第4話:鍵を握る手
「なんで、オレの名を知ってる」
モルグの声が、震えていた。裂けた口の端が、笑いの形を保てずにいる。読み手が敵の名を口にするということが、こいつにとって何を意味するのか――それを、本能で嗅ぎ取ったのかもしれない。
僕は、答えなかった。答える余裕が、なかったからだ。
重力の章を、丸ごと一つ読み切った。その代償で、頭の中が、がらんどうだった。文字を追う糸が切れて、思考が指のあいだからこぼれていく。ついさっきまで見えていたはずの世界の法則が、もう思い出せない。頁の並びも、節の順も、読んだ端から抜け落ちていく。手足に力が入らない。膝から下が、自分のものでない気がする。尖塔の風に押されるだけで、僕は倒れそうだった。立っているのが、やっとだ。
「セン……もう、読んじゃだめ」
ヨミの声も、薄い。街を受け止める光の階段になったぶん、彼女の体は、透けを通り越して、消えかけていた。輪郭が空気に溶けて、指先から順に、夜へほどけていく。それでも彼女は、僕から目を離さなかった。
最悪の状況だった。
街は救った。眼下の家々は、もう空へ飛んでいない。屋根も、鐘楼も、洗濯物を干した物干し竿も、ちゃんと地に足をつけている。ついさっきまで、すべてが逆さまに空へ吸い上げられていたのが、嘘のようだった。けれど、鍵はまだモルグの手の中にある。そして僕は、もう一行も読めない。空っぽの井戸から水を汲もうとするようなものだ。桶を下ろしても、返ってくるのは乾いた音だけ。
モルグも、それに気づいた。透けたヨミと、床にへたり込んだ僕を、順に見比べる。裂けた口が、じわりと吊り上がった。
「なるほどな。全部、出し切ったってわけだ」モルグは黒い鍵を握り直した。掌の中で、鉄がぎしりと鳴る。「重力の章を読める化け物かと思ったが……なんだ、ただのガス欠のガキじゃねえか」
男が、踏み込んできた。
床を蹴る音。近づく影。僕は、それが見えていた。見えていたのに、避けられなかった。
腹に、鈍い衝撃。骨の芯まで届く、重い一撃。息が、胃の底から押し出される。喉が音を立て、視界が白く弾けた。膝が折れた。尖塔の冷たい床に、頬が張りついた。古い石の匂いと、埃の味が、間近にある。指を動かそうとしても、床を撫でることしかできない。
「読み手ってのはなァ」モルグが、僕の髪を掴んで、無造作に持ち上げた。首が仰け反り、天井の闇が視界いっぱいに広がる。「読んでるあいだは神様みてえだが、読み終わったあとは、ただの人間なんだよ。ガランもそうだった。最後の一行を読み切った、あの顔でな。ヴァイス様に、あっけなく――」
師匠の名を、こいつの口から聞いた。
頭のがらんどうに、火が灯る。喉の奥が、熱くなる。けれど、体が動かない。読めない。指一本、思うように動かせない。僕は、何も、できなかった。
「――セン、から、手を、離して」
ヨミだった。
消えかけた体で、それでもモルグの腕に、すがりついていた。触れているのかどうかも分からない、光の指で。
「なんだ、この幽霊は」モルグが、鬱陶しそうに腕を振った。ヨミの透けた体が、いとも簡単に払われ、糸の切れた光になって、床に散った。
「ヨミ!」
声が、掠れた。手を伸ばそうとして、届かない。
その時だ。
尖塔の下から、鋭い光が幾筋も突き上がった。石の螺旋を舐めるように、白い光が這い上がってくる。誰かが、階を駆け上がってくる。整った足音。複数。金具の触れ合う音。武装した者たちの、規律ある動き。
「鍵守協会だ」モルグが、舌打ちした。「災害を嗅ぎつけて、ようやくお出ましか。仕事の遅ェ連中だ。……ちっ、興が削がれた」
男は、僕を放り出した。抵抗する力もなく、僕はまた床に転がる。モルグは黒い鍵を、目の高さに掲げた。夜の底で、鉄が鈍く光る。
