心が呼ぶ
フロウが監禁されて数日が経った。
一般家庭の客間のようだと思った部屋は、よく見ると窓が一つもなかったり、外に通じるドアは当然のように開かなかったりした。
なるほど、本当に監禁されているのだとフロウは思った。
ロキは毎回の食事以外にも、しばしば顔を出した。
フロウはロキに親しみすら感じ始めた。
フロウが会っているのはロキだけで、ロキからなされる話を信じる以外にない。自分の置かれている状況を客観的に確認しようもなかった。
そんな不安定な状況であるにもかかわらず、恐るべきことに、フロウは一人でマルタの家にいた時よりも心が揺らがず、安心であるとさえ感じてしまっていた。
何しろフロウは、家で他にすることもなく、グルグルめぐる不安を一人で抱えてきたのだ。
それが、この部屋に来てからは、日に何度かロキが訪ねてくる。
家で自ら閉じこもっているのと、ここでロキに閉じ込められているのと。後者の方がましのようにも感じられた。
ロキは温かくて親切だった。
話題が豊富で話していて楽しかった。
聞き上手でもあり、フロウの話もよく聞いてくれた。
気がつくとフロウは、ハシマからプロポーズを受けたことまで話してしまっていた。
ロキは頬杖をつきながら、楽しげに微笑んだ。
「あら。面白いことになってるのね。師匠と弟子の恋愛。タブーの香りがする。嫌いじゃないわ」
「いえ、あの、恋愛なのかどうか」
真っ赤になってフロウは手を振った。
ロキは自分の長い髪をクルクルと指に絡めながら、からかうように言った。
「大事に大事に育てられて、あなた。かわいがられてきたのね。箱入りにも程がある」
「はい、あの、それは、少し自覚しています」
「懐に飛び込んでくる具合があんまり上手だから、何となく手元に置いといて、気がついたら手離せなくなってるってタイプ」
「そうですか」
フロウは、妙に真剣だった。
こういった話を聞いてもらえるのもうれしかったし、自分について何か言ってもらえるのもうれしかった。
ロキは、さりげなく話しているようでいて、フロウの様子をよく見ていた。
「で、師匠のことは、どう思っているの?」
「大切です。私に何でも与えてくれた人です」
「つまんない答えね。違うわよ。好きなの?どうなの?」
「大好きです」
ロキは腕組みをし、イスの背もたれに背を預け、口をとがらせた。
「へえ」
フロウは、それ以外にないと思い口にしたのだが、ロキの反応は不確かだった。自分は何か間違えただろうかとフロウが考えた時、ロキはさらりと聞いてきた。
「じゃあ、シェイドは?」
あまりにも不意打ちだった。
名前を聞いただけでフロウは平静さを失った。
フロウは真っ赤になった。
心臓がドキドキうるさく騒いだ。
「え、急に、え」
「すごい反応ね。シェイドのことはどう思う?ほら、答えなさいよ」
フロウの脳裏にシェイドの姿が浮かんだ。
胸が苦しくなってきた。
心も体も勝手に騒いで止められなかった。
ロキは眉をひそめた。
「ひどい顔してるわよ」
「すみません」
どんな顔をしているのだろうか。
しかし、フロウにはどうすることもできなかった。
追い打ちをかけるようにロキが聞いた。
「だから、どう思うのか言いなさいよ」
フロウの口が小さく動いた。
「シェイドさん」
名を呼んでしまうと、フロウの中にある何かがさらに暴れ出した。
涙が込み上げてきた。
ロキは背もたれから体を離し、人差し指を折り曲げてフロウの目尻の雫をすくった。
「とんでもなく気持ちのこもった呼び方をするのね。ドキドキしちゃたわよ」
「すみません」
「もっといじめてもいいけど、どうしようかしら」
「うう。お手柔らかにお願いします」
「バカね。お願いしてどうすんの」
ロキは呆れ顔で、テーブル越しに手を伸ばしてフロウの頭をなでた。
大きな手の優しい感触が、フロウの心をなだめた。
フロウは思わず息を吐いた。
ロキは眉を寄せて言った。
「あなた、そんな顔して。本当、どういう育てられ方をしたの」
「すみません。あの、ハシマ先生に小さい頃はよくこうして頭をなでてもらっていました」
「やっぱりタブーの香りがする」
