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兄と師匠ともう一人

 ミドリ地区にある裏通りの古書店でハシマとミカエルは対峙した。


 ハシマは気だるい表情で命じた。


「スイレン、お茶を入れなさい」


 ハシマを急襲した後、あっさりと倒され、ベロニカの術も解けてしまったスイレンは深い困惑の中にあった。

 そこに飛んできた明確な指示は、妙なことだが今のスイレンには救いのようにも感じられた。

 スイレンは飛び付くようにハシマの命に従った。

 ダイニングに向かい、おぼつかない手つきでやかんに火をかけた。




 ミカエルはハシマに言った。


「僕はフロウの兄です」


 ハシマは人差し指を折り曲げて顎に当てた。

 それはフロウの記憶を探った時にすでに知っていた。

 フロウがそう思っているという段階までだが。


「確かに、フロウと同じ血を感じます」


 ハシマは、フロウとミカエルが間違いなく兄妹なのだと理解した。


 ハシマはミカエルに歩み寄った。

 背の高いミカエルを間近で見上げると、小さく息を吐きながら言った。


「あなたを見ると興奮します」


 ミカエルは目を丸くした。

 キッチンでティーセットを探していたスイレンは、それを聞いて不器用な手をすべらせた。食器がガシャンと音を立てたが、誰も反応しなかった。


 ハシマは色気と害意を隠さない笑顔で、ミカエルを上から下まで見て言った。


「決闘でどうしようもなく血が騒いでいるのです。あなたは頑丈そうだ。フロウの代用品として完璧です」


 スイレンはキッチンで身を縮めた。

 自分は無謀にも悪魔にケンカを売ったのだと思い至った。


 ミカエルは揺るがなかった。

 スカイブルーの瞳がまっすぐにハシマを見返した。


「あなたは偽悪的すぎる。そういうことではないと分かっているはずです」


 ハシマが放つ毒気を払うような、清浄な空気をミカエルはまとっていた。

 ハシマはつまらなそうに問いかけた。


「何をもって偽悪的と」

「フロウがあなたを信頼している」


 ハシマの瞳がほんのわずかに揺れた。寂しさに似た一抹の感情がその瞳をよぎった。



 スイレンはドキッとして茶葉をこぼした。ただでも手慣れていない作業中でありながら、スイレンの意識はハシマに吸い寄せられていた。


 あの目に覗き込まれてから自分はどうかしてしまった。


 そう思う自意識はあるのだが、スイレンはハシマに目を奪われていた。ハシマの一挙手一投足、その視線にさえ、心を乱された。




 ハシマはミカエルに背を向けて、左手の人差し指をクルクルと回した。

 乱れた応接セットが整然と並び直った。


「どうぞ、おかけください」


 フロウの名を出したせいなのかどうか。

 ハシマはこれまでより丁寧な物腰でミカエルをうながした。



 ミカエルは会釈をしてからソファに腰かけた。

 そして、単刀直入に用件を切り出した。


「僕は兄としてフロウに会おうと思っています。できればこれからの人生を助けあいたい。それに当たってご挨拶に来たのですが、加えてあなたにお聞きしたいことがあるのです」


 ミカエルが一言、言うたびに、ハシマのこめかみが動いた。

 スイレンはその緊張感を受けて、ティーポットに注ぐお湯をこぼした。


 ミカエルは続けた。


「フロウには一部の記憶がない。何があったのか、どういうことになっているのか、教えてもらいたいのです」


 一瞬の間があった。




「あはははは!」




 唐突にハシマは笑った。

 スイレンはティーポットをひっくりかえしてしまい、今までの作業を台無しにした。

 ミカエルは眉をひそめた。


「何を笑うのです」

「何もかも」


 ハシマは目尻に浮かんだ涙をぬぐった。


「破廉恥な調査員たちから、僕らの様子はよくよく聞いているのでしょう?」


 ミカエルの頬に朱が上った。


「あれは」

「無粋なのぞき見がくっついているから、フロウに手が出せませんでした。ご満足ですか?」

「いえ。調査については、本当に申し訳ないと」


 それは、ミカエルにとっての痛点だった。


 興信所による調査は、ミカエルも諸手を上げて賛成していた訳ではない。しかし、罪悪感を抱きながらも、その報告書を毎回食い入るように見ていたことも事実だった。



 ハシマは遠慮なく続けた。


「フロウの記憶の件については、あなたの方がご存じなのでは?どんなことがあったのか、むしろ僕が聞かせてほしいくらいです」


 ミカエルは返す言葉がなかった。

 ハシマは笑みをおさめて、刺すような冷たい視線をミカエルに向けた。


「そうですね、逆にお聞きしましょう。ずっと放っておいたフロウに今さら何の用ですか。名ばかりの肉親に何の権利があると?」


 ミカエルの血の気が引いた。

 ハシマは的確にミカエルの急所を突いた。


 ミカエルは呼吸のペースも分からなくなり、息苦しさを感じた。

 それでも、何とかハシマに言い募った。


「たった一人の妹なのです。今まで何もできなかったことを後悔しています。恥ずべき行為もありました。心から謝罪したい。今までの分も大事にしたいのです。僕とフロウには、切っても切れない強い絆があるのです」

