第14話:壊れゆく街で
街が、沈黙へ、沈んでいく。
ヴァイスに乗っ取られた言語庫の鍵は、シビラの比ではなかった。言葉が、意味が、名前が、片端から引き剥がされ、灰になって、風に散っていく。石畳に彫られた通りの名がほどけ、店先の看板から文字が剥がれ落ち、行き交う人の口から音が抜け落ちる。挨拶が、呼び声が、途中で灰になって崩れる。僕とヨミが必死に繋いだ光の糸も、一本、また一本と、目に見えない指の先で、ぷつりぷつりと断ち切られていった。
人々が、また、通じ合えなくなる。母が子の名を忘れ、伸ばしかけた手を、宙で止める。友が友の顔を、まるで初めて見る他人のものとして、怯えた目で見返す。恋人が、隣にいる相手が誰なのか分からず、後ずさる。広場が、市場が、路地が、意味を失った灰色の静寂に、少しずつ、確実に、覆われていく。
声にならない悲鳴だけが、降る灰の中に、音もなく積もっていった。世界が、言葉を失う前の、最後のざわめきさえ、もう聞こえなかった。
「セン……!」
ヨミの声に、振り向いて、僕は、凍りついた。
ヨミの体が、下半身から、頁のように、めくれ、崩れはじめていた。膝から下が、もう無い。輪郭の縁が薄い紙のように透けて、めくれた端から、白い光の粒が、ほろほろと、こぼれて消えていく。街の「通じ合い」が根こそぎ壊されて、彼女という存在を、かろうじて世界に留めていた合意が、砂のように失われていく。名前のない彼女は、誰にも呼ばれない彼女は、もう、自分の輪郭さえ、保てなくなっていた。
「ヨミ!」僕は、駆け寄って、崩れかける体を、抱きとめた。腕の中の重みが、抱いた端から、羽根のように、いや、それより頼りなく、軽くなっていく。「ヨミ、ヨミ、ここにいる! 散るな! 頼む!」
僕は、ちぎれかけた光の糸を、震える手で、必死に手繰り寄せた。母と子を、友と友を、もう一度繋ごうと。けれど、一本結び直すそばから、三本、四本が、灰に呑まれて消えていく。
呼んでも、繋いでも、追いつかない。ヴァイスが壊す速さに、僕の声一つでは、僕の手ひとつでは、まるで、足りなかった。指のあいだから、世界が、こぼれ落ちていく。
「セン」
声を、かけたのは、シビラだった。
鐘楼を降りてきた彼女は、蒼白な顔で、天を焦がすように暴走する鍵を、見上げていた。ほんの数日前まで、言語庫を操り、言葉で人を分断していた女だ。その彼女が、今は拳を握りしめ、自分の起こした災いが引き継がれ、膨れ上がっていく様を、憎むように、悔いるように、睨んでいた。改心した者にしか浮かべられない、痛みの表情だった。
「あの鍵は、もう、わたしの手を離れた。ヴァイスが、遠くから、直接、握ってる」シビラは、唇を噛んだ。血の気の失せた声だった。「止めるには……庫を、閉じるしかない。言語庫を。合意を、世界に、丸ごと取り戻して」
「どうやって!」僕は叫んだ。腕の中のヨミは、なお崩れていく。「壊される速さに、繋ぎ直す速さが、追いつかない!」
「一本ずつ、じゃ、間に合わない」シビラの目が、僕の腕の中の、消えかけたヨミに、注がれた。「街じゅうの『通じ合い』を、一度に、全部――原初書の言語の章を、丸ごと読んで、世界に『合意』を、返すしか、ないの」
言語の章を、丸ごと。
重力の章を読んだ時のことが、蘇る。あの時ですら、僕は、ごっそりと記憶を持っていかれた。幼い頃に住んでいた街の名も、母の顔も、いくつか。読み終えた後、自分の名前を思い出すのに、しばらくかかった。言語の章は、それより、ずっと、根が深い。世界のすべての言葉の、根っこにある章だ。丸ごと読めば、僕は――僕が、僕であることさえ、忘れてしまうかもしれない。師の顔も。ヨミの名前も。
でも、それ以上に、問題があった。
