第2話:名前のない栞
「三行目です。読んで」
少女は、そう言った。
崩れかけた書架の隙間、瓦礫と瓦礫のあわいに、光が人のかたちを取っている。輪郭は淡くて、向こうの倒れた棚が透けて見えるほど薄い。体そのものが、頁を何枚も重ねて逆光にかざしたみたいだった。
長い髪は、その一筋一筋が、めくれかけた紙のように音もなく揺れている。風はない。それでも、揺れていた。
人間じゃない。ひと目でわかった。
でも、不思議と怖くはなかった。むしろ、こんな災厄のただ中で、その光だけが妙に落ち着いて見えた。落ちていく世界の中で、ただ一つ、正しい場所に留まっているもの。そんなふうに見えた。
「三行目って……何の」
僕の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「あなたが今、握っている本の」
少女は、僕の胸を指さした。腕を伸ばすと、透けた指先の向こうで、落ちていく街のかけらが小さく瞬いた。
「早く。この一角、もうすぐ『下』を忘れます」
言われて、床が軋んだ。
師匠が最後に溶かした重力の名残が、足の裏から薄れていくのがわかる。書架が、ふっと重さを失って、じわりと浮きはじめた。留め具の外れた本が、一冊、また一冊、ゆっくりと宙へ滑り出す。
考えている暇はなかった。
僕は腕の中の本を開いて、三行目を探した。無数の、知らない文字。びっしりと並んだそのいちばん上から、三行目。
さっき師匠のために読んだ一行とは違う。もっと長い。もっと、深い。文字の一つひとつが、こちらを見返してくるようだった。
《 支えとは、名を呼ぶことである。落ちるものにも、そこにあれと呼べば、応える 》
僕は、読んだ。
声が、僕の口から出て、書架を撫でていく。
浮きかけた棚が、ぴたりと床へ戻った。宙に泳いでいた本が、あるべき場所へ吸い込まれる。軋みが止まる。この一角の「下」が、もう一度、思い出された。
でも、その代わり。
頭の奥から、何かがすっと抜けた。冷たい風が、耳のうしろを通り抜けたみたいに。たぶん、どうでもいい何かの記憶が――消えた。何を忘れたのかさえ、もう思い出せない。忘れたという感触だけが、うっすら残っている。棚から一冊、抜き取られた本の、そのぶんの隙間みたいに。
「代償です」
少女が、静かに言った。憐れむでも責めるでもない、事実だけを置くような声だった。
「読み手は、読むたびに何かを差し出す。あなたのは、記憶」
「……知ってるみたいな言い方だ」
「知ってます。全部、そこに書いてありますから」
少女は、崩れかけた街を見渡した。
その目に、頁がめくれるみたいな光が、いくつも走る。何百冊もの本を一度にめくったような速さで、瞳の奥を白い光が横切っていった。
「わたし、たぶん、この本の一部なんです。どこに何が書いてあるか、わかる。だから――道しるべには、なれます」
「たぶん、って」
「自分のことは、書いてないんです」
少女は、少しだけ困ったように笑った。透けた頬が、笑うと少しだけ濃くなる。
「わたしには、名前がない。呼ばれ方も、思い出せない」
名前がない。
その言葉が、なぜか胸に刺さった。
師匠を失って、意味のわからない遺言だけを抱えた僕と、名前を失って、意味だけを抱えたこの子と。向いている先は逆なのに、欠けているかたちが、どこか似ている気がした。片方に穴の空いた本を、二冊、背中合わせに並べたみたいに。
街は、まだ落ちている。
どこか遠くで、また一棟、建物が根こそぎ天へさらわれる音がした。低く、長い、地面が裂けるような音だ。
頭上では、屋根が、塔が、人が、次々と空へ吸われていく。僕一人では、この本のどこを読めばいいのかも分からない。無数の頁、無数の一行。師匠のように、目で舐めるだけで正しい行を選ぶような芸当は、まだできない。
でも、この子がいれば――どこを読むべきか、教えてくれるなら。
