第3話:一節を、読み切る
落ちる街を、読んで渡る。
言葉にすれば、たった一行だ。でも、実際にやることになった僕から言わせてもらえば――それは、地獄だった。
僕は、崩れた石橋の縁に立っていた。その先は、もう「下」がない。橋げたも、川も、川底も、全部が空へ吸い上げられて、遥か頭上でぶつかり、砕けて、また細かくなって舞い上がっていく。世界が、逆さまに壊れていく音。低く、絶え間ない、地鳴りのような。踏み出せば、僕も同じだ。地面を失くした瓦礫の、その一つになる。
足の裏に、まだ「下」の感覚が残っているのが、かえって怖かった。この一歩を境に、それが消える。頭ではわかっている。わかっているのに、体が石になったように動かない。
「一行目、読んで」
ヨミが、僕の隣で言った。淡く透けた指が、開いた本の一点を差す。爪の先まで頁のように薄い。
「ここだけ、渡るぶんの『下』を、一時的に思い出させます。……早く。世界が飽きる前に」
僕は、息を吸って、読んだ。
《 道とは、踏まれることを望む石である 》
声にした瞬間。
空へ砕けかけていた橋げたの一つが、宙で、ぴたりと止まった。ほんの数歩ぶんの、足場。灰色の石が、僕を待つように水平に浮いている。
考える前に、体が動いた。僕は駆けた。足場が消える前に、次の一行へ。読む。走る。読む。走る。踏んだ石は、渡り終えた背後から順に、また空へ吸われて消えていく。前だけを読む。後ろは、もうない。振り返る余裕なんて、一秒もない。
一行読むごとに、頭の奥から何かが、するりと抜けていく。読む力の、代償。読み手の宿命。母の顔だったかもしれない。初めて自分で読み切った本の、題名だったかもしれない。もう、確かめようがない。抜けたあとの場所が、ただ、すうすうと寒いだけ。何かがあったという手触りだけを残して、中身が空になっていく。
それでも、足は止めない。止めたら、そこで終わる。
「セン、無理はしないで」
「無理をしないと、届かない」
息が上がる。汗が目に入って、活字が滲む。それでも――尖塔は、近づいていた。あの、街じゅうでたった一つ「落ちていない」尖塔。鍵を握る誰かのいる、場所。
あと少し。あと、十行。
尖塔の輪郭が、はっきり見える。あそこまで行けば、届く。師匠が「来るな」と言った、その先に。
その時。
足場が、消えた。
読んだはずの一行が、効かなかった。頭が回らなくて、二文字、読み飛ばしていた。たった、二文字。抜けた記憶が多すぎて、目が、活字を正しく拾えなくなっていた。
僕の体が、宙へ投げ出される。上へ。空へ。あの日、師匠がそうされたように。世界に、拾い上げられる。
「――セン!」
ヨミが、叫んだ。透けた手が、僕へ伸びる。届かない。掴めるはずがない。彼女は本の一部で、実体なんて――
掴めた。
冷たくて、頁みたいに薄い手が、確かに僕の手首を握っていた。ヨミの体が、ぶわりと光る。どこかで、頁のめくれる音がした。
「わたしを、読んで!」ヨミが叫んだ。「わたしの体、原初書の一部。今だけ――足場に、して!」
「そんなことしたら、君が薄れる!」ただでさえ、名前をなくして存在が不安定なのに。この法則暴走の中で自分を差し出したら――「消えるかもしれないんだぞ!」
「いいから!」ヨミが、笑った。泣きそうな顔で、それでも。「わたし、あなたの読む声だけが道しるべなんです。だったら、道になるくらい――させて!」
僕は、読んだ。ヨミという、名もない一頁を。
彼女の体が、光の階段になって、空へ架かった。段のひとつひとつが、まだほのかにあたたかい。ヨミの体温が、そのまま形になったみたいに。僕はその上を、駆け上がる。一段、また一段。踏むたびに、光が薄くなっていくのがわかる。踏むたびに、ヨミが減っていく。
