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禁書図書館の七鍵守り 〜世界が壊れるたび、僕は一冊を「読んで」直す〜  作者: 文倉 栞


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第12話:通じ合う、ということ

 最初に繋いだのは、はぐれた母子だった。


 崩れかけた家の、瓦礫の陰。母親が、泣きじゃくる子を、必死にあやしていた。腕に抱え込み、頬を寄せ、口を動かす。でも、言葉が通じない。「大丈夫」も「ここにいるよ」も、この街ではもう、ただの音でしかなかった。意味を剥がされた音は、子の耳の上を、素通りしていく。


 子は、母を、見ていた。すぐ目の前にいる母を、まるで見知らぬ他人を見るように。すがるものが分からず、ただ怯えて泣いていた。母親の目に、じわりと、涙が盛り上がる。抱きしめているのに届かない――それが、いちばん、つらい。声を尽くしても、腕に力を込めても、そのぬくもりが「あなたを想っている」という意味へと結ばれない。言葉を奪われるとは、そういうことだった。すぐ隣にいる人が、遠い。


 僕は、ヨミの手を取った。細く、まだ少し透けている手だった。指を絡めると、体温とも呼べない、かすかなあたたかさが返ってくる。


「あの母親が、子に伝えたい『意味のかたち』を」


「……はい」ヨミが、そっと目を閉じる。まぶたの裏で何かを掬い上げるように、少し間を置いて――その目が、ふっと光った。「すごく、あたたかいです。『あなたが、いちばん、大切』」


 僕は、その意味を、声にした。言葉ではなく、かたちのまま。喉の奥から、音の器を借りて、母の想いだけを、まっすぐに。


 子の泣き声が、止まった。


 しゃくり上げていた小さな胸が、ふ、と静まる。きょとん、と、母を見上げた。そして――ふにゃりと、笑った。何を言われたのか、わからない。言葉の意味なんて、ひとつも。でも、確かに、母の気持ちが、届いた。子は、両手を広げて、母の胸に、飛び込んだ。


 その瞬間だった。


 二人のあいだに、細い、光の糸が、灯った。


 髪の毛ほどの、頼りない一筋。けれど、母子の呼吸に合わせて、脈打つように、あたたかく揺れていた。触れれば消えてしまいそうで、それでいて、決してほどけない――そういう光だった。淡い金色が、母の胸と、子の背とを、たしかに繋いでいる。この街に落ちてから初めて見る、まっとうな「あたたかさ」の色だった。僕は、それを、目に焼きつけた。


「見えました?」ヨミが、囁いた。声が、少しふるえていた。「あの二人、今、『合意』を取り戻した。『この気持ちは、本物だ』って、二人で、信じ合った。……シビラが独り占めしてる合意を、一本、取り返したんです」


 一本ずつ。


 気の遠くなるような作業だった。この街には、何万という人がいて、そのすべてが、通じ合えずに孤立している。でも――だからこそ、街には、通じ合いたい気持ちが、あふれていた。案じる気持ち、詫びたい気持ち、感謝したい気持ち。届けたいのに届かない想いが、あちこちで、行き場を失って燻っていた。


 その一つ一つを、僕とヨミは、拾い上げ、繋ぎ直していった。ヨミが意味のかたちを読み、僕がそれを声にする。ヨミが「この人は、謝りたいんです」と囁けば、僕はその詫びを、こわれものを渡すように、相手のもとへ届ける。地味で、根気のいる往復だった。派手な一撃で街を救う力なんて、僕にはない。ただ、一組ずつ、通じ合いを結び直していく。それだけを、ひたすらに繰り返した。喉が渇き、記憶の端がぼやけても、手は止めなかった。


 繋ぐたびに、光の糸が、灯った。


 そして、糸が増えるほど――ヨミの体に、色が、戻っていった。


 指先から、腕へ。頬から、髪へ。透き通っていた輪郭が、少しずつ、この世界に根を張っていく。


「あたたかい」ヨミが、自分の手を、しみじみと見つめて、微笑んだ。手のひらを陽に透かすように、開いたり閉じたり。「みんなが、意味を信じ直すたびに、わたし、濃くなる。……わたし、この街の『通じ合い』で、できてるんですね」