「たかが血のつながりがどれほどのものだと」


 ハシマは手を抜かなかった。畳みかけるように言った。


「死にかけたあの子をこの世につなぎ止めました。痛みも孤独も受け止めました。慈しみ育てました。衣食住を与え、薬師として鍛え、病気の際には看病もしました。もっと言いましょうか?いくらでもありますよ。すべて、僕がしたことです。ところで、あなたは一体何を?」


 ミカエルは言葉を失った。




 スイレンはようやくティーポットにお湯を入れ直した。半分以上、ハシマとミカエルとのやり取りに気をとられながら、よくやれたものである。


 スイレンはハシマを見ていた。


 どう考えても、気押されているのはミカエルの方である。

 それなのに、スイレンには、ハシマが悲しく見えた。


 血のつながりという確かな絆の前に、ハシマが必死で牙をむいている。


 スイレンの目にはそう映った。

 まったく事情は分からないが、スイレンはハシマに異様に肩入れしている自分に気がついた。




「スイレン、お茶」




 急にハシマから声がかかり、スイレンは飛び上がるほど驚いた。

 激しく高鳴る鼓動に手を震わせながら、ティーカップにお茶を注いだ。


 二つのカップの取っ手をつまみ持ち、そろそろとテーブルまで運んだ。


 ミカエルは蒼白になり下を向いていた。


 見事な精神攻撃、と思いながら、スイレンはその場を立ち去ろうとした。

 お茶を一口飲んだハシマがスイレンを呼び止めた。

 スイレンの心臓は止まりそうになった。



「ぬるい。苦い。渋い。遅い。ソーサーがない。お盆を使っていない」



 ハシマは次々に指摘した。

 スイレンの体は面白いくらいにビクビク跳ねた。


「スイレン」

「はい」


 ハシマがスイレンを見上げた。

 そして、柔らかく微笑んだ。





「僕が教えてあげましょう」





 ハシマの優しい笑顔にスイレンは釘づけになった。

 胸が今までにない程の高鳴りを示した。




 とっくに落ちてる。




 スイレンは明確に理解した。ハシマも感じ取ったはずである。

 魔術師には男女の別なく、しばしば激しい感情のやり取りがある。

 スイレンは敵だったはずのハシマに、あっけなく魅せられてしまったのだった。








 ハシマがサッと立ち上がった。


「来る」


 短く言うと、小さな声で呪文を唱え始めた。

 スレインはハッとして周囲の気配を窺った。

 大きな力が猛烈な速さで向かってくるのが分かった。


 ミカエルも立ち上がり、周囲を警戒した。


 直後、ドドーンという激しい音がして家が揺れた。

 ミカエルはバランスを取った。スイレンは膝をついた。


 ハシマはソファの背につかまりながら、舌打ちをした。


「防ぎきれなかったか。また屋根を修理しなくては」

「次が来る!」

「見えてる。スイレン、防御の援護をしなさい」


 ハシマは冷静だった。

 次々と呪文が唱えられ、部屋のあちこちに魔法陣が浮かび上がった。

 スイレンも呪文を唱和した。


 ミカエルが目を見張る中で、次の攻撃が飛んできた。


 光の矢が天井を突き破り、続々と降り注いだ。

 緑に光る小さな魔法陣がいくつも舞い上がり、盾のように矢を受け止めた。盾に当たると矢は砕けて消えた。


 盾の間に合わなかった矢は、床に突き刺さるとやっとその光を消した。


 ミカエルはたぐいまれなる反射神経を発揮し、魔法陣では防ぎきれず降ってきた光の矢をかわした。




 やがて、攻撃が止んだ。

 天井と床にいくつもの穴が残った。


 ハシマはため息をついた。


「今までで一番ひどい攻撃です。スイレンの術が解けたことにベロニカが気づいたのでしょう」

「私にかかっているスパイアイ」

「それは嘘です」


 スイレンは驚いてハシマを見た。

 ハシマは淡々と言った。


「スイレンの術が緩んだり何か不具合が起きた時に、自動的に知らせが飛ぶようにしていたのでしょう。僕が警告したからでしょうか。そうだとしてもその前からだとしても、ベロニカらしい慎重さです。スイレンが恐慌状態に陥った時に助けるためですよ、きっと」


