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魔封じの間

 ベロニカは、ヒルダの手を引いて走った。

 黒いエナメルのパンプスが小石を蹴立てて音を響かせた。

 靴の種類による移動の不利を感じさせない、見事な走りであった。

 デッキシューズを履いているヒルダの方が、むしろ足をもつれさせるように走っていた。


 ベロニカが足を止めた。


「んぎゃ!」


 よたよたしていたヒルダは、ベロニカにぶつかって尻餅をついた。


「いってえ、な、はあはあ、くそっ」


 ヒルダは息も切れ切れであり、文句も言いきれなかった。

 尻をさすりながら前に立つベロニカを見上げた。


 ベロニカは、呼吸を整えながら前方を睨んでいた。

 ヒルダは、ベロニカの視線の先を追った。




 巨大な蟻もどきがいた。

 5匹はいた。

 その後ろにも、何かいるのが見えた。




 ヒルダは青ざめた。

 ベロニカがつぶやいた。


「遠回りする時間はない」


 ヒルダは震え上がった。

 それが意味するところは。


 ベロニカが座り込んでいるヒルダを見下ろして言った。


「行くわよ」

「あっち? あのでっかい蟻の方に行く? バカじゃないの?」


 座ったまま、ヒルダはジリジリ後退した。

 そんなヒルダの後頭部に、何かが当たった。

 ヒルダが振り向く前に、その何かが話した。


「助太刀する」

「アニヤ!」


 ヒルダがぶつかったのは、アニヤの足だった。

 ヒルダは慌ててアニヤから離れた。

 また、別の何かに頭が当たった。


「そろそろ立ちなさい、ヒルダ」

「アネモネ!」


 アネモネはヒルダの手を引いて立ち上がらせた。

 ベロニカは巻き髪を肩から払いながら言った。


「タタが言っていた便利屋さんたちね。ミカエルを探しに来た。薄曇りの暗さの経験者」

「俺がアニヤでこっちがアネモネ」

「私はベロニカ。何と言えば伝わる? 私は、フロウの師匠ハシマの魔術学院時代の同期。ハシマと決闘していてこの異常を免れた。魔術大学院に所属していて、薄曇りの暗さが発生した時、研究棟にいた」

「ベロニカのことは理解した。あと、ヒルダは薄曇りの暗さと一緒にしてはいけない女だということも理解している。何でここにいるんだか、頭が痛い」

「愛するキングのために決まってんだろうが!」


 ヒルダの言葉は流された。

 ベロニカは続けた。


「話が早い。あの通路の先に、サイゴのツギの塔と同時代の建築物である古代棟が存在するのだけれど、その中の一つに、魔封じの間と呼ばれる部屋があってね。そこならば、おそらくヒルダの影響力を封じることができる」

「了解。なるべく俺たちがここの生き物は引き受けるから、先を急いでくれ」

「そうさせてもらうわ」


 アニヤはハンドガンを構えた。

 アネモネはアニヤから受け取った鞄を探り、同じくハンドガンとサバイバルナイフを取り出した。


「ちょっとそのまま待って」


 ベロニカは二人に声をかけ、呪文を唱え始めた。

 牡丹色の光がアニヤとアネモネの武器に宿った。


「これでよし。ミカエルが使っていたような本物の魔法剣には遠く及ばないけれど、威力は倍増しているから」

「ありがたい」




 ベロニカは、ヒルダの手をガシッと握った。

 ヒルダはビクッと跳ねた。


「行くわよ」

「だから、バカか!」


 有無を言わさず、ベロニカはヒルダの手を引いて走り出した。

 ヒルダは助けを求めるようにふり返った。


 アニヤは無言で、行け、と顎をしゃくって見せた。

 アネモネに至っては、完全に無視して空を見上げていた。


「ばっかやろうどもめ!」


 その場に残るわけにもいかないヒルダは、涙目でベロニカに引きずられて行ったのだった。

 