ロキは小さく笑って立ち上がり、そろそろ時間だからまたねと言って去った。
フロウには胸騒ぎが残った。
雑談の合間に、シェイドについて尋ねられることが時折あった。
そのたびに動揺するのだが、どうやらロキはシェイドのことを知りたいのだとフロウにも分かり始めていた。
どういうことなのか全貌はさっぱり分からなかった。
そもそも、シェイドについて言えることなど、フロウには何もないのだ。
一体、シェイドはどういう人物で、ロキは何を知りたいのだろう。
次にロキが来た時、フロウの疑問に対する答えが驚くほどサラリと出てきた。
「シェイドは、いわばテロリストなの」
ロキは持ってきたワゴンから食事の皿をテーブルに移しながらそう言った。
フロウは衝撃を受けていた。
「テロリスト」
「そう。恐るべき信念のもと、国家転覆までも企む親玉。たくさんの人が脅されたり騙されたりして、彼とともに動いている」
ロキはちらりとフロウの表情を見ながら、食事の用意を進めた。
フロウは手伝うことも忘れるくらい、動揺してしまっていた。
思い浮かぶことがあった。
人には言えないミカゲの事情について考えた時、ロキの話は非常によく当てはまった。
ミカゲは何に追われ傷を負ったのか。
テロリストというフロウの常識にはない世界のイメージは、ミカゲが背負う危険として何も矛盾しなかった。
そもそも、自分が置かれている状況も、考えてみればずいぶん非常識である。
そうしなければならないだけの何かと思った時に、テロリストという脅威的な存在は実に納得がいったのだ。
ロキはフロウを見ながら話を続けた。
「シェイドはフロウに目をつけて、組織に取り込もうとしているの」
「私?」
フロウの目は泳いだ。
何のことだろうと考えた。
思い当たることは一つしかなかった。
ミカゲだ。
ミカゲがシェイドに頼んだか、シェイドがミカゲのためにフロウを引き抜こうとしたか。
考えるフロウに、ロキは尋ねた。
「どうしてシェイドはフロウを取り込もうとしているのだと思う?」
「分析してみました」
「教えて」
「たぶん、私の友達がその組織にいると思うのですが、その友達が私と一緒にいたいと思ってくれたのではないでしょうか。あの、友達のことは詳しくは言えないのですが。その友達と私は、気が合うのです」
フロウはこの上なく真剣に言った。
ロキはスプーンを持ったまま、人差し指を眉間に当てた。
「あなた二度と、分析という言葉を使わない方がいいわね」
「うう。すみません」
しかし、フロウは他に心当たりがなく、きっとそうだとしか思えなかった。
ロキはスプーンをテーブルに置いた。
「言えないこともあると思うけど、できるだけたくさんの人を守りたいの。シェイドやあなたの友達について、知ってることはすべて教えてほしい。心の準備ができたらでいいの。何か思い出したら、どんな小さなことでも教えてね」
「はい」
フロウが何もしないうちに、テーブルの準備は整っていた。
うながされて着席した。
ロキは水差しからコップに水を注ぎながら言った。
「あなたの父親はあなたを心配し、ずっと影から見守っている。この件が片付いたら、再会するといいわ」
フロウは目を見張った。
ロキはコップをフロウの近くに置きながら続けた。
「奥さんと息子さんがいるお金持ちのお父さんよ。あなたのお母さんとは不倫だったのね。今はとっくに不倫関係は終わっているけど、お父さんはあなたを忘れていない。お兄さんだってあなたを歓迎しているそうよ」
フロウの心は乱れた。
父親、兄。
孤独だった自分に、急に2つも縁が増えようとしている。
不倫という不誠実さにも心は揺れた。
しかし、たくさんの要素がありすぎて、フロウは気持ちを整理しきれなかった。
ロキにうながされ、フロウは機械的に食事を口に運んだ。
ロキはうろたえるフロウを優しく見守りながら言った。
「危険なものには近づかないで、安全な普通の世界で生きなさい」
その日の食事は、まったく味がしなかった。
フロウは何をどう考えるべきか混乱していた。
判断するのは自分だが、誰かに相談したかった。
とはいえ相談できるのは、ロキしかいなかった。