 ハシマはクスリと笑った。


「居場所も分かる迷子札です。ところが、所在がここだと知って、僕に対する怒りにかられた。大事に囲っていたスイレン諸共、吹き飛ばしてしまおうとするあたりも彼女らしい」

「嘘とはどこからどこまで」

「全部。スイレンは確かに自分の意思でここに来たのです。ベロニカがどこまでスイレンを支配しているつもりなのかは分かりませんが、あなたを操ってなどいない」


 スイレンは呆気にとられた。

 まんまと騙され、動揺に付け込まれて術を解かれてしまったのだ。

 ハシマは幾分申し訳なさそうな雰囲気も付け加えてスイレンを見た。


「僕は、スイレンにお茶の淹れ方を教えたい。そのためには、一緒にいて寝首をかかれるようなことは困るのです」

「いや、私は」

「ベロニカを裏切れ、と言っているのです」


 ハシマはきっぱりと言い渡した。

 スイレンは苦しげに顔を歪めた。


「ベロニカは私を救ってくれた。重責につぶされそうな私の心に、不安も恐怖も感じなくてすむ平穏を与えてくれた。私はベロニカに報いたかった。苦しむベロニカを助けたかった」

「では、もう一度、ベロニカに同じ術をかけてもらいますか。そしてまた、僕を殺しに来ますか」

「何て残酷な人だ。私の心はもう戻れないところまで来ているのに」


 スイレンは苦痛をたたえた顔をハシマに向けた。

 ハシマはスイレンの目を覗き込んだ。


「では、裏切りなさい」


 スイレンは、シャツの胸元をギュッと握りしめた。

 あえぐように息をし、何度もまばたきをした。

 どうするべきなのか、頭が混乱していた。





「その二択はおかしい」





 それまで黙ってそこにいたミカエルが、急に声を発した。

 スイレンはハッとしてミカエルを見た。


 ミカエルは真剣な口調で言った。


「殺すか裏切るか。そんなの選べません。人の覚悟をそんな風に試すのは悪趣味だ」


 ハシマは腕組みをして目を細めた。

 ミカエルはうろたえるスイレンに向かって言った。


「事情はよくは分かりませんが、ベロニカさんと話し合ってきてはいかがですか。感謝を伝え、それでもやむにやまれずのことなのだと謝罪するのです」

「修羅場。余計に残酷では」


 つまらなそうにハシマが言った。

 ミカエルは首を振った。


「理由も分からず、味方だったスイレンさんがハシマさんについたら、ベロニカさんはきっと何より苦しみます。しっかりと話して、きちんと憎まれるべきだ」

「ベロニカはスイレンを切り刻むだろう」

「ハシマさんを殺しに来るくらいの力があるのなら、生き残ることもできるはずだ」


 ミカエルはハシマの言葉をするりとかわし、スイレンに語りかけた。





「同じ覚悟なら、憎まれても生き抜く覚悟を」





 スイレンはミカエルの言葉に心を動かされた。

 今までの自分に足りなかったのは、痛みを抱える覚悟だったのか。


「私はハシマを殺せない」


 スイレンはハシマを見た。

 ハシマはスイレンを見返した。

 スイレンは続けた。


「私はベロニカに会って許しを請う。許されなくてもハシマといたい。ハシマを知りたい」


 スイレンは、決意を込めて言った。

 ミカエルは頷いた。

 ハシマはため息をついて、スイレンに問いかけた。


「僕はひとたび手に入れたものを手離したくないのです。必ず戻ってきてくれますか、スイレン」


 スイレンは、ハシマの瞳が深くまで自分を捕らえて離さないことを理解していた。


「必ず戻ります」

「信じています」


 ハシマはスイレンを送り出した。





 ハシマはミカエルを見た。


「帰りなさい。二度と来ないでください」

「イヤです。僕をここにおいてください」


 ハシマは予想外のミカエルの言葉に驚いた。

 ミカエルは言った。


「はねのける前に、僕のことを知ってください」

「決闘中で忙しいのですが。流れ弾で死にますよ」

「屋根を修理します。自分の命は自分で守ります」

「しつこい。本気で代用してやろうか」

「また、そういうことを。床もふさぎますから」


 先ほどまでしおれていたミカエルは、すっかり息を吹き返した。

 そんなミカエルを、ハシマは追い出しきれなかった。

 スイレンやベロニカへの対処に、さすがに疲れていたのかもしれない。










 ミカエルは裏通りの古書店に滞在した。

 数日経った。

 スイレンはまだ戻らなかった。


 連日飛んでくるベロニカの攻撃をかわしながら、ミカエルは床も屋根も修理した。修理した端からまた破壊されることも多かった。