 巨大蟻もどきは、駆け寄ってくるベロニカとヒルダに気付いた。

 わらわらとベロニカたちに向かってきた。


 ベロニカは走りながら呪文を唱えた。

 大きな火の玉が蟻もどきの頭に向かった。


 キイイイイという奇声を上げ、蟻もどきの一匹が倒れた。

 それは黒い霞みとなって消えた。


 巨大蟻もどきたちの奥から、今度はライオンもどきが現れた。

 真っ黒なライオンもどきは、あばら骨の奥に内臓をさらしていた。


 また、蟻もどきやライオンもどきの足元に、ビチビチと跳ねる生き物たちがいた。

 魚もどきであった。


「気色わりいいいい!」


 ヒルダの悲鳴が響く中、ベロニカの魔術が炸裂した。

 蟻もどきがすばやく動き、火の玉をかわした。

 ライオンもどきは腹に火の玉を食らったが、平然としていた。


「力を増してる」


 ベロニカは厳しい顔でつぶやいた。

 ベロニカが手を引くヒルダの影響と考えられた。


 後ろから射撃音がした。

 蟻もどきの頭に連続で牡丹色が灯り、破裂した。

 蟻もどきが倒れた。


「こっちに来い! 俺が相手をするぞ!」


 アニヤが大きな声を出した。

 ベロニカは振り返ることなく、ヒルダを連れて、敵の隙間をかいくぐり走った。


 アニヤとアネモネの奮闘虚しく、敵の関心はどうやらベロニカとヒルダにあるようだった。

 ライオンもどきが迫ってきた。

 ベロニカは魔術を繰り出しながら考えた。



 勝手に注目を集めてくれるミカエルはありがたかった。 

 いや、そういう問題ではない。


 ヒルダだ。

 イセがヒルダを呼んでいるからだ。

 薄曇りの暗さの中心となっているイセの意思に、敵であるもどきたちは引きずられているのだ。

 そうでなければこの集中はおかしい。



 敵はヒルダに引き寄せられているとベロニカは判断した。

 その時だった。



 