彼女は、自分を差し出している。名前もないのに。自分が何者かも知らないのに。それでも僕のために、迷いもせず、自分の頁を。
だったら、僕も出し惜しみはしない。記憶なんて、いくらでも払う。安いものだ。師匠一人守れなかった僕の頭の中身なんて、この街の一人分にも、彼女の一段にも、釣り合わない。
尖塔の頂に、たどり着いた。
そこに、男がいた。
だぶついた黒衣。裂けたように横へ広がった口。手の中で、黒い鍵が、心臓みたいに脈打っている。男は、落ちていく街を見下ろして、うっとりと目を細めていた。悲鳴を、聴いていた。
「見ろよ」
男が言った。僕がそこにいることにも、気づかず。
「街が飛ぶ。人間ってのは、落ちるとき一番いい声で鳴くんだ。ヴァイス様は書き直すなんて辛気くさいことを言うが……オレは、こっちのほうが好きでね」
背教者。ヴァイスの、手の者。師匠を殺した男の、同じ系譜。
こいつが、鍵を握って、街を落としている。何万の命を、ただの見世物にして。悲鳴を、酒みたいに味わって。うっとりと。
腹の底で燃えていた熱が、ふっと、静かになった。怒りじゃない。もっと冷たくて、まっすぐな、何か。研ぎ澄まされていく、何か。
「その鍵を」僕は、本を開いた。「返してもらう」
男が、振り向いた。「あぁ? ……なんだお前、読み手か。ガキが一人で、何ができ――」
「原初書、重力の章」
男の言葉が、途中で止まった。
僕は、本を掲げた。ヨミが最後に灯してくれた光の中で、いちばん長い、いちばん重い一節を、見た。普段の僕なら、途中で頭が焼き切れて、記憶が根こそぎ持っていかれる。読み切れるはずのない、一節。
でも。
指先に、まだヨミの温度が残っている。空には、誰も落とすものかと踏ん張っている何万の足がある。背後には、還る場所を待っている街がある。
読める。今なら、読み切れる。
僕は、深く、息を吸った。
《 落ちるとは、還ることである。すべては、あるべき場所へ。空にあるものは地を恋い、地にあるものは天を仰ぐ。されど世界よ、忘れるな――お前の下は、いつだって、ここにある 》
僕は、読み切った。
声が、街じゅうに、響いた。
その瞬間。
空へ落ちていた街が――止まった。
ぴたり、と、世界が息を止めた。
次の刹那。砕けかけた尖塔が、剥がれた屋根が、宙に散った瓦礫の一つ一つが、逆再生のように、ゆっくりと、あるべき場所へ還りはじめた。上へ落ちていたものが、下へ。下へ。石が石の隣へ。梁が梁の上へ。窓が窓枠の中へ。街が、地面を思い出していく。
割れた鐘が、塔のてっぺんへ戻って、一つ、鳴った。まるで、何事もなかったみたいに。
空の下で、何万という人が、地に足をつけたまま、呆然と天を仰いでいた。落ちていたことを、うまく思い出せない顔で。ついさっきまで自分たちが空へ吸われていたことが、悪い夢だったみたいに。
誰も、落ちなかった。
一人も。
男の顔から、笑みが、消えていた。
「……嘘、だろ。ガキ一人で、重力の章を、丸ごと――」
「まだ終わってない」
僕は、男を見据えた。息も絶え絶えで、記憶はごっそり軽くなって、足元もふらついて、それでも。
「その鍵、返せ。モルグ」
「オレの名を……なんで」
「三行目に、書いてあった」
お読みいただきありがとうございます。
落ちる街を、セン一人が「読み切って」止めました。この物語で一番描きたかった、無双の一回です。少しでも胸が熱くなっていたら、書いた甲斐があります。
でも、鍵はまだモルグの手の中。次回、第4話「鍵を握る手」。戦えない司書が、あの背教者からどうやって鍵を奪い返すのか――ここからが、本当の駆け引きです。
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