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男が動く時

 晴天の日、ビヨンドは上機嫌で自宅の庭を歩いていた。

 あずまやにいるリリスに会う目的だった。

 庭を歩くのは久しぶりだったが、ビヨンドは木々の緑に目もくれなかった。

 何しろ、ビヨンドにとっての大きな懸案が、望ましい方向へと動き出したのだ。


 この家を然るべき地位に押し上げる。

 今後の発展と安泰へとつながる。


 屈辱的な立場に二度と陥ることのない高みをビヨンドは目指していた。

 その大きな一手がとうとう動いたことに、ビヨンドは興奮していた。



 あずまやでリリスが寛いでいた。

 ハンナが伴い、飲み物を用意している様子が見えた。


 ビヨンドは声もかけずあずまやに歩み入り、リリスの向かい側の席に腰かけた。

 リリスは驚いて肩を跳ねあげた後、眉をひそめてビヨンドを見た。

 ハンナはあずまやの外に控えた。



 ビヨンドは長い脚を組んで、傲然と言った。


「フロウをこの家に迎え入れる」 


 リリスは唇を噛みしめ、硬い表情でうつむいた。

 ビヨンドはリリスの拒否的な様子に不快を感じたが、話を続けた。


「ミカエルも希望していることだ。何より、常春の華本家の頭首が直接、俺に挨拶に来たのだ。この意味が分かるか?本家頭首ガロンが直接だぞ」


 ビヨンドはリリスの口を封じるかのように、矢継ぎ早に話し始めた。




 常春の華の頭首ガロンは、ある日突然、ビヨンドに連絡を寄越した。そして、その日のうちに直接会うこととなった。


 縁談の件と聞いた時、ビヨンドの全身からブワッと汗が噴き出した。

 決して逃してはならない好機、それが動き出したのだと奮い立った。


 深夜、密談に適した高級料亭でガロンとビヨンドは向かい合った。

 ガロンはビヨンドより十ほど年上であった。

 ビヨンドは、元からガロンの顔を知ってはいたが、実際に相対してみると、年を感じさせない引き締まった体つきも分かり、精力的な印象を受けた。

 ビヨンドは、ガロンに自分と同じ臭いを感じた。



 ガロンは、息子の縁談の相手として、ビヨンドの娘フロウを検討しているのだと話した。

 ビヨンドについても、フロウについても、洗いざらい調査したことを隠さなかった。

 ビヨンドもその程度、承知の上だった。 


 ここまで具体的に動き始めた理由として、ユウカリの両親の強い薦めがあったことが明かされた。

 ビヨンドも理解していた。それ以外にはなかった。

 ビヨンドの希望を、ユウカリの両親はよく分かってくれていた。



 ガロンは言った。

 家名の有無は問題ではない。

 それよりも、優秀な人材、発展的な家と縁をつなぎたい。

 ビヨンドは間違いなく優れた事業家であり、その息子ミカエルはどの方面から調査しても非常に抜きん出た才を示している。



 ビヨンドは喜びに満たされた。

 すぐさま、どんな手を使ってでも、フロウを家に迎え入れるのだと決めた。

 今後の段取りに頭が飛びそうになっていたビヨンドに、ガロンが予想外の話をし始めた。



 ここで謝罪しなければならないことがある。

 そう言ったガロンは、実際にビヨンドに頭を下げた。


 ビヨンドは非常に驚いた。

 家名を持つ目上の人間がとる態度ではなかった。



 ガロンは幾分苦しげに言った。


 実は、フロウを預かっている。


 ビヨンドは飛び上がらんほどに驚いた。



 ガロンは続けた。

 常春の華の跡取り息子との縁談ゆえ、跡継ぎを生み育てる仕事もある訳だが、いかにビヨンドとミカエルが優れていようと、フロウ本人の資質を問わない訳にはいかない。


 とにかく、フロウについてよく知るために我が家に迎え入れ、その人となりを確かめさせてもらっている。


 事後承諾で申し訳ない。

 しばらく預からせてもらいたい。

 強引なやり方で申し訳ないが、決して悪いようにはしないつもりだ。


 どうか、フロウの周囲の者たちが大騒ぎしないよう、フロウの母親を始めとする関係者に、ビヨンドから説明をしておいてほしい。




 ビヨンドの想定を遥かに超えた話だった。






 ビヨンドが興奮気味に話すのを聞いていたリリスは、青ざめた顔を上げて言った。


「恥知らず。その話に何も感じないの?」


 ビヨンドの眉がピクリと動いた。

