37 静寂の想い
―愛は,時に葛藤を生む―
ツムギの声がくぐもっている。余韻と呼ぶのが一番いいだろうか。ツムギは全部言い切ったような、爽快感も顔に含ませているように見えた。スズは静かに口を開いた。
「……成程……。ツムギ、あなた……見ないうちに少し大人の階段を上られたのね。うん、うん。良い目をしています。人はすべて目に現れますからね。……何と言いましょうか。胸をなでおろす、とはこういう時に使うのかもしれませんね」
ツムギは少し頬を赤らめて頷いた。スズは静かに頷きながら語り始めた。安心した声に聞こえる。静かにスズは笑っていた。
「……そうね。まずはお礼を申し上げないとですね。ミラさん、ツムギに大切なものを突き付けていただいたみたいですね。感謝致します。」
私は少したじろいだ。元々私はツムギを仲間にするために半強制的に連行しただけで、むしろ怒られるべきところだと思うのだが。しかしここは一息おいて。
「いえ、私はただ、ツムギにリアルを教えたかったってだけです。半強制的に連れ込んだ部分もありましたし」
スズはもちろん把握しているよ、と言わんばかりにゆっくりと深く頷いた。
「ええ、ええ。そうでしたか。でもねミラさん。私にはどうしてもそれができなかったのですよ。……どうしても、ねっ」
スズは静かに話し始めた。少し目が伏せ気味になっていただろうか。落ち着いた黄色の瞳が揺れた。
「……ツムギが、引導課に初めて入社した時……私の目には、何も知らない幼い子が、迷いの森に来てしまったような。そんな雰囲気を感じました。実際、初めてツムギのプロフィールを拝見したところ、記憶がないと書かれていたのですよ」
私は少し驚いた。記憶が、ない……?ヨノアで働いている社員のほとんどがもともと下の世界で死んでしまった魂で、スカウトされることでヨノアに来ることが一番多い。そのため、生前の記憶が何かしらのきっかけで戻る場合がよくある。ヨノアにとってそれは別に不都合になることではないため、基本的に記憶があったり、うろ覚えでも残っていたりすることがほとんどのはずなのだ。しかし、ないとはどういうことなのだろうか。
「……おそらく記憶がない、と言うより、生成される前に亡くなられてしまった,と言うのが正しいでしょう。生前のツムギは……ね」
私ははっとした。思い出した。私はやはり、何かのきっかけがあるたびに、何かの知識の記憶がフラッシュバックしてくることが本当に多い。私は少しだけ食い気味に話しに割り込んだ。
——ツムギは……下の世界で……3歳を迎える前に亡くなったのか……っ——
ツムギの顔は固まっていた。しかし、私にはツムギが今本当に思っていることが分かる。ツムギにはそもそも記憶というものが存在していない。きっとツムギには、何故3歳を迎える前に亡くなったことになっているのかすらわからないはずだ。混乱と切なさと。何が混じったのかわからない、ある意味ぐちゃぐちゃな感情が、ツムギの中には流れているのだと思う。
「……『海馬』というものが頭にはあるんです。私は生前心理学を履修していましたので覚えているのですが、この海馬は、記憶を司るものなんです。この部位は3歳頃にようやく機能し始めて、この記憶が自分の物だって実感できるようになります。……はっきり言ってしまえば、3歳になるまでは自分の記憶の存在に気づけず、『自分に記憶がない』も等しい状態になっているんです。」
スズは口に手を当てて、柔らかくも驚きの表情をしていた。ツムギは相変わらず固まっている。無理もない。記憶がないのだから。
「これはこれは……博識ですね。そう考えるのが妥当でしょう。なので私が真っ先に申し出たのです。私に面倒を見させてほしいと。……まさに親鳥の心境でしたね。ツムギは前述のとおり記憶がありません。辛いことながら、裏を返せば『真っ白のキャンパス』状態。ツムギは私が教えたことをとてつもないスピードで吸収していきました。」
スズはツムギの肩に両手でポンと手を置いた。ツムギが固まっていた顔を緩ませて照れながら立っている。
「……いや、……それはスズさんのおかげで……」