前提として、フロウはロキの話をすっかり鵜呑みにしているということがある。
その信頼の危うさにフロウはまったく気づいてはいなかった。
フロウはミカゲのことをロキに話すべきか迷っていた。
ロキに話して、ミカゲを助けてもらった方がいいのではないか。
そんな気がしてきていた。
フロウが思い悩んでいたある時、急にドアが開いた。
やってきたのはロキではなかった。
「お前か」
大柄で片目に眼帯を付けた壮年の男だった。
穏やかなロキにしか会っていなかったせいもあり、フロウは心臓が止まりそうなほど驚いた。
男のまとう気配は険呑で、水色の目は鋭かった。
フロウは身の危険を感じ、イスから立ち上がった。
男はガツガツとブーツを鳴らしてフロウに近づいた。
「俺はまどろっこしいことは嫌いだ。お前は餌だ」
男は立ちすくむフロウの腕を乱暴につかみ上げた。
「痛っ」
フロウは思わず声を上げたが、男は構わずフロウの腕を持ったまま歩き出した。
フロウは訳が分からぬ間に、廊下に引っぱり出され、そのまま引きずるように連れて行かれた。
フロウは腕の痛みと恐怖で、ものを考えることができなくなった。
必死に小走りでついて行ったが、大股で歩く男に引きずり回された。
どこをどう歩いたのか。
窓もない廊下を歩き、階段をいくつも上り、たどり着いたのは鉄格子のはまるドアの前だった。
男は有無を言わさず頑健なドアを開け、フロウを中に放り込んだ。
「きゃあ!」
フロウは石造りの床に投げ出された。
男も部屋に入り、片膝をつくと、フロウの髪の毛をつかみ上げた。フロウは痛みのあまり顔を歪めた。
「お前がどういう訳だかシェイドと深い関係にあることは分かっている。それがすべてだ」
男は投げ捨てるようにフロウの髪を放した。
フロウは再び床に打ち付けられた。
フロウは震えながら体を抱え、必死に言った。
「何のことなのか私には」
男は大きな手でフロウの頬を打った。
バチンと音がして、フロウは狭い部屋の壁に吹き飛ばされた。
男は言った。
「口答えは不要。シェイドを討ち取る餌として、しばらくは生かしてやろう」
一つだけ覗く男の目は冷酷だった。
それ以上、何を言うこともなく男は立ち去った。
重いドアがガンッと音を立てて閉じた。
鉄格子のはまった小窓からわずかな明かりが差しこんできた。
石造りの狭い部屋に、むき出しの硬いベッドと汚れた毛布、トイレ代りと思われる異臭を放つ壺だけがあった。
フロウは痛みと衝撃で身動きができなかった。
命の危険を感じ、これまでの比ではない恐慌状態に陥った。
助けて。
心が呼んだ。
明確な輪郭を描いた。
シェイド。
最初に浮かんだのはシェイドだった。
グルグルと渦巻く頭の中で、訳も分からずただひたすらに浮かんできた。
その影をつかもうと、心が手を伸ばした。
しかし、渦が速すぎて手が届かなかった。
何度も何度も手を伸ばしたが、それはフロウの手をすり抜けて行った。
やがて、フロウは石造りの冷たい感触に気がついた。
痛む体を抱え、身を起こした。
わずかに混乱が収まってきた。
すると、なぜシェイドに助けを求めたのか、自分の心に戸惑いを感じた。
少し落ち着いた心に浮かんでくるものがあった。
何かあったら、必ず僕を呼びなさい。
そうだ。ハシマさんだ。
フロウは思い出して希望を持った。ハシマは魔術師だ。きっと、声が届くはず。
何かあったら呼べと、心配性のハシマに何度も言われてきた。
これ以上の危険があるものか。打たれた頬も打ち付けた体もズキズキと痛くてたまらなかった。死ぬかもしれないと思うと、恐ろしくてたまらなかった。
安全な腕の中が恋しかった。遠慮も何も浮かばなかった。
ハシマさん!ハシマさん!
フロウの心が叫んだ。
フロウの目は鉄格子の小窓を見た。
恐怖を感じた。
「助けて、ハシマさん」
かろうじて出た声は、小さなささやきだった。
フロウは怯えながら心で何度も呼んだ。
フロウにかけられた迷子札の魔術が反応した。
その緻密な術式は、ささやかな魔力をめぐらせた。あまりにも密やかで、発動を誰にも気づかせることはなかった。
正確に、迅速に、魔術を施した主へと矢のような信号が飛んでいったのだった。




