第13話:言葉に、殺された女
シビラは、崩れた鐘楼の上で、膝を抱えていた。
半ば落ちた尖塔の縁に、赤いドレスの裾が、旗のように、力なく垂れている。いつも歌うように動いていた指先は、今は、自分の膝を、きつく握りしめているだけだった。眼下の街から立ちのぼる喧噪も、ここまでは届かない。世界の音から、彼女一人が、切り離されているようだった。
街じゅうに灯った光の糸に、彼女の壊す力は、もう、追いつかなくなっていた。
人々は、言葉が通じなくても、身振りと表情で、必死に通じ合いはじめていた。手を挙げ、頷き合い、指を差し、笑って、また指を差す。壊された言葉の跡から、別の通じ合いが、雑草のように、いくつも芽を出していた。
シビラの「たった一つの通じる声」は、もう、誰も、聞いていなかった。
僕とヨミは、瓦礫の階段を、鐘楼の上まで登った。追い詰めるためじゃない。話すためだった。
「近寄らないで」
シビラが、顔も上げずに言った。声から、あの、耳を絡め取るような蜜が、すっかり抜け落ちていた。残っていたのは、擦り切れた、素のままの声だった。
「わかったような顔で、来ないで」
「あんたの傷を、聞かせてくれ」
僕は、少し離れて、腰を下ろした。冷たい石が、掌に触れた。
「利用されたまま、消えるのは、違う気がする」
シビラは、長いあいだ、黙っていた。風が、彼女のほつれた髪を、何度も撫でていった。それから、ぽつり、ぽつりと、堰から漏れる水のように、話しはじめた。
彼女には、妹がいた。言葉の、上手な妹だった。
姉のシビラが黙り込むところで、妹はいつも、言葉を見つけた。喧嘩をした隣人にも、泣いている子どもにも、ちょうどいい一言を、そっと差し出せる子だった。市場では、値切るのも、仲直りさせるのも、いつも妹の役目だった。姉さんは笑ってるだけでいいよ、と、その子はよく言った。言葉は、人と人を、結ぶものだと――妹は、そう信じて、疑わなかった。姉のシビラより、ずっと、深く。
ある日、街に、一つの噂が流れた。根も葉もない、嘘だった。
「あの姉妹は、疫病を持ち込んだ」と。
誰かが、面白半分に、口にした、たった一言。それが、通じる言葉に乗って、人から人へ、家から家へ、街じゅうに広がった。
人々は、その言葉を、信じた。
昨日まで挨拶を交わしていた顔が、一つ、また一つと、背を向けた。目が合うと、逃げるように逸らされた。姉妹の家の戸に、石が投げられた。窓の硝子が割れ、壁には、白い漆喰で、読めもしない呪いのような言葉が塗りたくられた。井戸に、近づくなと言われた。パンを売ってくれる店も、薬を分けてくれる隣人も、一人残らず、なくなった。言葉一つで、街全体が、二人に背を向けるのは、あっという間だった。
妹は、何度も、何度も、「違う」と、言葉で訴えた。言葉が上手なぶん、必死に、言葉を尽くして、説明した。自分たちがどこにも行っていないこと、誰も病んでいないこと、噂には何の根もないことを――順序立てて、丁寧に、心を込めて。広場に立ち、戸を叩き、背を向ける人の袖に縋ってまで、その子は語り続けた。言葉さえ届けば、きっとわかってもらえる。妹は、最後まで、それを疑わなかった。
でも、通じる言葉ほど、嘘を、速く運ぶ。
妹の「違う」は、届く前に、次の噂に踏み潰された。誰も、その必死の声を、聞かなかった。丁寧に紡いだ言葉ほど、言い訳がましいと、嗤われた。
そして妹は、ある朝、川で、見つかった。冷たい水に、髪を広げて、まだ何か言いたげに、口を薄く開いたまま。
「言葉が」
シビラの声が、掠れた。喉の奥で、何かが、引き攣れる音がした。
「あの子を、殺したの。たった一言の、嘘が。そして、あの子の必死の『違う』は、一つも、届かなかった」
彼女は、自分の指先を、じっと見つめた。妹の手を、最後に握った指を。
