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禁書図書館の七鍵守り 〜世界が壊れるたび、僕は一冊を「読んで」直す〜  作者: 文倉 栞


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第10話:書き直される世界

 ヴァイスは、灰色の外套を、微塵も乱さずに、そこに立っていた。


 崩れかけた街のただ中で、風だけが、溶けた文字を巻き上げていた。その渦のどれもが彼を避けるように逸れていく。地面は割れ、看板の文字は意味を失って裏返り、遠くで誰かが叫んでいる。けれど、彼のいる一角だけは、時が止まったように静かだった。


 壊れた言葉の街で、彼の声だけが、澄んで通る。シビラのような、盗んだ「通じる声」ではない。もっと根本的な――言葉そのものを、支配する側の、静けさだった。


 僕は、師匠の死から、この瞬間を、何度も想像してきた。会えば、叫ぶだろうと思っていた。掴みかかるだろうと。けれど実際に向き合うと、喉が塞がったように、声が出なかった。膝が、かすかに笑っていた。


 最後に見た師匠の背が、この男の前で、崩れ落ちた。その記憶が、目の裏で、まだ焼けている。


「師匠を」僕は、本を握りしめた。指の節が白くなるほど強く。声が、震えないように、腹に力を込めて。「返せ、とは言わない。返るはずがない。……なぜ、殺した」


「殺す、か」ヴァイスは、少し悲しそうに、目を伏せた。まるで、その言葉の重さを、僕以上に知っているとでもいうように。「君には、そう見えるだろうね。だが、私はガランを、救おうとしたんだ。最後まで」


「ふざけるな」


「ふざけてなどいない」ヴァイスは、ゆっくりと街を見渡した。通じ合えず、諍い、傷つけ合う人々を。ひとつひとつを、慈しむような、痛むような目で。「見たまえ、セン。これが、原初書が書いた世界だ。言葉は隔て、人は落ち、そして死ぬ。なぜだと思う? ――原初書が、欠けているからだ」


 欠けている。師匠と同じ言葉を、ヴァイスは、正反対の意味で使った。同じ本を読んで、これほど遠くへ行ける人間がいるのかと、背筋が寒くなった。


「世界という本には、最初から、一節の欠落がある」ヴァイスは、掌を、そっと空へ向けた。「その欠落ゆえに、七つの法則は、いつも不安定に軋んでいる。重力が狂い、言葉が壊れ、時が乱れる。人が苦しむのは、世界が『不完全な原稿』のまま、放り出されているからだ」


 空に舞う、溶けた文字の渦が、吸い寄せられるように、ヴァイスの掌の上へ集まっていく。そして七つの光の点に、静かに凝った。


 僕は、息を呑んだ。隣で、ヨミが、小さく身を強張らせた。その手が、僕の袖を、そっと掴む。


 七つの、鍵の幻。重力、言語、時間、因果、生死、名前、そして――創世。ひとつずつ、脈打つように明滅している。


「私は、七つの鍵を集める」ヴァイスは、七つの光を、愛おしむように見つめた。手の中の宝を確かめる目だった。「そして、最後の庫――創世庫で、原初書を、書き直す。欠落を埋め、法則を正す。誰も落ちず、誰も通じ合えぬことがなく、誰も理不尽に死なぬ、『完成した世界』に」


 世界を、書き直す。神の仕事だ。人ひとりの手に、余るはずの言葉を、彼は、水を差すようにさらりと言った。


 それは、狂気の計画だった。


 でも、彼の声には、狂気の熱がなかった。あるのは、静かで、深い、悲しみだけだった。長く、ひとりで抱えてきた者の悲しみ。だからこそ、恐ろしかった。憎みきれない、という怖さが、胸の底で疼いた。


「君なら、わかるはずだ、セン」ヴァイスが、僕を見た。灰色の目に、初めて、熱が差した。凍った湖に、ひとすじ日が差すように。「君は、七つ全部を読める。ガラン以来の、いや、ガランを超えるかもしれない読み手だ。私と、来ないか。共に、世界を書き直そう。君の読む力があれば――」