「頼んでいいか」
僕は言った。声が、さっきより少しだけ据わっていた。
「どこを読めばいいか、教えてくれ。僕は、街を止めたい」
少女は、目を丸くした。透けた頬に、ほんのり色が差した気がした。
「……いいん、ですか。わたし、名前も、何者かも」
「僕もだよ」
僕は、本を抱え直した。表紙の縁が、指の中で少しあたたかい。
「わからないことは、これから読めばいい」
少女は、しばらく僕を見つめて、それからこくりと頷いた。小さな、でも迷いのない頷きだった。
「じゃあ、呼び名がいります」
少女は、指を一本、すっと立てた。
「あなたが読むとき、わたしが導く。……“読み”の、ヨミ。それで、いいですか」
「ヨミ」
呼んでみると、なぜだか、しっくりきた。舌の上で、前からそう呼んでいたみたいに馴染んだ。
「よろしくお願いします、セン」
「僕の名前、言ってないけど」
「三行目に、書いてありました」
ヨミは、いたずらっぽく笑った。
さっきまでの、神託みたいに澄んだ声とは、まるで別人だった。頼りない少女の顔と、世界の全部を知っている顔。二つの顔が、同じ子の中で、くるくると入れ替わる。
その落差に、僕は少しだけ、目を奪われた。
*
空では、まだ街が壊れ続けている。
石の壁が剥がれ、屋根瓦がひとかたまりになって天へ流れていく。落ちるべきものが、ことごとく上へ落ちていく。
でも、そのなかで。
遠くの尖塔の一つが、不自然に「落ちて」いないことに、僕は気づいた。周りが全部、上へ吸われていくなかで、そこだけが、地に踏みとどまっている。まるで、その一点にだけ、別の重さが働いているみたいに。
「ヨミ。あれ」
「……鍵です」
ヨミの声が、また低くなった。天然な少女の色が抜けて、案内標の声に戻る。
「重力庫の鍵。あの尖塔の下で、誰かが握っている。だから、あそこだけ『下』が生きてる。世界を落としながら、自分の足元だけは、確保してる」
誰かが、握っている。
街が落ちるのは、災害じゃない。事故でもない。誰かが、鍵を握って、わざと世界を落としている。人が空へ落ちて死ぬのを、崩れない足元から、ただ眺めている。悲鳴も、瓦礫の雨も、その尖塔の下からは、さぞよく見えることだろう。
腹の底が、じわりと熱くなった。
「その誰かのところへ行けば、鍵を取り戻せる?」
「取り戻せれば、街は止まります。……でも、セン」
ヨミは、僕の袖を、そっと掴んだ。透けた指なのに、その重みだけは、たしかにあった。
「そこへ行くには、落ちる街を、あなたが読んで渡らないといけない。何行も。何十行も。そのぶん、あなたは――」
「記憶を払う」
わかっている。
読むたびに、僕の中から何かが抜けていく。あの尖塔にたどり着くころには、僕は、いくつの記憶を失くしているだろう。
でも、師匠は言った。お前は七つ全部を読める、世界でお前だけが、と。だったら、今ここで一つも読めないなら、その言葉に、何の意味もない。
僕は、本を開いた。頁のあいだから、埃と、古い紙の匂いが立った。師匠の部屋と、同じ匂いだった。落ちていく街の、その一歩先を読むために。
「行こう、ヨミ。どこから読めばいい」
「――一行目、から」
お読みいただきありがとうございます。
名前を失った少女ヨミと、記憶を差し出しながら読む司書セン。二人の道行きが、ようやく始まりました。落ちる街の中心で「鍵を握る誰か」とは、いったい何者なのか。
そして、センが払う「記憶」の代償は、これからどれだけ重くなっていくのか。
次回、第3話「一節を、読み切る」。落ちる街を渡りながら、セン、初めて“一節”を最後まで読み切ります。この物語の「読む」がどんなものか、いちばん見てほしい回です。
どこから読めばいいか――続きは、次の一行目から。ブックマークで応援してもらえると、とても励みになります。