「……言葉なんて、そういうものよ。嘘を運ぶのは速くて、本当を運ぶのは、遅すぎる。だから、あの子は、間に合わなかった」
鐘楼に、風が吹いた。壊れかけた鐘が、鳴らないまま、低く、うなった。
「だから、なくしたかった」
シビラは、目を閉じた。まぶたが、細かく、震えていた。
「言葉さえ、なければ。嘘に、殺される人も、いなくなる。あの子みたいな子も、二度と、出ない。……ヴァイスは、言ったわ。『言語庫を壊せば、二度と、言葉が人を殺さない世界を作れる』と」
彼女の唇が、皮肉に歪んだ。けれど、その目は、笑っていなかった。
「素敵だと、思ったのよ。ばかみたいでしょう」
僕は、すぐには、言葉が出なかった。
彼女の憎しみは、本物だった。作り物の悪意じゃない。理不尽な、痛みから、まっすぐに伸びてきた憎しみだった。それを、ただの狂気だと、切り捨てられなかった。
でも。
「あんたの妹は」
僕は、静かに言った。
「最後まで、言葉で、『違う』と訴えたんだろう」
シビラの肩が、びくりと、震えた。
「言葉を、信じてたんだ、妹さんは」
僕は、続けた。膝の上で、拳を握った。
「通じるはずだと、信じて、最後の最後まで、必死に、言葉を尽くした。……言葉を、憎んでなんか、いなかった。憎んでいたら、とっくに、口を噤んでいたはずだ」
「――やめて」
「言葉を壊したら、あんたは、妹さんの『違う』ごと、この世から、消すことになる」
僕は、鐘楼の下を指した。光の糸で、繋がり直しつつある街を。手を振り、頷き合う、名も知らぬ人々を。
「見てくれ。あの人たちは、言葉が壊れても、通じ合おうとした。身振りで、表情で、涙で、必死に。……人は、通じ合うことを、諦めないんだ。あんたの妹さんが、最後の一息まで、諦めなかったように」
シビラの、赤い唇が、震えた。
目に、光るものが、ゆっくりと、盛り上がった。長いあいだ、堰き止めていた何かが、崩れる音を、僕は聞いた気がした。
「……じゃあ、あの子は」
掠れた声で、彼女は言った。指が、宙を、探すように動いた。
「あの子は、何を、信じて、死んだの。……こんな、言葉の通じない街で」
「わからない」
僕は、正直に言った。嘘を、言いたくなかった。
「でも、少なくとも、言葉を憎んで死んだんじゃない。通じると信じて、手を伸ばしたまま、逝ったんだ。……それだけは、確かだ」
その時だった。
シビラの胸元で、彼女が握っていた言語庫の鍵――赤黒い、舌のような形の鍵が、ひとりでに、脈打ちはじめた。どくり、と、生き物のように。
「……ヴァイス」
シビラが、はっと、それを見た。指の隙間から、鍵が、熱を帯びて光っていた。
「まさか、この鍵、遠隔で――」
鍵が、彼女の意志を離れて、暴走をはじめた。
街じゅうの言葉が、今度は、繋いだ光の糸ごと、根こそぎ、引き裂かれていく。シビラが握って、かろうじて加減していた「壊し」の、何倍もの勢いで。
芽吹きかけた通じ合いが、片端から、焼き切られていく。
「ヴァイスが、鍵を、乗っ取った」
ヨミが、青ざめた。
「シビラが、迷ったから。……使えない道具は、直接、動かすつもりです。街を、言葉ごと、完全に、消すために!」
お読みいただきありがとうございます。
シビラが言葉を憎む理由――「嘘に殺された妹」。けれどその妹は、最後まで言葉を信じて「違う」と訴えていた。シビラの迷いを見たヴァイスは、彼女ごと切り捨て、鍵を乗っ取ります。
次回、第14話「壊れゆく街で」。加減を失った言語庫の暴走が最大へ。繋がりかけた街が、もう一度、引き裂かれます。そしてその渦の中で、ヨミの存在も、静かに限界へ近づいていきます。
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