表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
禁書図書館の七鍵守り 〜世界が壊れるたび、僕は一冊を「読んで」直す〜  作者: 文倉 栞


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/14

第3話:一節を、読み切る

 落ちる街を、読んで渡る。


 言葉にすれば、たった一行だ。でも、実際にやることになった僕から言わせてもらえば――それは、地獄だった。


 僕は、崩れた石橋の縁に立っていた。その先は、もう「下」がない。橋げたも、川も、川底も、全部が空へ吸い上げられて、遥か頭上でぶつかり、砕けて、また細かくなって舞い上がっていく。世界が、逆さまに壊れていく音。低く、絶え間ない、地鳴りのような。踏み出せば、僕も同じだ。地面を失くした瓦礫の、その一つになる。


 足の裏に、まだ「下」の感覚が残っているのが、かえって怖かった。この一歩を境に、それが消える。頭ではわかっている。わかっているのに、体が石になったように動かない。


「一行目、読んで」


 ヨミが、僕の隣で言った。淡く透けた指が、開いた本の一点を差す。爪の先まで頁のように薄い。


「ここだけ、渡るぶんの『下』を、一時的に思い出させます。……早く。世界が飽きる前に」


 僕は、息を吸って、読んだ。


《 道とは、踏まれることを望む石である 》


 声にした瞬間。


 空へ砕けかけていた橋げたの一つが、宙で、ぴたりと止まった。ほんの数歩ぶんの、足場。灰色の石が、僕を待つように水平に浮いている。


 考える前に、体が動いた。僕は駆けた。足場が消える前に、次の一行へ。読む。走る。読む。走る。踏んだ石は、渡り終えた背後から順に、また空へ吸われて消えていく。前だけを読む。後ろは、もうない。振り返る余裕なんて、一秒もない。


 一行読むごとに、頭の奥から何かが、するりと抜けていく。読む力の、代償。読み手の宿命。母の顔だったかもしれない。初めて自分で読み切った本の、題名だったかもしれない。もう、確かめようがない。抜けたあとの場所が、ただ、すうすうと寒いだけ。何かがあったという手触りだけを残して、中身が空になっていく。


 それでも、足は止めない。止めたら、そこで終わる。


「セン、無理はしないで」


「無理をしないと、届かない」


 息が上がる。汗が目に入って、活字が滲む。それでも――尖塔は、近づいていた。あの、街じゅうでたった一つ「落ちていない」尖塔。鍵を握る誰かのいる、場所。


 あと少し。あと、十行。


 尖塔の輪郭が、はっきり見える。あそこまで行けば、届く。師匠が「来るな」と言った、その先に。


 その時。


 足場が、消えた。


 読んだはずの一行が、効かなかった。頭が回らなくて、二文字、読み飛ばしていた。たった、二文字。抜けた記憶が多すぎて、目が、活字を正しく拾えなくなっていた。


 僕の体が、宙へ投げ出される。上へ。空へ。あの日、師匠がそうされたように。世界に、拾い上げられる。


「――セン!」


 ヨミが、叫んだ。透けた手が、僕へ伸びる。届かない。掴めるはずがない。彼女は本の一部で、実体なんて――


 掴めた。


 冷たくて、頁みたいに薄い手が、確かに僕の手首を握っていた。ヨミの体が、ぶわりと光る。どこかで、頁のめくれる音がした。


「わたしを、読んで!」ヨミが叫んだ。「わたしの体、原初書の一部。今だけ――足場に、して!」


「そんなことしたら、君が薄れる!」ただでさえ、名前をなくして存在が不安定なのに。この法則暴走の中で自分を差し出したら――「消えるかもしれないんだぞ!」


「いいから!」ヨミが、笑った。泣きそうな顔で、それでも。「わたし、あなたの読む声だけが道しるべなんです。だったら、道になるくらい――させて!」


 僕は、読んだ。ヨミという、名もない一頁を。


 彼女の体が、光の階段になって、空へ架かった。段のひとつひとつが、まだほのかにあたたかい。ヨミの体温が、そのまま形になったみたいに。僕はその上を、駆け上がる。一段、また一段。踏むたびに、光が薄くなっていくのがわかる。踏むたびに、ヨミが減っていく。


