第1話:街が、空へ落ちる
世界は本で出来ている。その本が壊れるとき、剣ではなく「読む力」が世界を救う。
空が、下にあった。
首都アレクサの尖塔が、雲を突き抜けて落ちていく。逆さまになった街の底から、鐘の音が悲鳴みたいに転がり落ちてくる。石畳が、屋根が、洗濯物の白い旗が、みんな青い深みへ吸い込まれていく。
僕は、それを図書館の窓から見ていた。指が、窓枠に食い込んでいた。息の仕方を、忘れかけていた。
「セン。手を離すな」
師匠の声がした。ガラン師匠。この大禁書図書館ビブリオンで、ただ一人《原初書》を読み切れる読み手。その師匠が、僕の腕を掴んでいる。掴んでいなければ、僕もとっくに天井へ――いや、空へ落ちていた。
骨がきしむほど強い手だった。それでも、その手のひらだけが、今この世界で唯一「下」を知っている場所みたいに温かかった。
「重力庫が、破られた」
師匠は短く言った。それだけで、僕には全部わかってしまう。
この世界は、一冊の本で出来ている。《原初書》。世界のすべての法則が、そこに書かれている。そして七つの禁書庫が、その法則を一つずつ守っている。重力庫は――「落ちる」という決まりを守る庫だ。
その庫の鍵が、盗まれた。だから世界は「下」を忘れた。人も、家も、街も、行き先を失って空へ吸い上げられていく。窓の外を、誰かの声が上へ、上へと過ぎていった。
「師匠、鍵は」
「奪ったのは、ヴァイスだ」
その名前を、師匠は苦い薬みたいに口にした。飲み込むのに、少しの間がいる名前。
背教の鍵守ヴァイス。かつて師匠の弟弟子だった男。世界という本を「欠陥品」だと言い放ち、書き直すために七鍵を狙う男。名前だけは、僕も何度も聞いていた。師匠がその名を口にするたび、いつも語尾が少しだけ、削れていたことも。
書庫の大扉が、内側から白く凍りついた。凍りついた、というのは正しくない。文字が、扉一面に浮かび上がったのだ。びっしりと、意味を成さない文字が、氷の結晶みたいに広がっていく。冷たい光が、僕らの頬を青く染めた。
その文字の向こうから、男が歩いてきた。足音は、しなかった。
灰色の外套。灰色の目。表情は、驚くほど穏やかだった。人を殺しに来た顔ではない。図書館に本を返しに来た、それくらいの静けさで、ヴァイスは僕たちの前に立った。
「久しぶりだね、ガラン」
「その鍵を返せ、ヴァイス」
「返す? まさか」ヴァイスは笑った。口の端だけの、乾いた笑みだった。「これは返すものじゃない。使うものだ。――兄さん、あなたはまだ、この欠けた本を後生大事に読み継ぐつもりか。滑稽だとは思わないか」
「世界は、欠けてなどいない」
「欠けているよ。だから人が落ちる。だから人が死ぬ」ヴァイスは掌の上で、黒い鍵を弄んだ。鍵が、ぬめるような光を撥ねた。「壊すんじゃない。書き直すんだ。誰も落ちなくて済む、正しい世界に」
師匠は、僕を背にかばった。広い背中が、僕の視界を灰色から遮った。
その瞬間、僕は見た。師匠の唇が動くのを。読んでいる。原初書の一節を、声にならない速さで読み込んでいる。凍りついた文字が、はがれ落ちるように溶けていく。師匠が世界を、押し戻そうとしている。空気が、震えた。
でも、遅かった。
ヴァイスが、鍵を回した。
空気が、逆さになった。
僕の胃が浮いた。書架が、本が、僕らの足元が、いっせいに天井へ向かって落ちはじめる。数千の頁が、白い鳥の群れみたいに舞い上がる。師匠の手が、僕の腕から引きはがされる。
「師匠――!」
「セン!」
落ちていく師匠が、最後に投げたものがあった。一冊の、古い本。革の表紙が擦り切れて、背の金文字も半分消えた本。それが、逆さまの空を横切って、僕の胸に飛び込んでくる。
僕は、それを抱きしめた。抱きしめることしか、できなかった。胸の中で、本が心臓みたいに脈打った気がした。
「読め、セン」