 ぐにゃりと空間が歪んだ。


 ヒルダ。


 イセの声が届いた。




 磁石同士が張り付くように、敵のもどきたちが急に団子にまとまった。

 イセの魔術による干渉だった。

 ベキベキと嫌な音を立て、もどきたちは合一した。


 ベロニカは衝撃を受けた。




「キメラ」




 そこには見たこともない奇怪な生物がいた。

 ライオンと蟻と魚、3つの頭が突き出ていた。

 体は竜であった。硬いうろこに覆われ、鋭い爪を持ち、背には羽が生えていた。

 尾は蛇であった。





「ちょっと貸しなさい!」


 ベロニカは、ヒルダの首から下がるお守り袋を探り、呪符を一枚抜き取った。

 ベロニカはヒルダの手を持ち上げ、その人差し指を握って小さく呪文を唱えた。

 そして、ヒルダの人差し指の指先に向け、フッと息を吹きかけた。


「いってえ!」


 ヒルダの指先がわずかに切れて血が出た。

 ベロニカは、その血を呪符につけた。


「何すんだよ!」

「身代わり作ってんの」


 ベロニカは呪文を唱え始めた。




 象のような大きさのキメラは、ベロニカとヒルダの方へ歩き出した。

 アニヤのハンドガンが火を噴いた。

 魚のえらに当たった。


 キメラは足を止めた。

 魚の頭が口を開けた。

 ぽっかり開いた口から、透明な液体が噴き出した。


 アニヤは走ってかわした。

 アニヤのいた場所に液体が噴射された。

 それは、恐るべき水圧で通路のコンクリートをえぐった。


 アニヤはそのままキメラの横に回り込んだ。

 魚の頭はアニヤの動きを追い、液体を噴射し続けた。

 ガガガガと音を立て、液体は地面をえぐり抜いた。




「行きなさい」


 呪文を唱え終えたベロニカが、呪符を手離した。

 四角い呪符の真ん中から下まで切れ目が入り、まるで足のように動いた。


 呪符はパタパタひらひらと、飛ぶように弾むように走り、アニヤの元へ行った。



 ベロニカは黙った。

 人差し指を唇にあて、ヒルダにも黙るように目配せをした。

 ヒルダは大人しく頷いた。



 呪符は、アニヤからアネモネのところへと今度は動いた。

 ひらひらと、アネモネの肩に乗った。



 ベロニカが小さくつぶやいた。


「やっちまえ」


 ベロニカは、先ほどヒルダが呪符を使った様子を見ており、発動条件を理解していた。

 アネモネの肩に乗った呪符が牡丹色の光を帯びた。



 アニヤに攻撃した後、ヒルダの気配を見失い動きを止めていたキメラが反応した。



 キメラは体ごと、アニヤの方を向いた。

 アニヤの後方に移動していたアネモネに、ヒルダの気配が張り付いている。

 キメラはアニヤを認識した。

 それは、ヒルダに近づくという目的の邪魔をする、排除すべき存在としての認識である。


 キメラの闘気が高まりを見せ、アニヤを威嚇した。



 アニヤは口の中で軽く歯の裏をなめた。

 アニヤはかすかに笑っていた。


「ベイビー、やっとこっちを見てくれた」




 アネモネは、ベロニカを見て頷いた。

 ベロニカは頷き返した。


 ベロニカは、ヒルダの手を引き、再び走り出した。

 あまりの恐ろしさにヒルダは何も言わず従った。

 ベロニカとヒルダは、その場を後にした。










 ベロニカとヒルダは、古代棟の立ち並ぶエリアに辿り着いた。

 その内の建物の一つに入った。

 

 薄曇りの暗さの影響が軽くなったとベロニカは感じた。


 階段を下りた。

 窓のない廊下を進み、突き当たりのドアを開けた。


 ベロニカとヒルダは部屋に転がり込んだ。


 二人とも息を切らし、立ち上がれずに座り込んだ。

 しばらく、ただひたすら呼吸した。



 ヒルダはかつてないほどの恐怖に打ち震えていた。

 戦いの真ん中に放りこまれ、標的となって狙われたのだから当然である。



 部屋はとりたてて特徴のない客間に見えた。

 テーブルとイスがあったが、ヒルダはそのイスに座ることすらできず、床にへたりこんでいた。



 一足先に呼吸を整えたベロニカが、声をかけた。


「ひと安心。ヒルダの力は止まっている」


 ヒルダは震えながら腹を立てていた。

 勝手な女に振り回されて、怖い目に合わされたという怒りがあった。

  

 しかし、泣きぼくろの美しいこのベロニカという女は、恐ろしい魔術を使う怖い女なのだ。

 ヒルダは表だって逆らうこともできず、悔しい気持ちでべそをかいていた。

 額の汗を拭うと、さっき切られた指先から血がにじんでいた。


「痛てえ」


 せめてもの嫌味にように、ヒルダはわざとらしく人差し指を見て、そう言った。

 ベロニカは横からすぐに、その人差し指をつかんだ。

 ヒルダは驚いた。

 ベロニカは、ぺろりとその指をなめたのだ。




「私、ダメな女も大好物よ」




 ベロニカは鮮やかに微笑んだ。

 ヒルダは茫然とした。

 指先に妙に艶めかしい感触が残っていた。

 今、どんでもないことを言われた気がする。


 ヒルダは慌てて手を引いた。


「ダメな女扱いしてんじゃねえよ。あたしは大体のことはできるんだ」


 悪態にも力が入りきらないヒルダであった。

 ベロニカはくすくすと笑いながら言った。


「お化粧、下手ね。せっかくのエプロン姿がもったいない」


 ヒルダは真っ赤になった。

 さらにベロニカの愛でるような眼差しまで受けて、ヒルダはピキッと固まってしまった。





 お姉さま。





 一瞬頭に浮かんだ単語を、ヒルダは必死になって打ち消した。

 心拍数がおかしかった。



 ベロニカは、おたおたするヒルダを見ながら立ち上がった。


「さて」

「行っちゃうの?」


 ヒルダは急激な不安に襲われた。

 これまでは恐ろしい目に合っても、守ってくれる誰かが側にいた。

 おさまりかけていた震えが、ぶり返してきた。


 ベロニカは言った。


「どこもかしこもモンスターだらけ。私の力が必要だから」

「こんなところに一人置いて行くなんて鬼だ! 何か来たらどうすんだよ! だいたい、なんなんだよ、ここ」

「ある程度の居住性が確保されているのだけれど。そうね。そういう問題ではないか。得体が知れない場所に一人残されるのは、確かに恐ろしいわよね」


 ベロニカは再び腰を下ろした。

 ベロニカはヒルダの前に優雅な仕草で座り直した。


「ニア国は大陸の東にある半島で、さらに東には海が広がっている」

「何の話してんの」

「この部屋の話。東の海、大東海には行く手を阻む魔の海域があり、魔術も技術もそこを越えることができずにいる。その先は未知の世界」

「何の話」

「この部屋の。それでね、魔の海域のその先の世界の影響が、ニア国に現れていると言われている。ニア国に魔術師が多く生まれるのもその影響ではないかという説もある。地形のせいかしらね。あれよ、パワースポット。ニア国にけっこうあるでしょ。そして、最も強烈で恒常的な力が及んでいるのが、サイゴの塔とサイゴのツギの塔がある場所なのよ」