「読めない」僕は、呻いた。「言語の章は、あまりに、広い。どこに、何が書いてあるか。今の、壊れた世界で、章の全体を、一度に見渡せなきゃ、読み切れない。僕には――道しるべが、いる」
章の、全体を、いちどきに、索引できる、道しるべが。どこに何が書かれているか、はじめから終わりまで、一望に指し示せる、たった一つの目印が。
そんなことが、できるのは。
この世界に、ただ一つ。
――僕の、腕の中に。
「わたし、です」
腕の中で、ヨミが、静かに、言った。
消えかけていた瞳が、まっすぐ、僕を、見上げていた。もう、頼りない少女の顔ではなかった。世界の全部を知っている、栞の、顔だった。
「わたしは、原初書の栞。言語の章の、どこに何が書いてあるか、はじめから終わりまで、全部、索引できます」ヨミの声は、崩れゆく体からは信じられないほど、静かで、澄んでいた。ずっと探していた自分の役目を、ようやく見つけたような、そんな声だった。「わたしが、章の全体を、いちどきに、あなたに開いて見せる。そうすれば、あなたは、迷わない。読み切れる。街じゅうの合意を、一度に、まとめて、世界へ返せます」
「……それ、を、したら」僕は、嫌な予感に、声が震えた。「君は、どうなる」
ヨミは、答えなかった。
答えの代わりに、彼女は、笑った。あの、いたずらっぽい、けれど、どこか泣きそうな、笑顔で。灰の光の中で、その笑みだけが、あたたかかった。
「セン」ヨミは、僕の頬に、消えかけた手で、触れた。指先の感触は、もう、ほとんど無かった。温度も、重さも。それでも彼女は、確かに、僕に触れようとしていた。「あなた、言ってくれましたよね。世界のためじゃなくて、わたしのためだって。だから読むんだって。……嬉しかった。名前もないわたしを、消えてしまうかもしれないわたしを、そんなふうに、思ってくれる人が、この世に、いるなんて。それだけで、わたし、ここにいた意味が、あった気がします」
「ヨミ、待て。まさか」
「章の全体を、いちどきに開くには」ヨミは、そっと、僕の腕から、身を起こした。膝から下の無い体で、光の粒をこぼしながら、それでも、背筋を伸ばし、まっすぐ、立って。灰の風の中で、めくれた頁の縁を、小さく震わせながら。まるで、これが最後の仕事だと知っているように。「わたし自身の頁を――一枚残らず、全部、開いて、あなたに、読ませないと、いけないんです」
自分の、頁を、破って。
その意味が、わかった瞬間、僕の全身が、氷になった。頁を全部開いて、読ませる。索引そのものを、余さず開ききる。書物は、栞を挟むためにあるのではない。栞は、書物に読まれるためにあるのではない。開ききった栞は、二度と、閉じられない。それは、栞が、栞でなくなること。ヨミが、ヨミでなくなること。この世界から、彼女という一冊が、永遠に、失われること。
「だめだ!」僕は、叫んだ。喉が裂けるほどに。「そんなの、許さない! 君が消える! 絶対に、だめだ!」
「セン」
ヨミは、崩れゆく街の、灰色の光の中で、僕を振り返った。
その顔は、もう、覚悟を、決めていた。
お読みいただきありがとうございます。
言語庫の暴走が、ついに最大へ。街じゅうの合意を一度に取り戻すには、原初書の言語の章を丸ごと読むしかない。けれど、それには「章の全体を索引する栞」――ヨミ自身が、その頁を破る必要がありました。彼女が消えることと引き換えに。
「絶対にだめだ」と叫んだセンに、ヨミの覚悟はもう決まっている。二人の答えは、決してすれ違ったままでは終わりません。
次回、第15話「名前を、呼ぶ」。第二章、クライマックス。破ろうとする頁を前に、センが最後に選ぶ一手とは。いよいよ言語庫編の決着です。ブックマークで、見届けてもらえたら嬉しいです。