 リリスは怯まずに言い募った。


「そんな非常識なやり方をする家に嫁いで、フロウが幸せになると思う?権力をいいことに、頭がおかしくなっているとしか思えないわ」



 ビヨンドは鼻で笑った。


「居丈高で身勝手なやり方だが、そうであることで逆にこちらの立場が強くなるのだ。大事な娘に勝手にそんな扱いをして、破談になど絶対にさせない。物事の駆け引きとはそういうものだ。ものを知らないお前が口出しをすることではない」


 ビヨンドはそれから多少歩み寄るように、声を和らげて言った。


「とにかく、この家にフロウを迎え入れることは決定事項だ。必要な花嫁教育もこれからすればよい。恥だの何だのくだらないことを言っている場合ではない。常春の華に連なる家の妻になるのだ。リリスもいい加減に腹をくくって、それらしくしてほしい」


 青白かったリリスの頬に赤みが差した。

 リリスは怒っていた。

 その感情のままに、ビヨンドに言い返した。


「あちらが、あなたの思うように動いてくれる訳ありません。こんなおかしな話をよいものと受け取る神経が信じられない」


 逆らい続けるリリスに、ビヨンドも怒りを向けた。


「感情的な女だ。くだらないものに振り回されてグダグダと遠回りをする。弱い人間はこれだから腹立たしい。ミカエルもフロウに会いに行っている。一緒に常春の華本家に招かれているのかもしれない。この話はすでに進んでいるのだ」


 リリスは手の震えを押さえるように握り込み、ビヨンドの怒りに負けまいと声を張った。


「ミカエルがフロウに会いに行っているのは知っています。でも、今回のようなやり方にミカエルが頷くとは思えません」


 ビヨンドは拳を握りしめ、吐き捨てるように言った。


「ミカエルはフロウに会いに行くと行って、仕事から手を引き、現にしばらく帰ってきていない。お前がどう思おうと勝手だが、ミカエルはやる時はやる、俺の息子だ」


 リリスは果敢に言い返した。


「いいえ。あなたがどう思おうと勝手だけれど、ミカエルは曲がったことが大嫌いな、私の息子よ」


 二人は張り詰めた空気の中でにらみ合った。






 そこへドメスが静かにやってきた。

 ビヨンドに来客を伝えた。

 客は、沢の下の双子だった。


「取り込み中だ。後にしろ」

「通して」


 ビヨンドとリリスの間逆の指示にドメスは対応を決めかねた。

 そうしてわずかに戸惑ううちに、沢の下の双子がずけずけと入り込んで来た。

 二人に気押されてここまで案内した若い侍女をハンナは咎めた。


「いーじゃないの、身内でしょ」

「急ぎなのよ。うるさいこと言いっこなし」


 アルルとラライはまったく悪びれたところもなく、堂々と登場した。

 ビヨンドのこめかみに血管が浮かび上がった。

 リリスは何事かと首をかしげた。



 アルルは光沢のある濃いグレーのパンツスーツ姿で、颯爽とリリスに歩み寄った。


「都合よくお揃いで。リリス、あなた今日のお肌の調子、いまいちね」


 ラライは茶色の細いプリーツがたくさん入ったワンピースを着こなし、軽快な足取りでリリスに向かいながらビヨンドを一瞥した。


「ビヨンド、久しぶりね。あんたの顔を見るとイライラするわ」


 

 ビヨンドは怒りを織り交ぜた不機嫌さを前面に押し出し、リリスの両脇に座った双子をにらみながら言った。


「何の用だ」


 アルルはまったくその視線に怯むことなく、むしろあざ笑うように言った。


「あんたのところの調査員、弱っちいわね」


 ラライも追い打ちをかけるように言葉をかぶせた。


「本当。感謝してほしいわ。うちの調査員は強くて優秀よ」


 ビヨンドの中に警戒心が湧きあがった。


「何の話をしている」



 リリスはぽかんとする以外になかった。

 震えは止まっていた。


 アルルはごく短い前髪を手で払いながら、顎を上げて言った。


「古書店とフロウにつけてた調査員。叩きのめされて、海沿い倉庫にくくられて放っておかれてた。あれ、助けなきゃ死んでたわよ」


 ビヨンドは思いもよらない話に衝撃を受けた。

 ラライはリリスに申し訳なさそうな顔を向けた。


「ごめんね、リリス。今まで黙ってて。あなたの話を聞いてから、アルルと話して私たちも現状把握のために調査を入れてたのよ。話を戻すけど、とにかくあんたのとこのひ弱な調査員をうちの調査員が助けましたから」