 ヒルダはひどく怪訝な顔をしていた。

 ベロニカは構わず続けた。


「ここにはサイゴのツギの塔があるわけだけれど、不思議な素材が採れるのよ。そうは言ってもたくさんはないから、とても貴重なのだけれど。魔力を通さない鉱石など、ここにしかない。それを贅沢に使ったのが、この部屋。海の向こうにある未知の世界、その不思議な力が守ってくれる。どう? ミステリアスでステキでしょう」


 魔術から要人を守りたい時。

 術者本人の魔術を封じたい時。

 魔力を暴走させた魔術師を助ける時。


 魔力を封じたいという、さまざまな状況で利用されるのが、この魔封じの間なのであった。


 ベロニカは微笑んで言った。


「だからイセも魔術で干渉できない。ただ、物理的な力でドアを開けることはできてしまうのよね。ま、頑丈なドアだし。私が外側から魔術で封印してあげるから」

「全然安心できないんですけど」


 ヒルダは片眉を上げながら、不信感丸出しで口角を下げた。

 ベロニカはヒルダに問いかけた。


「話、聞いてた?」

「全然意味分かんなかった」

「そんな気がしてた。かわいい」


 ベロニカは鮮やかに微笑みかけた。

 ヒルダは赤くなりながら青ざめるという器用な顔色をしつつ、ヒッと小さく悲鳴を上げた。


 悲鳴ではあるが、イセに迫られた時とは感触が全然違っていた。

 ベロニカに対しては、何とも言えないときめきが混ざってしまうのだ。



 ドキドキするあまり、自分自身、収集がつかなくなったヒルダは早口で話し始めた。


「あたしには男がいる。キングっていう強い男が迎えに来るんだ」

「それまでここで待ってなさい。他のどこよりも安全だから」


 ベロニカは楽しそうに笑って立ち上がった。

 ベロニカがどこかへ行こうとすると、また少し、ヒルダは不安にかられた。


 ベロニカは、そんなヒルダを見下ろして言った。


「ヒルダ。満たされることのない孤独な魂。心に真っ暗な隙間を持つことで、薄曇りの暗さを循環させている。あなたが満たされたら、その能力はどうなるのかしら」

「何か怖いこと言ってる気がする」

「あなたはとても興味深い存在よ。私が満たしてあげましょうか」

「キングがいるってば」

「保護者の方にご挨拶しておいたほうがいいかしらね」


 ベロニカがとぼけた顔で首をかしげた。

 ベロニカはちらりと視線を流し、その色っぽい眼差しがヒルダの目をとらえた。


 ヒッという悲鳴が、再びヒルダの口から出た。

 魔術師、怖い。

 ヒルダはそう実感していた。

 猛烈に胸がドキドキした。




「ふふ、楽しかった。冗談よ。じゃ、そろそろ行くわね」


 ベロニカは、てきぱきとヒルダに指示を出した。


 最後の呪符を手に持ちなさい。

 この扉をこじ開けて入ってくる者がいたら、使いなさい。

 絶対、ここから出てはダメ。

 知らない人が声をかけてくるようなことがあったら、無視しなさい。

 あなたの保護者キングか、私が迎えに来るまで待ってなさい。


 それだけ言うと、ベロニカは白衣を翻し、颯爽と部屋を出て行った。

 閉じたドアには、外側から封印の魔術がかけられた。







 ヒルダは一人、魔封じの間に残された。

 何だか呆気にとられていた。


 ヒルダは、うっすら血のにじむ指先を見下ろした。

 ゆっくりとその手を持ち上げた。


 ヒルダはハッとした。

 持ち上げた手をじっと見た。

 いつの間にか体の震えが止まっていることに、ヒルダは気がついたのだった。




 ベロニカの舌先が触れた人指し指が、ジンジンと痛んだ。

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