第11話:消えないで
ヴァイスの言葉は、呪いのように、当たった。
言葉が壊れきるにつれて、ヨミは、消えかけていた。
シビラは、ヴァイスが退いたあと、容赦をやめた。街じゅうの言葉を、根こそぎ、崩しにかかった。看板の文字が、人の名が、交わした約束が、次々と意味を失って、灰になって、崩れていく。石畳に落ちた文字の残骸は、触れる前に、粉になって散った。
広場のあちこちで、人が、うずくまっていた。隣の誰かに何かを言おうとして、口を開いて、けれど、出てくる音が、意味を結ばない。呼びかけた相手の顔さえ、名前が抜け落ちて、ただの他人になっていく。通じ合えないという恐怖が、静かに、街を満たしていった。
そして、言葉が一つ消えるたびに、ヨミの体が、一段、薄くなった。
「セン……手が、見えなく、なってきました」
ヨミが、自分の指を、透かして見た。もう、向こうの景色が、はっきりと見えていた。頁のような体が、めくれ、ほどけ、風に散りかけている。栞に刷られた文字が、端から一行ずつ、白くかすれていくように。
「ヨミ」僕は、彼女の名を、呼んだ。仮初めの、その名を。「ヨミ。ヨミ。ここにいる。散るな」
呼べば、少しは、戻る。彼女の輪郭が、呼ぶたびに、わずかに濃くなる。でも、シビラが言葉を壊す速さに、僕の声が、追いつかない。呼び終える前に、次の言葉が、崩れていく。
名前のないこの子は、皆が「意味を信じる」ことで、かろうじて存在している。誰かが言葉を信じ、意味が世界を繋いでいる――その合意のうえに、ヨミは、立っていた。その合意が、根こそぎ壊されていく世界で、彼女は、真っ先に、消えていく運命だった。栞は、本があってこそ、栞なのだから。開いてくれる手が、なくなれば、栞は、ただの紙切れになる。
それが、彼女の弱さだと、僕はもう、知っていた。だからこそ、消させたくなかった。
「意味の、かたちを読む方法が、あるだろう」僕は、必死に言った。「あれで、シビラの壊した言葉を、片っ端から、直せば」
「……追いつかない、です」ヨミの声が、細い。糸を撚るように、途切れ途切れだった。「シビラは、鍵で壊す。わたしたちは、一つずつ、直す。壊すほうが、ずっと、速い」
その通りだった。
僕らは、穴の空いたバケツで、洪水を、汲み出そうとしているようなものだった。一つ意味を直すあいだに、シビラは、十の言葉を壊す。じわじわと、街は、通じ合えぬ静寂へ、沈んでいく。誰も、誰にも、届かなくなる。
僕は、奥歯を噛んだ。読める。この世界の言葉なら、根っこまで読める。それが、僕の全部だった。なのに、その全部が、いま、何の役にも立たない。読む速さより、壊す速さのほうが、上回っている。そのことが、これほど、悔しいと思ったことはなかった。
路地の壁に、もたれかかった。冷たい石が、背中越しに、街の温度を奪っていく。崩れた家々の隙間から、灰色の空が、覗いていた。ヨミが、僕の隣に、崩れるように座った。もう、立っているのも、辛そうだった。触れた肩は、あるはずの重みが、ほとんど、なかった。手のひらが、彼女の輪郭を、素通りしそうだった。
「セン」ヨミが、囁いた。「もし、わたしが、消えても」
「言うな」
「聞いて、ください」ヨミは、薄い笑みを浮かべた。透けた頬の向こうに、崩れた街並みが見えた。「わたしが消えても、あなたは、七つ全部を読める人です。だから、旅は、続けられる。……わたしのことは」
「続けられない」
僕は、遮った。自分でも、驚くくらい、強い声だった。路地に、跳ね返って、消えた。
「君がいなきゃ、僕は、意味を読めない。言葉の根っこしか読めなくて、そのたびに、自分を失って、いつか、僕が僕でなくなる」僕は、ヨミの、透けた手を、両手で包んだ。かたちだけの、頁の感触。それでも、離さなかった。「それに――それだけじゃ、ない」