 ビヨンドは衝撃から立ち直ることができずにいた。

 まったくの想定外だった。


「何が起こっている」


 アルルはビヨンドに答えた。


「うちの優秀な調査員の報告があんまりだったから、今日、駆け付けたのよ。フロウは先日、夜間に連れ去られた。その際、周囲を張っていた調査員たちは、軒並みボコボコにされた」


 リリスは口を両手で覆った。


「何てこと」


 ラライが追加で説明した。


「うちの調査員は命からがら逃れた。フロウの後を追跡することは不可能だった。代わりと言っちゃなんだけど、あんたのとこの調査員の連れて行かれた先まで追って、助けた」



 ビヨンドの頭はまとまらなかった。

 どことどこがどうつながる話なのか、理解できなかった。


「何だ。それは何だ」


 アルルは厳しい顔をして、腕組みをしながら言った。


「うちの調査員は、ただ事じゃないからこの調査から手を引くべきだと。これ以上、フロウを追ってはならない。この件の真相を知ろうとしてはならないと言っている」


 ビヨンドは困惑の中でつぶやいた。


「常春の華本家がそんな。縁談一つに」


 ラライは呆れた声で言った。


「縁談?全然、そんな空気じゃないけど」







 そんな時だった。

 再びドメスが来客を伝えた。


 いら立つビヨンドは、取り込み中だから追い出せと言った。

 ユウカリ様にそのようにお伝えしますとドメスが言った。


 ビヨンドは慌てた。

 常春の華ユウカリだ。


 慌ててユウカリを呼び込むようビヨンドは指示した。



 ユウカリが失礼しますと挨拶すると、顎先までのワンレングスの黒髪が揺れた。

 ビヨンドとリリスの他に、見たことのない妙に迫力のある女が二人いて、ユウカリは尻込みした。

 ビヨンドは、忌々しげな視線を二人に送った後、穏やかな口調でどうぞ気にせず、本日のご用件をまずは、とユウカリにうながした。


 ユウカリはためらいがちに切り出した。


「ミカエルと連絡がつかなくなり、しばらくたちます。お家のことなど、いろいろ立て込んでいた時期かと思います。何かあったのではないかとすごく心配になりまして、恥を忍んで来てしまいました」


