正念場
広場のほぼ中央に立つイセは、もはや身動きさえしないフロウを抱えながら、不満の声を上げた。
「煩わしい」
イセは、自分の足元に大きく広がる緑色の魔法陣を見た。それはイセの転移を禁ずる魔術である。
イセは右足を持ち上げ、その場で踏み込んだ。
ダンッという大きな振動音が響き、緑色の魔法陣が揺らいだ。
「グウッ」
イセから離れた所に立つハシマがうめいた。
額に玉の汗が浮かんだ。
ハシマは歯を食い縛り、魔法陣を安定させるべく魔力を送り続けた。
揺らいでいた魔法陣が安定すると、イセはかすかに目を細めた。
「煩わしい」
イセはもう一度つぶやいた。
「聞こえないのか、ミカゲ!」
タタは必死にミカゲへと呼びかけた。
ミカゲはイセの傍らに無表情で立ち続けていた。
ミカゲがタタの呼びかけに反応する様子はなかった。
イセはうるさそうにタタを見た。
それから、まるで羽虫を追い払うように、手を払う仕草をした。
「うわっ!」
イセの手から繰り出された突風が、広場の端に立つタタを直撃した。
タタは、広場につながっている通路の先まで、吹き飛ばされて行った。
ミカエルは魔法剣の力を体内に巡らせていた。すべてを目にしながら、焦る気持ちを必死に抑え込んだ。
もう少し。
もう少し奥に手を伸ばして。
遠く深くに、切れ切れに存在する力を、引き出して、かき集めて、積み上げて。
それは、ミカエルの母リリスより引き継がれた、沢の下の血筋に備わる力だった。
とうに失われたはずの力に、ミカエルはアクセスしていた。
泥まみれの川底から砂金をさらうような、そんな作業だった。
イセはダンダンッと不機嫌に右足を踏み鳴らした。
ただそれだけの仕草で、緑の魔法陣は歪み、魔術は破壊されそうになった。
ハシマは左手の人差し指をわずかに噛み切り、血を流した。
己の血を媒介に、イセの転移を禁ずる魔術を再び調えた。
ハシマは全身汗だくになり、苦悶の表情を刻みながら、呪文を唱えた。そしてハシマは、崩れるように膝をついた。
イセのうんざりした顔は、対比的に涼しげでさえあった。
イセは小さなため息をつきながら言った。
「あなたは、さぞかし優秀な魔術師なのだろう。この私を足止めするのだから。ベロニカと同様、あるいはそれ以上」
イセは、荒い呼吸の下で呪文を唱えるハシマを見下ろして言った。
「自分は有能だという自意識と感覚に安住してきたのだろう。幸福だったね。そんなあなたも、今は虫けら。私の力はあなたを遥かに凌駕している。おやおや、そんなに命を削って。このままでは、あなたは無駄死にする」
くだらない命だ、とイセはつぶやいた。
ハシマは下からイセをにらみ上げた。冷たい怒りによって、その双眸は燃えていた。
「ここで、命を使わず、いつ使う」
ハシマの言葉を聞いたイセは、あざけるように片眉を上げた。
ハシマは、噛み締めた唇の端からも血を流しながら続けた。
「命など、そもそも無意味。あらゆる命のあがきは、無駄骨。だから? それが、どうした」
ハシマは緑の光をまとった。
「決めたのだ。僕は、ここで、僕の命を、使う」
ハシマから立ち上った緑の炎は、たちどころにイセの足元の魔法陣に向かった。
魔法陣の外周を緑の炎がグルグルと走った。それは、魔法陣を頑丈に固定し、イセの転移を厳格に禁じた。
イセは眉をひそめた。
「動きにくい」
イセがハシマ目掛けて手を伸ばした。
その手から、青い稲妻が放たれハシマを襲った。
「グアアッ!」
ハシマの魔法防御は、イセの足止めに使われた魔力の分、頼りないものとなっていた。
ハシマは全身に襲い来る稲妻をしのぎきれなかった。
衣服が焼け焦げ、肌は切り裂かれ、内臓にダメージを与えられた。