言葉が、うまく、出てこなかった。喉の奥で、つかえて、ほどけない。
でも、これだけは、伝えなきゃいけないと思った。壊れた言葉の世界で、いちばん、伝えたいことだった。
僕は、息を、吸った。理屈を、捨てた。ただ、思ったことを、そのまま、言った。
「君が、隣で笑ってるのが、いいんだ」僕は、言った。「『三行目です』って、指を立てるのが。世界の全部を知ってる顔と、名前もわからなくて困ってる顔が、くるくる入れ替わるのが。困ったときに、僕の袖を、ちょっとだけ引くのが。……僕は、それを、守りたい。世界のためじゃなくて。ヨミの、ためだ」
ヨミが、目を、大きく見開いた。透けかけていた瞳の奥に、光が、戻ってくる。
薄くなっていた頬に、じわり、と、色が戻った。散りかけた頁が、風の中で、ふと止まった。ほどけかけた端が、また、一枚ずつ、綴じ直されていくように。さっき僕がどれだけ名前を呼んでも戻らなかった色が、その一言で、灯った。
名前ではなく、意味が、彼女を、この場所に繋ぎ止めていた。
「……セン」ヨミの声が、震えた。「今の、言葉。壊れて、ない。ちゃんと、届きました。意味の、かたちごと」
僕は、はっとした。
そうだ。今の言葉は、通じた。言語庫が壊した、この世界で。シビラの独占を、突き抜けて。壊れた瓦礫の一つも、この一言だけは、崩せなかった。
どうして。
僕が、ヨミのために、心から、伝えたかったから。言葉じゃなくて、意味を、渡したかったから。届けたい相手が、たった一人、目の前にいたから。器が壊れても、中身は、確かに、この手から、彼女へ渡った。
シビラは、言葉という器を、壊せる。でも、その中に込めた「伝えたい」まで、壊せはしない。
「わかった」僕は、立ち上がった。頭の中で、何かが、繋がった。「シビラの『合意』の独占を、崩す方法が、わかった」
「……どうやって」
「一人ずつだ」僕は、街を見た。通じ合えず、うずくまる人々を。名を呼び合えないまま、互いの顔を、探す手を。誰もが、伝えたい何かを抱えたまま、それを渡せずに、立ち尽くしていた。「意味を、直すんじゃない。人と人が、心から何かを伝えたい瞬間を、一つずつ、繋ぎ直す。母が子を思う気持ち。友が友を案じる気持ち。それは、言葉が壊れても、消えない『意味のかたち』だ。壊れた器の底に、それだけは、残っている。それを、僕とヨミで、掬い上げて、渡してやる」
壊すのは、速い。でも。
「本気で、誰かに、何かを伝えたい――その気持ちの数だけ、僕らには、味方がいる。シビラが壊した数より、きっと、多い」
言い切って、僕は、自分の胸が、まだ熱いことに気づいた。読めない世界で、初めて見つけた、読む以外の力だった。
ヨミが、透けた顔で、けれど、まぶしく、笑った。細い指を、一本、まっすぐに立てた。いつもの、あの合図で。薄れかけた輪郭のなかで、その仕草だけは、いつもと変わらず、確かだった。
「……行きましょう、セン。一人ずつ。この街の、通じ合いたい気持ちを、全部。わたしが、案内します。どこに、誰の気持ちが眠っているか――それなら、わたし、知っていますから」
お読みいただきありがとうございます。
消えかけるヨミに、センが伝えた「世界のためじゃなくて、君のためだ」。その本気の言葉だけが、壊れた世界で通じた――そこに、シビラの独占を崩す糸口がありました。
次回、第12話「通じ合う、ということ」。壊すシビラと、繋ぎ直すセンとヨミ。ひとりの「伝えたい」から、反撃が始まります。
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