 ハシマは律儀にミカエルの分の食事も用意した。

 食卓を囲みながら、ミカエルは自分のことを話し、ハシマのことを聞き、フロウについても尋ねた。

 ハシマは気まぐれに返事をした。


 ミカエルは、ハシマがフロウの命を助ける魔術を施した際に、ミカエルのことを知ったのだと理解した。

 フロウの記憶をのぞき見したのではなく、命を救うための経過に含まれた必然だったのだとハシマは話した。その話に含まれるのは、勿論、興信所を使っているミカエルへの皮肉である。

 ミカエルは何度も謝罪した。


 ハシマはそのようにチクチクとミカエルの痛いところを攻撃した。

 ミカエルは折々差しはさまれるその攻撃を甘んじて受け入れた。



 それにしても。

 ミカエルは不思議な気持ちでハシマを見た。


 フロウを囲いこむ憎たらしい師匠、と思っていたのだが。

 知るほどに、ハシマには危うい魅力を感じた。




 ミカエルに対しては、気に入らないという態度を隠しもしないくせに、追い出すまではしない。

 にらんだり無視したりもするくせに、切なくなるような目を向けてくる。

 冷静でいるかと思えば、急に感情的になる。




 どこまで自覚していてどこまで無自覚なのか境目も分からない。分からせてくれない。


 目が離せなくなる。


 ミカエルは、もはやハシマを憎たらしいとは思えなくなっていた。








 そんな思いの中にいるタイミングだった。

 リビングの床に空いた穴をミカエルは修理していた。

 急にハシマがやってきて、ミカエルの肩をつかんで床に横倒しにした。


 ミカエルが何かを思う間もなく、ハシマが馬乗りになってきた。

 仰向けの体勢でぽかんとしたまま、ミカエルはハシマを見上げた。

 ハシマの目に浮かぶ色は複雑で、とても読みきれなかった。


 それは突然だった。





 ハシマがミカエルにそっと口づけた。





 ミカエルは突然の柔らかな感触に目を見張った。

 見下ろしてくるハシマと目があった。


「ハシマさん」


 言葉を言おうとしたミカエルの唇を、再びハシマの唇がふさいだ。

 今度は先程よりも深い口づけだった。

 ハシマの両手がミカエルの頭の形をなぞるように、髪をかき分けて侵入した。

 艶かしい行為に、ミカエルの背筋を甘い痺れが這い上った。


 ミカエルの手足には力が入らなかった。

 続く口づけに、腰から胸にかけて体の奥に響く甘い痺れが滞留した。



 ハシマの唇が離れた時、ミカエルは息を吐ききって濃厚な熱を逃した。

 行き過ぎた刺激に頭がクラクラした。


 ミカエルはそれでもまっすぐにハシマを見た。


「ハシマさん、なぜこんなことを」


 ミカエルの瞳は熱で潤みながらも、美しく澄みきっていた。




 ハシマはその清らかさにいら立ちをおぼえた。

 ハシマはミカエルから目を反らして言った。



「フロウが触れた唇だから」



 ああ、そういえば子どもの時に、とミカエルは頬を赤らめた。そんなこともご存知とはお恥ずかしい限りですと、ミカエルは照れた。



 フロウの断片的な記憶を読み解く中で、ハシマが憤りをおぼえた一つがそれだった。

 しかし、今のハシマを駆り立てるものは、それだけではなかった。

 ハシマは、チリチリと胸を焦がすような、くすぶるいら立ちに眉を寄せた。



「ミカエルは僕をかき乱す。僕からフロウを奪う者でありながら、フロウによく似た魂が煩わしい」

「ハシマさんは矛盾してる。怒っていて攻撃的なのに、とても悲しい目で、優しくキスをする」



 ミカエルは人の痛みに敏感だった。

 驚くべき刺激的な行為よりも、ハシマの目に宿る複雑な感情にミカエルは心を寄せた。

 ハシマを危うく毒々しく魅力的にするものは、この複雑さなのだろうと感じ取りながら、それでもミカエルはその苦しみにこそ触れたかった。


 ハシマは自分に向けられるミカエルの眼差しの温かさに苦しんだ。



「ミカエル、僕はあなたを汚したい。澄みきった空から汚泥の中へと落としてしまいたいのです」

「また、そんなことを。僕とあなたと二人でフロウを大切に守っていくのではだめなのですか」



 ハシマは複雑な目の中に怒りを上らせて、ミカエルの襟首をつかみ上げた。


「年月を重ね、積み上げてきたものが、血のつながりという強くて乱暴でどうしようもないものに勝てないのです。フロウはあなたに夢中になることでしょう。僕はそれを我慢できません」