 その声には、自分の正体を一つ知った、静かな喜びが滲んでいた。


 街の空気が、変わりはじめた。


 諍いが、減った。伝わらない苛立ちに任せて怒鳴っていた人々が、ふと口をつぐみ、代わりに、身振りで、表情で、必死に、何かを伝え合おうとしはじめる。眉を寄せ、手を差し出し、目で問う。そうして――伝わると、笑った。安堵が、顔いっぱいに広がる。光の糸が、街のあちこちで、ぽつ、ぽつ、と灯りはじめた。夜の水面に散る、無数の灯火のように。


「――邪魔を、してくれるじゃない」


 赤い声が、頭上から降ってきた。


 シビラが、屋根の上に、立っていた。逆光の中、赤い裳裾を風に遊ばせて。けれどその顔から、いつもの余裕の笑みが、消えていた。


「せっかく、静かな街に、してあげてたのに」シビラは、いらだたしげに、髪をかき上げた。指先が、こめかみを乱暴に掻く。「みんな、通じないほうが、幸せなのよ。通じ合うから、裏切られる。通じ合うから、傷つく。……言葉なんて、なくなればいいの」


 その声に、初めて、蜜ではないものが、混じった。


 憎しみでも、狂気でもない。もっと、生々しくて、古い――傷、だった。とうに乾いたはずの、けれど触れれば今も痛む、そういう傷。妖艶に張っていた声の膜が、ほんの一箇所、薄く裂けて、その奥から、ずっと昔の痛みが、覗いていた。彼女自身、気づいていないのかもしれない。声にそんなものが混じったことに。


「あんたは」僕は、まっすぐ、シビラを見上げた。「言葉に、裏切られたことが、あるのか」


 シビラの、赤い唇が、一瞬、強張った。ほんの刹那、目の奥で、何かが揺れる。


「……関係、ないでしょう」


 声を取り繕う、その一拍の遅れが、答えのようだった。


「ある」僕は言った。「あんたが、これほど言葉を憎むには、理由がいる。ヴァイスは、あんたのその傷を、利用してる。街を壊す道具に」


「黙りなさい!」


 シビラが、手を振り下ろした。


 街じゅうの言葉が、いっせいに、崩れた。看板の文字が砕け、人々の声が濁り、意味が塵になって舞う。僕らが繋いだ、光の糸まで、断ち切ろうと、黒い亀裂が、地を裂いて走る。


 でも。


 糸は、切れなかった。


 黒い刃が触れた、その先で。母子の糸は、ただ静かに、光を保っていた。友の糸も、詫びの糸も、亀裂に呑まれることなく、灯り続けている。一度、心から通じ合った気持ちは、言葉が壊れても、もう、ほどけなかった。むしろ亀裂のほうが、糸に触れて、力なく霧散していく。


 シビラが、愕然と、目を見開いた。


「なんで……壊れない」


 その声は、怒りより、狼狽に近かった。


「本物だからだ」僕は、言った。「言葉は壊せても、一度通じ合った気持ちまでは、壊せない。それが――言語庫の、本当の鍵だ」


 シビラは、答えなかった。ただ、断ち切れなかった光の糸を、信じられないものを見る目で、見下ろしていた。屋根の上、風にあおられた赤い裳裾が、頼りなく揺れる。壊す力を持つ者が、壊せないものを前に、立ち尽くしている。その姿は、一瞬、迷子のように見えた。


 僕は、思った。この人もまた、かつては誰かと、あの光の糸で繋がっていたのではないか。そして、それを、断たれたのではないか。


 お読みいただきありがとうございます。


 一本ずつ、通じ合いを繋ぎ直す。地道ですが、一度本物になった気持ちは、もう壊せない。ヨミも、街の「通じ合い」で少しずつ濃くなっていきます。


 そしてシビラの声に滲んだ「傷」。壊す力さえはね返す光を前に、彼女は何を思ったのか。彼女がここまで言葉を憎む理由とは。次回、第13話「言葉に、殺された女」。


 続きも、ブックマークで追ってもらえたら嬉しいです。


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