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ミカゲの夢

 ミカゲは道を歩いていた。

 ここはどこで、自分は何をしているのか。


 夕焼けが照らす森の道。

 そうだ、ここはカロナギ国の森の中だ。


 視線を下に落とすと、自分の服装が目に入った。

 レースをあしらったノースリーブのブラウス、小花柄のブルーの短いフレアスカート。


 ぎょっとした。

 何だ、この女子っぽい格好は。


 驚きによってミカゲの意識が浮上した。

 目をパチパチとするミカゲに、右上から声がかかった。


「どうした? ミカゲ」


 穏やかな男の声を受け、ミカゲは隣を見上げた。

 視線の先の高いところに、端正な顔があった。


「イセ」

「ん? どうした?」


 ミカゲは立ち止まった。

 状況が理解しきれていなかった。

 ミカゲに合わせて、イセも歩みを止めた。

 イセの水色の瞳が、問いかけるようにミカゲを見た。


「俺、イセと?」

「デート中。大丈夫か?」

「デート」

「そうだ」

「そうなのか?」

「だから、どうした?」


 ミカゲは黒い瞳をきょろきょろとさせた。

 そうだった。

 イセとデートしていた。

 だから、二人きりなのだ。


「何でもない。何だかちょっと、ボーっとしちゃって」

「それは傷つくな。私にはミカゲを惹きつけておく魅力がないのだろうか」

「違う! そんなんじゃない! イセはかっこいい。すごくステキだよ」

「本当にそう思っている?」

「勿論! 安心なのかな。そうだ、きっと安心だから、ぼんやりしちゃったんだ」

「そういうことにしておこう」


 イセは穏やかに微笑んだ。

 ミカゲはホッとした。

 ボタンダウンのシャツにブルーグレーのカーディガン姿のイセは、清潔感があり実際すてきに見え、同世代の女たちが放ってはおかないだろうと感じた。


 イセが言った。


「行きたいところはある?」

「俺、デートとかよく分かんない。どこ行くもんなの?」

「そうだな。ミカゲは、何というか、買い物や食事に金をかけても喜ぶようには思えない」

「誰かと比べてんの?」


 ふいにミカゲは悲しくなった。

 今度はイセが慌てた。


「違う」

「嘘だ。今まで付き合った女を思い浮かべてた。金をかける甲斐がある女たちと、俺を比べてた」

「違う! …いや、やはり比べたのだろうか」


 ミカゲの悲しみは深かった。

 怒りにも似ていた。

 どちらにしても、底無し沼に沈み込むような絶望的な感覚があった。

 女らしい女と比較されることが、どこかにあるミカゲの心の傷に触れたのだ。


「ミカゲ」


 イセが突然、片膝をついた。

 ミカゲは驚いた。

 背の低いミカゲが、ひざまずくイセを見下ろす形になった。


 イセはミカゲを見上げ、真剣な顔で言った。


「ミカゲは特別だ。どうすればミカゲを幸せにできるのか、今までの経験が役に立たないので私は困り果てている」

「経験とか言うな」

「私の中にはもはやミカゲしかいない。恋に落ちたのは初めてだ。そうだ。こんな気持ちは初めてなのだ」


 イセの初めての恋と聞き、ミカゲの心は少し落ち着いた。

 それならば、ミカゲに分がある気がした。


 ミカゲの表情を見ていたイセは、少し目を細めた。


「恋ならば、ミカゲの方が経験者か」


 ミカゲの頬に朱が上った。

 急に心拍数が上がった。

 何かに追い立てられるような心地がした。


 誰かに恋をしていた。

 深く。激しく。悲しく。

 しかし今、その現実は遠かった。

 ミカゲがその輪郭をつかむことはできなかった。


 イセは立ち上がった。


「腹が立つ」

「イセ、俺は」

「分かっている。私がミカゲを思う気持ちの方が大きいのだ。ミカゲはまだそれほど私を好きではない」


 ミカゲの胸が痛んだ。

 イセがミカゲを思う気持ちが伝わってきた。

 うれしくて、苦しかった。

 思いが釣り合わない時の痛みを、ミカゲはよく知っていた。


「俺、その内、イセに幻滅されるかも」

「そんな逃げ方は私には通用しない」

「逃げてない。俺だってイセのこと、すごく、すごく、その」

「なんだ」


 イセはミカゲをじっと見下ろした。

 ミカゲは胸がつまった。




「分かんない」




 イセはがっくりとうなだれた。



「期待した」

「していいよ」



 イセは目を丸くした。

 ミカゲは頬を赤くして、そっぽを向いた。

 イセは少し硬そうな質感の前髪をかき上げるように、額に手を当てた。


「熱が出そうだ。私は自分が思っていたより常識的な人間なのだと、ミカゲと知り合って気がついた」

「何の話?」

「早くもう少し大人になってくれ。手が出しにくい」


 今度こそ、ミカゲの顔から火が出た。

 ボボボと音がしたかのようだった。


「そ、そうだ! あんな、とんでもないキスしやがって!」

「その節は本当に申し訳なく思っている」


 いつのことであったか。

 明確に思いだせないが、ミカゲはイセに唇を奪われた。


 ミカゲにとっては、激烈、といってよい経験だった。

 それほどのことにも関わらず、前後の状況がはっきりしないのは妙である。

 妙であることに、ミカゲは気が付いていない。


 とにかく、キスの件について、ミカゲは猛抗議した。


「最初から、あれはないだろ! ああいうのは、慣れるまで待ってくれないとダメだろ!」

「ああ。あれは信じられないほどよかった」

「だから! そういうことを言うなってば!」

「ミカゲが欲しいのだ」


 ミカゲは息をのんだ。

 心臓がドキドキして止まらなかった。

 イセの言葉が頭と胸をグルグル回った。


 イセは歩きながら、ミカゲを見下ろし言った。


「気持ちが止まらない。ミカゲのいない人生など考えられない」


 必要とされている。

 イセのメッセージはミカゲの心へまっすぐに届いた。

 イセはミカゲを選び、望んでいる。


「でも、何で?」

「私とミカゲは似ている。境遇も背負うものも。ミカゲの傷が誰よりも理解できるのは私だ。そして、私の傷を本当の意味で理解できるのはミカゲしかいない。そうでありながら、魂の形がずいぶん違っている。ミカゲの強さが私を救う。また、今の私の力はきっとミカゲを救うだろう」