落ちながら、師匠が言った。声は遠いのに、耳のすぐそばで鳴っているみたいだった。
「お前は――七つ全部を、読める。世界で、お前だけが」
「意味がわからない! 師匠、手を――!」
伸ばした指が、宙を掻いた。届かない。あと少しの距離が、永遠みたいに開いていく。
「聞け」
師匠の目が、まっすぐ僕を射た。落ちていくのに、その眼差しだけは、少しも落ちていなかった。
「次は、来るな」
それが、最後だった。
凍った文字の壁の向こうへ、師匠の体が吸い込まれ、消えた。ヴァイスの姿も、いつのまにか無い。あとに残ったのは、白く灼けた文字の残光だけ。
あとには、逆さまに落ちていく街と、僕と、胸に抱いた一冊だけが残された。
*
どれくらい、そうしていただろう。
僕は書架の残骸に足を引っかけて、かろうじて「落ちて」いなかった。世界の上下は狂ったまま、それでもこの図書館の一角だけは、師匠が最後に溶かした文字のぶんだけ、まだ「下」を覚えていた。ここだけが、沈みかけた船の、水面から出ている最後の一枚の板だった。
でも、それも長くはもたない。足元の床が、ときどき思い出したように震えた。
窓の外で、街が砕けはじめている。空へ落ちた家々が、上空でぶつかり、割れ、破片になって降ってくる。降ってくる、というのも変だ。上へ、だ。何もかもが上へ壊れていく。硝子が、木が、石が、青い空に吸い込まれて銀の粉になる。
このままでは、アレクサは消える。何万という人が、空へ落ちて死ぬ。
僕にできることなんて、何もない。剣も魔法も使えない。僕はただの司書見習いで、本を読むことしか知らない。指先は震えて、膝は立たず、涙だけが、なぜか上へ流れていった。
――お前は、七つ全部を読める。
師匠の声が、耳の奥で反響する。消えかけた残響を、僕は必死に掴んだ。
僕は、胸の本を見た。震える指で、表紙をめくる。中には、僕の知らない文字が、生きているみたいに這っていた。読めるはずがない。こんなもの、誰にも――
文字が、読めた。
まるで、ずっと前から知っていた言葉みたいに、するりと頭に入ってくる。それは、原初書の断片だった。重力の、章。頁の上で、文字が僕を待っていたように、静かに光った。
《 落ちるとは、還ることである。すべては、あるべき場所へ 》
僕の喉が、勝手に動いた。声が、出た。
その一行を読み上げた瞬間、窓の外で――たった一枚だけ、割れかけた瓦礫が、上への落下を止めた。ほんの一瞬。空中で、その石は「下」を思い出したように静止し、すぐにまた、上へ吸われて消えた。
でも、確かに、止まった。
止められる。読めば。
僕は、本を握りしめた。指先が冷たい。息が浅い。師匠は死んだ。ヴァイスは逃げた。「次は来るな」の意味も、僕が七つ全部を読めるという言葉の意味も、何ひとつわからない。
わからないことばかりだ。
だったら、読むしかない。
わからないなら、わかるまで、読み切るしかないんだ。
僕は立ち上がった。膝が笑っていた。それでも立った。逆さまの空へ、落ちていく街へ、震える声を、それでもまっすぐ向けて。
「――読む」
その時だった。
瓦礫の隙間、ありえない場所に、淡い光が灯った。頁を透かしたような、やわらかい光。それが、人の、かたちをしていく。
「そこ」
声が、した。少女の声だった。落ちていく世界の音の底で、その声だけが、不思議なほど澄んでいた。
「三行目です。読んで」
お読みいただきありがとうございます。
世界は一冊の本で出来ている――そんな図書館で、「読む」ことだけを武器に世界を救う司書の物語です。剣も魔法も使えない主人公が、次回いよいよ落ちる街を止めにかかります。そして、瓦礫の中から現れた「名前のない少女」とは何者なのか。
次回、第2話「名前のない栞」。
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