワッ」
ミカエルのわき腹に、一本の枝が鋭く突き刺さった。
しゅるりと抜けて、更に狙ってくるその枝を、ミカエルは斬り払った。
わき腹に焼けつくような痛みがあった。
わき腹に触れた左手が、赤く血に染まった。
ミカエルは、しくじったと感じた。
核を破壊する、という方法に気をとられ過ぎたのか。
血が流れると思考力も集中力も体力も落ちる。
わき腹の傷は、この戦闘状況において、これまでより一段階、厳しい怪我であった。
まだまだ襲い来る無数の枝を、ミカエルは斬り続けた。
沢の下の力も発動させ続けている。
ミカエルの総力もじわじわと削られていく。
ミカエルはこの場を動くわけにはいかない。
倒れるわけにもいかない。
フロウと同時に、ハシマも守りたいからだ。
ミカエルは、大きな傷を負ってしまったことを悔いた。
この事態を打開できるのか、ミカエルは先行きを懸念した。
その時、ミカエルは、わき腹に温かな波動を感じた。
わき腹の怪我に、緑の光が小さく灯っていた。
守りたい相手に、守られている。
ミカエルは振り向かなかった。
襲い来る枝に、それどころではなかったということもある。
枝の襲撃の隙間から、前方の木の根元に衝撃波を叩き込んだ。
ゴフッという音がして、多くの枝を伸ばしていた木が消失した。
自分が死にそうなくせに。
ミカエルは、自身に向けられたハシマのケアを止めたかった。
しかし、そうは言えなかった。
先に届いたのはハシマの声だった。
「右、ハアッ、奥、茂みの、中心、ゴホッゴホッ」
厳しい声だった。
そこに込められたハシマの意図が、ミカエルには鮮明に伝わった。
余計なことは考えるな、言うな、するな。
その力のすべてを集約せよ。
戦え。
ハシマは人でなくなったイセと戦うことを、少しも諦めてはいない。
ハシマの明確な意志があった。
ミカエルの懸念に瞬時、光が差した。
「ハア!」
ミカエルは短剣からの衝撃波を、ハシマの指示する茂みに飛ばした。
ゴフッという音とともに、大きな木が消失した。
ミカエルは、そうすることでハシマに答えたのだ。
言いたいことは、後で、全部。
ハシマの治癒の力はか細く、決してミカエルの傷をふさげるほどのものではなかった。
余計なことをしているのはハシマさんの方だ。
ミカエルは、緑色の小さな光の温かさに触れながら、ハシマへの抗議の言葉を心に伏せた。
今一度、敵を打ち倒すために集中を高めた。
「ミカゲ!」
そこに、イセの力で広場から吹き飛ばされていたタタが戻ってきた。タタは、うねる大木の根の上を、軽やかに駆けてきた。
イセを見てギョッとした後、タタは、その根元にいるミカゲに気がついた。
タタは倒れているミカゲにすぐに呼びかけたのだが、反応はなかった。
ミカエルを襲っていた枝が、タタにも向かった。
「うわっ!」
タタは素早く駆け回り、枝の襲来を避けた。
ミカエルとは異なり、木々の間を自由に動き回るタタを、枝はとらえることができなかった。
タタが動き回り、枝を撹乱する隙を狙うように、ミカエルとハシマは、木々の核を破壊していった。
ミカエルとイセを両端に、円状に木々が消失した。
ここに至るまでぼんやりともいえる様子で、目と口を開けていた大木のイセが動いた。
いや、動いてはいない。
その目と口から、灰色の靄がもうもうとあふれだしてきたのである。
「何だよ」
タタは地を這う靄を避けるため、動きを止めた黄土色の木に登った。
イセから生みだされた靄は、ミカエルとハシマを襲った。
ドーム状の魔法防御を、地を這う靄が下方からとり巻いた。靄は防御を崩そうと、ドームをギュウギュウと締め上げ始めた。
「クッ!」
「!」
ミカエルとハシマは唸った。
受け流そうとする防御を越えて、締め上げてくる力があった。
満身創痍のミカエルとハシマは、それでも魔法防御を破壊されまいと耐えた。
ミカエルの全身が軋んだ。
ハッ、ハッという今まで以上に浅く荒いハシマの息づかいが聞こえた。
途絶えそうになる緑の光を、白い輝きが支えた。
いくらかの靄が白い輝きに焼かれるように消えた。
しかし、靄もまた際限なく湧いて出るのだ。
やるせなさに、ミカエルが歯噛みした時だった。
「黒」
それまで明確に声を発することのなかったイセが、そう言った。
途端に、あふれていた靄がピタリと動きを止めた。
「黒」
イセはそう言って、またぼんやりと目と口を開けているようであった。
木の枝の上で戦々恐々としていたタタは、事態が止まったことに首をかしげた。
ミカエルも、警戒しながらイセを見ていた。
「転移だ」
ハシマのささやき声がミカエルの耳に届いた。
ハシマは、イセの次に、異変の兆候をとらえたのだった。
ハシマのつぶやきから数秒後、その異変はミカエルとタタにも分かる形で生じた。
それは、ミカエルとイセのちょうど中間地点であった。
消え残る靄を払うように、強いエネルギーが渦を巻いた。
空間がグニャリと歪んだ。
強大な力が、この場に訪れようとしていた。




