女が応じる時
アニヤの頭の中は疑問符でいっぱいだった。
愛する女が泣いてすがるのを振り切って、女になじられながら男のわがままを通す。
そういう話になるはずではなかったのか。
潮の香りが届くアニヤとアネモネの家のダイニングテーブルで、二人は隣り合わせに座っていた。
アニヤはできる限りの誠意をもって、愚かな決断をアネモネに話した。
今の仕事を打ち捨てて、命をかけて、キングがらみの案件に乗り出すのだと。
アネモネの反応は、アニヤの思った通りにはならなかった。
全然ならなかった。
なぜだ。
「面白そうな話ね。私も行くわ」
第一声がそれだった。
アニヤは慌てた。
いや、ダメでしょう。
「じゃ、離婚。男遊びするには、困らないくらい声をかけられてる」
なぜそうなる。
アニヤは大慌てした。
「一緒に行くには命の危険がある。男のやることだ。アネモネには俺の帰りを待っていてほしい」
「それで帰って来なかったら、一生アニヤの影を引きずれと」
「アネモネに何かあったら、俺は耐えられない」
「だから自分だけ好きなことをするの?ずるいわ」
アニヤは困り果てた。
思った通りにならない。全然ならない。
この話はどこに行きつくのだ。
アニヤは男らしく、強気で言ってみた。
「アネモネは俺を怒らせたいのか」
アネモネはのんびりした口調で応じた。
「アニヤはとっくに私を怒らせてる」
え、そうなの?
アニヤの引き締まった筋肉は、ここでは役に立たない。
アネモネの怒りに触れたと聞き、アニヤは眉尻を下げた。
アネモネは、アニヤの右手を両手で持ち上げた。
アネモネの膝の上で、アニヤの右手は子猫のようになでられた。
こんな時なのに、アニヤの手は正確にアネモネの膝の感触も、なでてくる手の感触も拾い上げた。
アニヤはたまらず、その右手でアネモネの膝をまさぐった。
アネモネはため息をついて言った。
「キングがまことの黒にかかわる依頼を持って来た時から、何かが起こるとは予感してた。でも、アニヤが無責任に全部放り投げて、飛び出す決断をするとまでは思わなかった。私の知らないアニヤもいるのね」
「アネモネ」
「まあ、私としては仕事は別に。自分が作ってきたものを自分が壊すのはどうぞご自由に」
「そ、そうか」
「でも、私まで蚊帳の外なんて」
アネモネの膝を行き来していたアニヤの手を、アネモネはギュッと掴んだ。
アニヤはギクッとした。
アネモネは右手でアニヤの小指を握り、左手で残りの指を膝に押しつけた。
アニヤからサーッと血の気が引いた。
折るのか。俺の小指、折るのか。
アネモネはおののくアニヤを見上げた。
アネモネの眼差しは、静かで強靭だった。
「金庫バアは、あの年でギルさんの前を歩いた」
アニヤはハッとした。
あの夜は、自分だけではなくアネモネの中にも影響を残していたのか。
それでもアニヤは、アネモネの美しく滑らかな褐色の肌に、これ以上何の傷も付けたくはなかった。
「アネモネ。金庫バアは特別だ」
「そうね。でも、私は金庫バアの教えを誰よりも受けた女」
アニヤの小指を握るアネモネの手に力が入った。
金庫バア、アネモネに何を教え込んだ。
アニヤは今にも折られそうな小指に再びおののいた。
今から戦地に行くに当たって、効き手が負傷するのは困る。大いに困る。
アニヤは困惑の境地に立ちながら、アネモネに言った。
「俺はアネモネを守りたい」
「それなら、私をあなたの目の届くところに置きなさい」
「俺が行くのは、おそらく命のやり取りをする危険な場だ」
「その時が来たら、一緒に死にましょう」
アニヤの胸が締め付けられた。
アネモネの瞳の奥に確かな覚悟を見た。
アニヤの中で、今後についての方向性が変わり始めた。
思っていた気ままな自由とは違ってしまったが。
「俺の奥さんは困った女だ」
その言葉を聞き、アニヤが折れたのだと気づくと、アネモネはアニヤの小指を解放した。
アネモネはアニヤの右手を持ち上げて、優しく口づけした。
アニヤが呆れたように、しかし眩しいものを見るように、目を細めた。
アネモネは口元にアニヤの手を置いたまま、アニヤを見て言った。
「私は包丁だけでなく、銃も持てる女」
アニヤは痺れた。右手に触れるアネモネの唇の感触もその眼差しも、アニヤを捕らえて離さなかった。
そうだ、これが俺の女だ、という強烈な思いが、唐突にアニヤの全身を駆け巡った。
アニヤは素早くアネモネをつかみ上げ、自分の膝の上に導いた。
アネモネはアニヤの膝にまたがって向かい合うなり、アニヤの頭をかき抱いた。
アニヤはひと時アネモネに抱かれ、それからアネモネを引きはがして口づけた。
血が騒いでいる時だからか、いつも以上にアネモネの唇は甘かった。
なめ尽くすように味わった。
ふと、アニヤは気になって、口づけを止めた。
アネモネの濡れた瞳と唇を見ると、すぐにキスを続けたくなったが、押し留めて質問した。
「アネモネ。組織はどうする」
「ん?大丈夫」
アネモネはにっこりと微笑んだ。
「キャリーとカラカラに一通り教えてある。私がいなくても、あの組織は回る」
アニヤは驚いた。
何たる周到さ。
いずれ自分がいなくなることを分かっていたかのような。
「アネモネ。どこまで予測してた」
「全然何も。ああもう知ったこっちゃないって逃げたくなることあるもの。私、わりと自分勝手な自分を自覚してるから、それに備えていただけで」
「俺の知らないアネモネだ」
「変なとこで似た者同士ね」
アニヤの中の悪童が目を丸くした。
アネモネの中の悪童が、笑いながらあっかんべーをして返した。
アニヤは、いたずらな瞳をキラキラさせるアネモネを見つめた。
アネモネがどこまで本心を言っているのかは分からない。
しかし、アニヤの中の荒くれ者が表に出たら、アネモネはそれに付き合える自分を差し出してきた。
それがすべてだ。
今のアネモネは、他の何よりもアニヤと共に生きて死ぬことを選んだのだとアニヤは理解した。
以前、組織とアニヤは、アネモネの中で天秤にかけられた。そしてアニヤは無惨にも敗れた。
あの時よりずっと、アネモネの中のアニヤの比重は大きくなっているということなのだ。
アニヤは夫婦として積み重ねた月日を思い、その幸福に酔いしれた。
アニヤはアネモネをきつく抱き締めた。
「愛してる、アネモネ」
「愛してる、アニヤ」
即座に返ってきた言葉を飲み込むように、アニヤは再びアネモネの唇を奪った。
口づけるほどに酔いは深まった。
アネモネも、とろけて潤んでどうしようもない顔をしていた。
アニヤは共に酔いしれる女がかわいくて仕方がなかった。
こうして二人の悪童は、つるんで参戦することとなった。