照れながらも謙遜しているツムギ。うふふと柔らかく笑っているスズの顔は美しかった。
「……おっと。少し話がずれてしまいましたか。あなた方を引き留めるのも申し訳ありませんし、言いたいことだけお伝えしましょう。ツムギの覚悟に応えてね。……私はね、怖かったのですよ。」
スズはゆっくりと目を伏せた。少し間を開けてから話し始めた。
「ツムギには記憶がありません。そしてミラさんが言った通り、おそらく下の世界で記憶ができる前に亡くなられております。そんな赤子も同然なツムギに辛いものを突き付けるなんて、到底できたことではなかった…。だから私は、ツムギに下の世界のことは教えていませんでした。ショックを与えたくなかったんです。」
私とツムギは静かに聞いていた。確かに、3歳にも満たない子供が自殺現場なんて見たら、大変なことになるのは必至だ。私は自分がしたことを少しだけ悔やんだ。もうちょっといいやり方でツムギに下の世界のことを教えるべきだったかも。
「だけど、いつかはツムギも知るときが来るというのもわかっていました。私はツムギがそれに耐えられるのか。ずっとそれが心配でした。もしかしたら、ツムギを褒めているつもりでも、その不安がいつもついて回っていたかも。だからツムギは私に認められていないと、悲しい気分になってしまったこともあったでしょう。ごめんなさいね、ツムギ」
ツムギはとんでもないと言わんばかりに首を振った。私は静かに聞いている。
「でも、ミラさんの行動もあって、ツムギはその狂気に向き合う覚悟ができているように見えます。……安心しました。この資料室の先にも、そんな狂気がたくさん収納されているの。死神さんたちが引導に使っている、引導数を記録してくれるネックレス、『ソウルログ』が導入される前。死神さんたちは紙に直接引導数を記録し、文章でそれを書き落としていましたから。なので、人それぞれの思いがはっきりと載っているの。」
ソウルログ、と言う名前だったことを今初めて知った。そして昔、キオウも報告書と呼ばれたものを毎回仕事終わりに書いていた覚えがある。スズが私たちを引き留めた理由はこれだったのか。スズは目を閉じて少し口角を上げた。
「……あなた方はこの中に入っても、きっと大丈夫ですね。……引き留めてしまってごめんなさい。無駄な親バカが出てしまったようです。ツムギ、これを。あなたに託しましょう」
ツムギは静かに目を見開いて、スズから何かを受け取った。鍵だ。
「この資料室の鍵です。私がここの管理も務めていましたが、異動が決まってしまいましたからね。……ツムギ、あなたならきっともう大丈夫ですね。……こういう瞬間のことを『巣立ち』と言うのでしょう。……素敵な大人になってくださいね。」
スズは柔らかく笑っていた。ツムギには一筋の涙が流れていた。ようやく認めてくれたことへの感動なのか。これはツムギにしかわからない。
「……はいっ…………!今まで……お世話になりました!……」
ツムギは少しだけ掠れた少年のような声で言った。私は横で微笑んでいた。
「……あ、そうだ。私実は、意外と湿っぽいのは苦手でしてね……」
スズはツムギに近づき、少し悪戯っぽい顔で言った。
「…………恋人ができたら……教えてくださいねっ……」
「えぇっ!?」
私はこれは言うしかないと思った。
「トアとかね」
「お、おいっ!!ミ、ミラ!?」
スズは柔らかい太陽のように笑顔だった。
「あははっ、ごめんあそばせツムギ。では私はこの辺で失礼します。資料室を使用した後はその鍵で戸締りをお願いしますね。引き留めてごめんなさいっ。では!」
スズは柔らかくゆっくり一礼をして背を向けて歩き出したツムギは。最初にここに来た時よりも、大きく存在感を放っていた。顔だけは、赤かったけど。
ご覧いただき誠にありがとうございます!37話です!スズさんの素敵な愛が描かれております!仕事終わり等にほっこりしていただけたらと思います。そしてついに資料室の入り口が開かれました。二人はどんな記録を発見するのか。ミラの抱く『既視感』の正体は…。次回,お楽しみに!