「坊主。一つ、いいことを教えてやる」モルグの目が、底光りした。声から、嗜虐の色が消えて、代わりに、ぞっとするほど平らな響きが乗る。「オレは捨て駒だ。街の一つや二つ、どうなろうと、ヴァイス様は痛くも痒くもねえ。狙いはなァ――七つ、全部だ。七鍵を揃えて、あの方は世界を書き直す。この重力庫は、ほんの一番目にすぎねえ」
七つ、全部。
その言葉が、僕の空っぽの頭に、石のように落ちてくる。波紋が、じわりと広がる。師匠が最後に託した言葉が、鈍く反響した。血にまみれた口で、それでもはっきりと告げた、あの声。お前は七つ全部を読める、と。そして――ヴァイスは、七つ全部を奪う、と。二つの声が、同じ数字の上で重なる。重力庫は、一番目。だとすれば、残りは六つ。この夜は、長い戦いの、ほんの入り口にすぎないのだ。
モルグは、握った鍵を――ふいに、街のほうへ、放り投げた。
あまりに、無造作な手つきだった。
黒い鍵が、弧を描いて、破れた窓の外へ。眼下の街並みへ、落ちていく。無数の屋根の、瓦の、路地の、どこかへ。小さな黒い点が、夜に呑まれて、見えなくなった。
「なっ……何を」
「探してみろよ」モルグは、外套を翻した。「重力庫の鍵は、この街のどこかにある。何万っていう屋根の、どれか一つの下だ。井戸の底か、屑籠の中か、鳩の巣の隣か。せいぜい、這いつくばって探すんだな。だが、鍵がなけりゃ、庫は完全には閉じねえ。今は止まってるように見えるだろ? じきに、また落ちはじめるぜ。今度はもっと、ゆっくりとな。――住民が、絶望する時間をたっぷり取ってな。今度は、逃げる暇も、覚悟する暇もある。それが一番、いい声で鳴くんだ」
窓枠を蹴破って、モルグの姿が、夜へ消えた。外套の裾が、最後に翻って、闇に紛れる。
追えなかった。立ち上がることも、できなかった。指先が、床を掻くだけだった。
階段を駆け上がってきた協会の鍵守たちが、僕を取り囲む。灰色の外套。同じ紋章。同じ、無表情。槍の穂先が、幾つも、僕の喉元へ向けられた。冷たい鉄の輪が、僕を閉じ込める。
「動くな、読み手」先頭の一人が、硬い声で言った。兜の陰から、こちらを値踏みする目がのぞく。「重力庫を無断で読んだのは、貴様か」
「……待ってくれ」僕は、掠れた声を絞り出した。「僕は、街を止めようと――」
「問答は協会でだ。連れていけ」
冷たい手が、僕の腕を掴んだ。両側から挟むように、乱暴に引き起こされる。
床に散ったヨミの光が、かすかに、瞬いていた。消えてはいない。まだ、いる。散り散りになった光の粒が、僕を見上げるように、弱々しく明滅している。今にも消えそうで、それでも、消えない。まるで、僕に「まだ終わっていない」と言い聞かせるみたいに。それだけが、この夜の、たった一つの救いだった。
僕は、引き立てられながら、遠ざかる街を見た。
今はまだ、地に足をつけている街。灯りが、いつもどおりに点いている。誰も、屋根の下に黒い鍵が落ちていることを知らない。それが見つからなければ、この街は、また、ゆっくりと空へ落ちはじめる。誰も気づかないまま、少しずつ。
師匠。
僕は、まだ何も、読み切れていない。
お読みいただきありがとうございます。
鍵は街のどこかへ。そしてセンは、助けたはずの協会に捕らえられてしまいました。背教者ヴァイスの狙いは「七鍵すべて」――物語の縦軸が、少し見えてきました。
次回、第5話「鍵守協会の掟」。世界を救ったはずの少年を、なぜ協会は罪人のように扱うのか。灰色の外套の下に、どんな掟が隠れているのか。
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