「断る」


 僕は、即座に言った。考えるまでもなかった。その熱に、一秒でも触れていたくなかった。


「師匠は、言った。『次は来るな』と」僕は、まっすぐヴァイスを見返した。「意味は、まだわからない。でも、一つだけ、わかることがある。師匠は、あんたの側へ、来るなと言ったんだ。命がけで、僕に、それを遺した」


 ヴァイスの目から、熱が、潮が引くように、すっと消えた。


「……そうか」彼は、静かに言った。声から、色が抜けていた。「ガランは、最後まで、私を拒んだか。あれも、そう言うだろうな。あれは、いつも――」


 言いかけて、口をつぐむ。そこにあったのは、憎しみではなく、遠い日を懐かしむような、ひどく人間くさい表情だった。


 そこで、ヴァイスの視線が、ふと、僕から逸れた。


 ヨミに、注がれた。


 彼の穏やかな顔が、初めて、揺れた。驚きに。そして、抑えきれない、渇望に。灰色の目が、見開かれ、瞳の奥で、なにかが飢えたように光った。


「……まさか」ヴァイスが、一歩、踏み出した。乱れぬはずの外套が、その一歩で、かすかに揺れた。「原初書の、栞。索引が、人の形を取っている。……そんなものが、実在したのか。ガランの弟子が、それを、連れている」


「ヨミに、近づくな!」


 僕は、ヨミの前に立った。背中で、この子の息づかいを感じた。


「君は、知らないのだね、セン」ヴァイスの声に、抑えた興奮が滲んだ。あれほど静かだった声が、初めて、わずかに上ずった。「創世庫で原初書を書き直すには、どこに何が書かれているかを、完全に索引する『栞』が、要る。私が、長年、探し求めていたものだ。それが――そんな、小さな娘の姿で、君の隣に」


 背筋が、凍った。指先から、血の気が引いていく。


 ヨミは、ヴァイスの計画の、最後の鍵だった。僕が、守ろうとしている、この子が。ずっと隣で「三行目です」と笑っていた、この子が。


「ヨミは、渡さない」僕は、本を開いた。頁が、指の下で震えた。ヨミの手を、握った。冷たい、小さな手だった。「意味の、かたちを。ヨミ」


「――はい」


 ヨミの示す「意味」を、僕は、声にした。言葉にならない声が、二人のあいだを走り、ヴァイスと僕らの間に、透明な壁を、編んでいく。文字を経ず、意味だけで張られた、薄い硝子の膜。


 ヴァイスは、その壁に、掌をかざした。押すでもなく、破るでもなく、ただ、確かめるように。指先が、膜の表面を、そっとなぞる。そして――ふっと、笑った。感心と、憐れみの、混ざった笑みだった。


「面白い。言葉を飛ばして、意味を読むか。君たちは、二人で一人の、読み手なのだね」ヴァイスは、外套を翻した。「今日は、退こう。まだ、時が満ちていない。……だが、覚えておくといい、セン。私は、その栞を、必ず貰い受ける。優しく、頼むうちに、渡してくれると、いいのだが」


 最後の一言に滲んだ、静かな確信が、脅しよりも、ずっと重かった。


 灰色の姿が、輪郭からほどけ、溶けた文字の渦に、還っていく。


 消え際、彼は、こう言い残した。


「言語庫は、シビラに任せてある。せいぜい、その子を、失わないように。――言葉が壊れきったとき、名前のないものが、最初に、消えるのだから」


 言葉が、風に溶けた。あとには、壊れた街と、僕の握る、ヨミの手だけが残った。


 その手が、いつもより、頼りなく、薄く感じられた。まるで、頁の縁が、少しずつ透けていくように。


 僕は、握った指に、力を込めた。渡さない。誰にも。師匠の遺言の意味も、この手の温度も、まだ、読み切っていないのだから。


 お読みいただきありがとうございます。


 背教者ヴァイスの目的が、明かされました。七鍵を集め、創世庫で世界を「書き直す」こと。そして――その最後の鍵が、ヨミ(原初書の栞)だった。センが守るべき少女が、敵の狙う核心だと判明しました。


 「名前のないものが、最初に消える」。ヴァイスの残した言葉の意味が、次回、重くのしかかります。


 次回、第11話「消えないで」。言葉が壊れきる前に、センとヨミはシビラを止められるのか。握った手の、薄れていく感触が――。


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