「ゴホッ」
ハシマは地に両手をつき、咳き込んだ。
腕を伝って手首から血が落ちた。
こめかみから垂れた血もポタポタと落ちた。
ハシマは一瞬気が遠のいたが、首を振って耐えた。
ハシマは地面に爪を立てた。
ハシマの口から呪文がこぼれた。
ハシマの流れた血が燃え上がった。
赤と緑の炎が縄を編むように絡み合った。
それはイセの足元に向かった。
イセの足元の魔法陣が、ひときわ色濃く燃え立った。
イセは呆れた顔で、足元の魔法陣を見た。
「くどい」
「それは、誉め言葉」
ハシマは地に伏すような状態にありながら、血濡れて笑った。
死を前にいささかも屈服しない妖艶な笑みがハシマにあった。
その笑みを見た途端、イセは衝動的な怒りにかられた。
「気に入らない!」
イセはむきになって稲妻を乱発した。
ハシマは目を閉じもせず、まっすぐにイセの目を見ていた。その眼差しはイセをいら立たせた。
イセの怒りのままにハシマを襲う稲妻。
もはや避けきれない致命的な攻撃であるのは明らかだった。
その生と死の狭間。
イセを見ていたハシマの視界が、横から駆け込んで来た背中に遮られた。
崩壊しかけていた魔法防御が、正常以上の効力をもって作動した。
それは、イセの怒りに増強された恐るべき稲妻を、ことごとく防ぎきった。
青い稲妻は、白い光と緑の光がマーブルになったドーム型の魔法防御の上を、つるりと滑って流されてしまったのだ。
イセは目を見張った。
本気を出した、という攻撃とはまた別であるが、たかが人間が神たるイセの怒りによる稲妻を防いだのである。
ハシマは、そのイセの驚きの表情を見ることはできなかった。
ハシマに見えたのは、ハシマを守るように前に立つ大きな背中だけだった。
より輝きを増したプラチナが眩しかった。
「ミカエル」
ハシマの声はかすれた。
ミカエルは振り向かず、背中越しに話した。
「ハシマさん。フロウを助ける前に死ぬつもりですか。挑発なんて」
「あなたより、目立とうとしたら、命がけ」
「気配は消してました」
「存在が、主張しすぎ」
「…ごめんなさい。遅くなりました」
最初は咎めるようなトーンであったミカエルの声は、最後には困り果てたトーンに変わっていた。
ハシマは血濡れて笑った。
先ほどとは異なる、無邪気な笑いだった。
「ゴホッ」
ハシマはむせた。
体へのダメージが大きかった。笑うことさえ身体的苦痛を生みだした。
「ハシマさん!」
「前を、向いて」
振り向いたミカエルに、ハシマはそう告げた。
ミカエルはその意を汲んで、すぐにイセに向き直った。
ミカエルは厳しい表情でイセを見た。
イセは愕然としていた。
「女神の力が」
イセは、ヒルダの恩寵が消えたことを感じ取った。
怒りの稲妻を防がれたタイミングでそれが訪れたのだ。
イセの中に生じたのは、いても立ってもいられない不安だった。
イセはそれでも十分に大きな力を持っているのである。
そうであるにも関わらず、イセは恐れた。
「虫けらに戻るのは嫌だ」
立て続けにイセは、キメラの首が落とされたのを察知した。
その事実はさらにイセを追いこんだ。
ミカエルは、急に動揺し始めたイセを注意深く見ていた。
ミカエルは魔法剣の力を使い、自らの血に消え残る沢の下の力をすべて集積した。
攻撃的な力ではなかった。
すべてを受け流すような、身を守る方向性の力のようであった。
それによって、どこまでイセに対抗しきれるものなのか、判然とはしなかった。
しかし、やるしかないのだ。
イセの抱えるフロウは意識を失っている。
後どれだけ時間が残されているのだろう。
果たしてその命を救えるのか。
正念場。
ミカエルは短剣を強く握り込んだのだった。