 ビヨンドは今度こそ蒼白になった。


「常春の華ご本家様に、妹フロウとともに、ミカエルも滞在しているのでは?」


 ユウカリは怪訝な顔をした。


「本家に滞在?そんな話はまったく聞きません。うちとあちらは母親同士、仲がいいのです。そういうことがもしあれば、すぐに聞こえてくるはずですが」


 ユウカリは、まったく突然過ぎて何の話か理解できないという顔をしていた。

 アルルとラライは目を見合わせた。

 リリスの背中を冷たい汗が落ちた。



 ビヨンドは混乱の中で何とか言葉をつないだ。


「ミカエルはフロウに会いに行きました。だが、家に帰ってきてはいない。連絡も一度もない」


 ユウカリは驚いた。


「ご家族もミカエルの行方が分からないんですか」



 アルルは手のひらを額に当てて言った。


「フロウは誰かに夜間、拉致された。張り付いていた調査員はボコボコ。この件から手を引いた方がいいと言っている。フロウに会いに行ったミカエルは行方不明」


 ビヨンドは弱い声で言った。


「だが、確かに常春の華頭首が直接俺に挨拶に来たのだ。フロウを嫁として迎え入れる前段階として、本家に預かっていると」


 ユウカリはびっくり仰天した。


「そんなやり方、聞いたこともありません」



 リリスはたまりかねて声を発した。


「ビヨンド。もう一度、常春の華ご本家に問い合わせを」


 ビヨンドはいら立ちを隠すこともできず声を荒げた。


「言われるまでもない!うるさい黙れ!お前は口出しするな!」


 リリスは唇を噛んで両手を握りしめた。

 アルルが半目で言った。


「腹の立つ男」


 ラライが即座に続けた。


「愚かな男」


 ビヨンドのいら立ちは膨れ上がった。


「何だと」



 アルルはすっくと立ち上がった。


「行きましょう、リリス。こんな男のそばにいたら、いつまでも肌荒れが治らない」


 ラライも立ち上がり、スカートの裾を払った。


「勝手にイライラしてらっしゃい。身勝手な欲望に滅ぼされるがいい。リリス、手ぶらでいいのよ」


 ビヨンドはユウカリの存在も忘れ、双子に対する怒りをむき出しにした。


「貴様ら。リリスをたぶらかしやがって」


 アルルは自分を抱くようにして見せた。


「ああ怖い怖い。本性丸出し」


 ラライは蔑むような視線をビヨンドに送った。


「暴力的な男。最低」




 ユウカリは見たこともないビヨンドの激しい怒りの様と、双子の実に女性的な攻撃の応酬に、どうすることもできずその場にいることしかできなかった。



 アルルはドメスとハンナに言い渡した。


「奥様は沢の下の双子のどちらかのところにいるから、何かあったら連絡なさい」


 アルルとラライは示し合わせたようにリリスの両脇に腕を差し入れた。

 リリスが唖然とするうちに、半ば吊り上げられるように立たされ、引っ張って行かれた。


 アルルとラライはリリスを連れて、その場を去った。





 ビヨンドは歯噛みした。

 ユウカリはためらいながらもビヨンドに確認をした。


「失礼します。もう一度伺いますが、常春の華本家頭首ガロン直々の挨拶があり、妹フロウさんが連れ去られ、ミカエルは行方不明なんですね」


 ビヨンドは声をかけられてやっと我に返った。

 ユウカリに向かい、丁寧な物腰を取り戻して言った。


「申し訳ありません、お見苦しいものを。いや、ミカエルは行方不明と言っても、いい歳の男です。誰にも連絡せず好き勝手したいこともあるでしょうから」


 ユウカリは眉をひそめて尋ねた。


「今までにも同様のことがあったのですか?」


 ビヨンドは少し言葉に詰まりながら答えた。


「いえ、初めてですが」


 ユウカリは真剣な目をしてビヨンドに言った。


「人に心配をかける身勝手は、俺の知るミカエルと合致しません。俺の方でも探してみたいと思います。すみません、失礼します」


 ユウカリは走って帰って行った。



 ただ一人、庭のあずまやに残されたビヨンドは頭を抱えた。

 ほんの少し前まで、今後の発展を確信し大いに奮い立っていた心が行き場を失った。

 何をどう考えるべきか思考がさまよった。


 ビヨンドはいつもの自分に立ち返ることにした。

 まずは行動。

 常春の華への連絡をするべく、ビヨンドも庭を離れたのだった。









 ユウカリは、迷わず便利屋“猫の手”へと駆け込んだ。

 驚くほど速やかに店主のもとに通された。


 セピア色の髪を緩く束ねた店主は、ややまなじりの下がった穏やかな目をユウカリに向けた。

 ユウカリの中にすがりつきたいような気持ちが湧いた。


 ユウカリは応接ソファに座る動作の時間も惜しんで、話し出した。

 慌てているせいで、若干、支離滅裂ではあったが、店主がゆったりと応じてくれたので、ユウカリは思い付くまま、何もかも話すことができた。


「ミカエルの身が危険にさらされているかもしれません。探してほしいのですが、こういった、危険の可能性がある人探しは、引き受けてもらえるのでしょうか」


 ユウカリは切羽詰まった声で尋ねた。