 彼女は、自分を差し出している。名前もないのに。自分が何者かも知らないのに。それでも僕のために、迷いもせず、自分の頁を。


 だったら、僕も出し惜しみはしない。記憶なんて、いくらでも払う。安いものだ。師匠一人守れなかった僕の頭の中身なんて、この街の一人分にも、彼女の一段にも、釣り合わない。


 尖塔の頂に、たどり着いた。


 そこに、男がいた。


 だぶついた黒衣。裂けたように横へ広がった口。手の中で、黒い鍵が、心臓みたいに脈打っている。男は、落ちていく街を見下ろして、うっとりと目を細めていた。悲鳴を、聴いていた。


「見ろよ」


 男が言った。僕がそこにいることにも、気づかず。


「街が飛ぶ。人間ってのは、落ちるとき一番いい声で鳴くんだ。ヴァイス様は書き直すなんて辛気くさいことを言うが……オレは、こっちのほうが好きでね」


 背教者。ヴァイスの、手の者。師匠を殺した男の、同じ系譜。


 こいつが、鍵を握って、街を落としている。何万の命を、ただの見世物にして。悲鳴を、酒みたいに味わって。うっとりと。


 腹の底で燃えていた熱が、ふっと、静かになった。怒りじゃない。もっと冷たくて、まっすぐな、何か。研ぎ澄まされていく、何か。


「その鍵を」僕は、本を開いた。「返してもらう」


 男が、振り向いた。「あぁ? ……なんだお前、読み手か。ガキが一人で、何ができ――」


「原初書、重力の章」


 男の言葉が、途中で止まった。


 僕は、本を掲げた。ヨミが最後に灯してくれた光の中で、いちばん長い、いちばん重い一節を、見た。普段の僕なら、途中で頭が焼き切れて、記憶が根こそぎ持っていかれる。読み切れるはずのない、一節。


 でも。


 指先に、まだヨミの温度が残っている。空には、誰も落とすものかと踏ん張っている何万の足がある。背後には、還る場所を待っている街がある。


 読める。今なら、読み切れる。


 僕は、深く、息を吸った。


《 落ちるとは、還ることである。すべては、あるべき場所へ。空にあるものは地を恋い、地にあるものは天を仰ぐ。されど世界よ、忘れるな――お前の下は、いつだって、ここにある 》


 僕は、読み切った。


 声が、街じゅうに、響いた。


 その瞬間。


 空へ落ちていた街が――止まった。


 ぴたり、と、世界が息を止めた。


 次の刹那。砕けかけた尖塔が、剥がれた屋根が、宙に散った瓦礫の一つ一つが、逆再生のように、ゆっくりと、あるべき場所へ還りはじめた。上へ落ちていたものが、下へ。下へ。石が石の隣へ。梁が梁の上へ。窓が窓枠の中へ。街が、地面を思い出していく。


 割れた鐘が、塔のてっぺんへ戻って、一つ、鳴った。まるで、何事もなかったみたいに。


 空の下で、何万という人が、地に足をつけたまま、呆然と天を仰いでいた。落ちていたことを、うまく思い出せない顔で。ついさっきまで自分たちが空へ吸われていたことが、悪い夢だったみたいに。


 誰も、落ちなかった。


 一人も。


 男の顔から、笑みが、消えていた。


「……嘘、だろ。ガキ一人で、重力の章を、丸ごと――」


「まだ終わってない」


 僕は、男を見据えた。息も絶え絶えで、記憶はごっそり軽くなって、足元もふらついて、それでも。


「その鍵、返せ。モルグ」


「オレの名を……なんで」


「三行目に、書いてあった」


 お読みいただきありがとうございます。


 落ちる街を、セン一人が「読み切って」止めました。この物語で一番描きたかった、無双の一回です。少しでも胸が熱くなっていたら、書いた甲斐があります。


 でも、鍵はまだモルグの手の中。次回、第4話「鍵を握る手」。戦えない司書が、あの背教者からどうやって鍵を奪い返すのか――ここからが、本当の駆け引きです。


 面白かったら、ブックマーク・☆評価で応援してもらえると、次を書く力になります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