「ハシマさんがしてくださったことを、僕も妹にしてあげたかった。でも、それはできないことです。僕はフロウが尊敬する師匠にはなれない。それではいけないのですか」

「分かっていない。魔術師の、僕の、独占欲における排他性と破壊性がミカエルには理解できない」

「苦しんでいるのは伝わります」


 襟首をハシマに捕まれたまま、ミカエルは体を起こした。


「僕は、大きな声で、フロウの兄ですと言える立場に立ちたいのです。そのためには、マルタさんとハシマさんから認めてもらわない訳にはいきません。マルタさんはビヨンド、僕の父にフロウを奪われるのでなければ構わないと了承してくれました」

「死にかけたフロウをどうやって救い、その後のフロウがどうであったか、どうして生きてきたのかは、僕とフロウ、二人だけのものです。誰にも渡さない。これからのフロウにも僕がいればいい。あとは何もいらない。ミカエルもいらないのです」


 今度はミカエルが両手を伸ばし、ハシマの両頬を優しく挟んだ。



「どうしてそんな目をして言うのです」



 ハシマはミカエルを否定しながら、むしろ自分が傷ついたかのように痛ましい目をしていた。

 ミカエルはその痛みにもう少し目をこらした。


 ハシマはミカエルの真摯な眼差しに対し、わずかに怯んだ。

 その小さな揺らぎにミカエルは動かされた。






 ミカエルは自らハシマに口づけをした。






 軽く触れるだけのその行為に、ハシマの胸が締め付けられた。

 ミカエルはハシマの頬から手を離し、ふっと吐息をもらした。


「フロウがいなくて寂しいのですか?恋しくて、失うのが怖くて、苦しいのですか?僕がフロウじゃなくてごめんなさい」


 ハシマの胸の奥に渦巻いた感情は、ひと色ではなかった。

 目の前の存在を引き裂いてしまいたい、もう一度キスしたい、壊してしまいたい、抱き合って溶け合いたい。言葉にできない。

 ハシマは揺れた。

 ミカエルは、そんなハシマをじっと見つめた。










 揺れるハシマの中に飛び込んでくる信号があった。

 ハシマは一瞬にして表情を変え、青ざめた。


「フロウ。そんな」


 ハシマはガバッと立ち上がり、ミカエルに背を向けた。

 ハシマの突然の変容に呆気にとられていたミカエルは、ハッとして急ぎハシマの後を追った。


 ハシマはこれまでにない慌てた様子で、部屋の隅に置かれた姿見へ呪文を唱えていた。

 ミカエルは後ろから覗き込んだ。


 姿見が歪み、ここではないどこかの像を結び始めた。






 頬を赤く腫らしたフロウがいた。

 石造りの寒々しい部屋にいることが見てとれた。

 フロウは、自分の体を抱くように身を縮めて座り、泣いていた。





 ミカエルも青ざめた。

 ハシマは小さく震えた。


「まさかベロニカ?」


 ハシマの目がみるみるつり上がった。

 髪の毛が重力を無視して浮き上がり、ハシマの周りの空間でパチパチと火花が散った。


「殺す」

「ちょっと待ってください!これは何なんです!フロウに一体何が」


 ハシマは慌ただしく部屋の棚を開け、手当たり次第というように補助媒介たる物たちを取り出し始めた。


「映し出されたのはフロウの現状。フロウが助けを求めて僕を呼んでいます」


 ハシマの手からこぼれて落ちる補助媒介たちを、ミカエルは拾い上げた。


「ハシマさんに助けを求めている?」

「そうです。フロウが呼ぶのは僕だ」


 ハシマはテーブルに駆け寄り、スイレンが持ち込んだ短剣を手にした。

 そして、ごく短い時間、何かを考えた。

 ハシマは顔を上げ、まっすぐにミカエルを見た。



「その清廉な献身で僕とフロウの盾となり、散りゆく覚悟があるのなら来なさい」

「また、そんな言い方を」

「来るのか来ないのか」

「聞かれるまでもない。フロウを救うのは今度こそ僕だ」



 ハシマは、ついてこいという視線を流すと駆け出した。

 ミカエルはしなやかな身のこなしで、ハシマの後を追ったのだった。

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