 店主は両手の指を組んで、身を乗り出して答えた。


「お引き受けします」


 即答だった。

 店主はのどかな雰囲気を消し、意志をこめた声で話した。


「非常事態に何もできないなど、我が店の名折れです。たとえ他がどこも引き受けなかったとしても、あなたのご心配はうちが丸ごと引き受ける」


 ユウカリは、他のどこにも依頼はしていないが、他のどこかがこの話を引き受けてくれるなど、到底思えなかった。

 店主は重ねて力強く言った。


「あなたの依頼は間違いなくうちの案件です」


 ユウカリの胸の奥がじーんと熱くなった。




 なんたる男気。




 そう思って見ると、シャツの上からでも店主の胸板の厚さや二の腕の太さが確認できた。

 ユウカリの身近にいる人たちとは違う。この人はやはり、ケンカ上等、という世界を生き抜いてきたのだろうかと思わされた。


 その視線を充分に理解しながら、店主は片方の唇の端を上げて微笑んだ。


「かたぎです。ご安心を」


 ユウカリから見ても男前な笑顔だった。

 ぐっときた。

 ピンときた。

 この人しかいないと思えた。


 お願いしますとユウカリは何度も頭を下げた。








 打ち合わせを終え、ユウカリを見送った後、店主アニヤは湧きたつ血に身を震わせた。



 来た、と感じた。



 闇雲に荒事のすべてを引き受ける訳ではない。

 待っていた知らせに他ならないから飛び付いた。


 フロウとミカエルの行方探し。


 キングと同じ舞台に乗るシナリオが手渡された。

 そうであるなら演者は決まっている。

 当然、筆頭はアニヤ自身だ。

 



 アニヤは素早く動いた。

 そのつもりで準備もしていた。


 従業員へ指示を飛ばし、今引き受けている仕事を最後に“猫の手”は臨時休業にすることを周知した。

 誰かに店を任せることも考えたが、責任を負わせることのできる人材が思い浮かばなかった。

 何でも自分でこなしてきたことが裏目に出た。

 もし、生きて再びこの仕事をするとなった時は、一考しようと心にメモした。


 現在すでに引き受けている仕事については、やり遂げるよう従業員たちに伝えた。

 それほど困難な案件は今は抱えていない。あったとしても小さなトラブルで対応しきれるだろうと判断した。


 先輩の店やそのネットワークの中で、“猫の手”休業中の従業員の仕事も賄ってもらえた。

 応援という扱いで給料は減るが、やむを得ない。

 万一、アニヤが戻らなかった時のことも先輩には頼んであった。

 再就職先について、先輩が従業員たちの相談に乗ることになっていた。



 この舞台に乗ることは、築き上げた信頼も生活も棒に振るリスクをはらむのだとアニヤは理解していた。

 アニヤについてきてくれた従業員たちを踏みにじる愚行なのだと分かっていた。



 常春の華ユウカリの依頼である。



 立派な大義名分ができてしまった。

 口実はいくらでも後付けすることができる。


 もっともらしいことをユウカリにも言った。

 しかし、この件に乗り出す動機は、本当はもっとずっと単純だった。





 バカがしたいのだ。





 実際、この機に至ってみると、アニヤの中に眠っていたものの根深さが、ありありと浮かび上がってきた。


 命をかけて日々を生きるキングの自由に、いら立ちを覚え始めたのはいつからなのか。

 アニヤは、今回の件で命を落とす可能性も理解していた。

 その理解は、何の抑止力にもならなかった。



 現状を守るための一番正しい選択は、今回の依頼を引き受けない、ということだ。

 他の店が手を出さないとしたら、それは実にまっとうな判断なのだ。



 アニヤはいつからか、下の者たちを率いる立場になっていた。破壊的で爆発的なものを、いなし、抑え、まとめ上げることを期待され、そうしてきた。

 キングを一度失ってそうなった部分もあるが、決して悪い道ではなかったのだが。 



 アニヤは、自分は大人になりきれないクソガキだと自嘲した。



 アニヤの中にはたちの悪い悪童がいる。

 くすぶっていた悪童の破壊願望が、とんでもないところで顔を出す。

 自ら積み上げたものを瞬く間に台無しにしようとする。

 


 男とはそういう生き物なのか、自分が生来そういう人間なのか、たまたま生きてきた過程がそうさせるのか、アニヤには分からなかった。


 そんなアニヤにも分かることがある。





 これはきっと最愛の女を泣かせる愚かさだ。





 分かっていても、どうしようもない。


 秤にかけられない別次元だった。年月を積み重ねた今を失うとしても、命を惜しまず飛び込みたい刹那的衝動があった。それだけ魅力のある危機だった。何しろ、キングが絡んでいるのだから。

 ちょっとした寄り道でおさまらない。命がけのバカさ加減を自覚してしまうと、いたたまれない気持ちも若干ありはするのだが。







 アニヤは走り出す最後の準備として、アネモネを目指し足を踏み出した。

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