 まことの黒と宵闇の青。

 生まれながらにして大きな家名を背負えと周囲に言われ続けながら、期待に沿うような十分な力を持たないことに苦しみ続けた二人である。

 立場は違えど、その事実が深い傷となっていることは重なっていた。


 ミカゲも、会ったばかりのイセに、何となしに惹かれる気持ちを持っていた。

 恋とまでは言えないが、期待していいと言ったのはそのせいだった。


 イセが宵闇の青頭首であり、その責務を果たしきれなかったという苦しみを持っていることは、なぜかすでにミカゲの理解の中にあった。


 言われてみれば、確かにそうだ。

 まことの黒の名に届かない自分の存在に、ミカゲは傷ついてきた。

 ミカゲはイセの苦悩が痛いほど理解できた。



 ミカゲはチラッとだけイセを見て、すぐに視線を前に戻しながら言った。


「強さとか、力とか、そういうのなのかな」

「何のことだ」

「俺が救われるとしたら、イセの力に救われるんじゃない気がする」


 イセは腕組みをした。


「難しいことを言う」

「それはイセだよ。俺の話なんか簡単だ」

「もう少し話してくれ」

「俺を救うのは、きっとイセの心だ」


 イセは足を止めた。

 ミカゲも立ち止った。


 ミカゲはイセを見上げて言った。




「俺を救うのは、イセがくれる愛情、だと思う」




 ミカゲは目を逸らさなかった。

 大事なことはしっかり相手に伝えるべきだとミカゲは思っていた。

 実際、ミカゲはイセに思われることで、安らぎを得ていた。

 感謝を伝えたかった。



 イセの長い腕が伸びた。

 気がつくとミカゲは抱きしめられていた。

 ミカゲは状況に頭が追いつかず、固まった。


 ミカゲの体は、背の高いイセの抱擁に引き上げられるようだった。

 ミカゲはつま先立ちになった。

 イセの唇がミカゲの耳に触れた。


 あろうことか、イセがミカゲの耳をかんだ。


「きゃあ!」


 ミカゲも自分で驚くような可愛らしい声が出た。

 だいぶ定着してきたようである。


 驚きとかすかな痛みと甘い痺れがそこに混在した。

 イセは腕を緩めることなく、ミカゲの耳元でささやいた。






「愛している」






 イセのささやき声は、ミカゲの背筋をなぞりゾクゾクする感触を全身にもたらした。

 ミカゲの喉元を甘い吐息がせり上がってきた。


 ミカゲは慌てた。


「てい!」

「痛!」


 ミカゲはイセのすねを全力で蹴りつけた。

 イセは腕をほどいてミカゲを解放し、蹴られたすねをさすった。


 ミカゲは耳を押さえ、真っ赤な顔で抗議した。


「反省してないだろ! こういうことすんなって言っただろ!」

「本当に申し訳ない。自分で思っていたよりも、反射神経が発達していたようだ」

「常識どうした!」

「これからしっかりと己の常識と手を結ぶ。どうか許してほしい」


 イセは本当に困り果てた顔をしていた。

 ミカゲは、イセのキャラクターをつかみ始めた。


 どっか抜けてる。


 ミカゲは笑ってしまった。

 何でもできてミカゲを守り続けてくれたあの人とは違うのだ。






 ミカゲの思考にノイズが走った。






 今、何を考えたのか。


「ミカゲ」


 呼ばれてミカゲはイセを見た。

 イセは穏やかに微笑んでいた。


「煩わしいことは何も考えなくていい。その分、私のことを考えてくれ」

「え、うん。あ、そうだ。イセ、もう変なことすんなよ」

「しない。つもりでいる」


 イセは真面目な顔でそう言った。

 ミカゲはもう一度笑った。




 ミカゲの気持ちは温かいもので満たされていた。

 これまで男の子のようにして生きてきた。

 ここで休憩して、女の子としてちゃんと生きてみたい。


 そうだ、フロウ。

 なぜかケンカ別れのように、もう会えなくっている女友達。

 思い出すとどうしてだろう。胸は痛むが、女友達と恋の話もしたい。


 イセと上手くいったら、いつか、そんな希望も叶うのかもしれない。


 ミカゲはふいに泣きたくなった。

 みんなが笑って、よかったねって言い合える。

 そんな話があってもいいじゃないか。



「ミカゲ、私がいる」


 イセの温かい声が聞こえる。

 ここにいたらいい。

 そうすれば、何も怖いことは起こらず、ミカゲが傷つくこともない。




 夕焼けが美しかった。

 噛みしめるようにミカゲは歩いた。








 ミカゲ。








 世界の外側から声がする。








 目を覚ませ。







 やめて。目覚まし時計はいらない。

 止めて。







 ミカゲ、自分を見失うな。







 自分を。

 ミカゲは一瞬、幻のような声に意識を向けた。


 声はたちまち夕焼けの色にかき消された。

 何だったのか。







 それは、ミカゲの胸に、小さな波紋を残したのだった。

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