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禁書図書館の七鍵守り 〜世界が壊れるたび、僕は一冊を「読んで」直す〜  作者: 文倉 栞


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第15話:名前を、呼ぶ

「許さないって、言ったろう」


 僕は、ヨミの前に、立ちはだかった。


 背後で、街が軋んでいた。それでも、振り返らなかった。


「君を、失うくらいなら、街なんて、どうでも――」


 そこまで言って、僕は、言葉を、失った。


 崩れゆく街から、声が、聞こえたからだ。言葉にならない、無数の、必死の声。母が子を探す声。友が友を呼ぶ声。通じ合いたいのに、通じ合えず、それでも、諦めない、人々の声。


 その声の束が、僕の胸を、内側から締めつけた。


 その中には、たった今まで、僕とヨミが、繋ぎ直した人たちが、いた。名前も、顔も、覚えている。あの母子。あの、詫びをためらっていた二人。


「……ずるいな、ヨミ」僕は、呻いた。「君は、こうなるのが、わかってて」


 わかっていて、僕の前に、街を差し出した。


「セン」ヨミは、微笑んだ。少しだけ、寂しそうに。「わたしね、名前が、ないんです。だから、ずっと、自分が『いていいのか』、わからなかった。……でも、あなたと旅をして、街の人を、繋いで。わたし、初めて、思ったんです。『ここにいたい』って。この街を、この人たちの通じ合いを、守りたいって」


 ヨミの体が、光を、放ちはじめた。頁が、一枚、また一枚、ひとりでに、開いていく。乾いた紙の、めくれる音。彼女の輪郭が、その一枚ごとに、薄くなっていく。


「これは、犠牲じゃ、ないんです」ヨミは、まっすぐ、僕を見た。揺らがない目だった。「わたしが、初めて、自分で、選んだこと。……読んで、セン。わたしの、全部を。そして、街を、救って」


 僕は、泣きそうな顔で、それでも、頷いた。


 彼女の覚悟を、無駄にはできなかった。それだけは、できなかった。


「ヨミ」僕は、彼女の名を、呼んだ。「絶対に、君を、消させない。読み切ったら、必ず、呼び戻す。……約束、だ」


「はい」ヨミは、光の中で、頷いた。「わたしの、道しるべの声で。何度でも、呼んで、ください」


 ヨミの頁が、全開になった。


 言語の章の、全体が――どこに何が書かれているかの、その全部が、いっせいに、僕の前に、開かれた。広大な、言葉の海。ヨミが、自分自身を、開いて、見せてくれた、世界の索引。


 息が、止まりそうだった。彼女は、自分のすべてを、僕の目の前に、晒していた。


 僕は、読んだ。


 言語の章を、丸ごと。


 一行。二行。息継ぎもせず。文字が、僕の喉を通って、声になる。


《 言葉とは、隔てるものではなく、渡すための橋である。ゆえに世界よ、思い出せ――音は、意味のために生まれ、意味は、心のために生まれた。人が人へ、心を渡そうとする限り、言葉は、決して、死なない 》


 僕の声が、街じゅうに、世界じゅうに、響き渡った。


 その瞬間。


 灰色に沈んでいた街が――光を、取り戻した。


 崩れかけた文字が、意味を、思い出した。看板が、標識が、手紙が、もう一度、読める文字に、戻る。通じ合えなかった人々が、はっと、顔を上げた。母が、子の名を、呼べた。友が、友に、詫びを言えた。街じゅうに、言葉が、意味が、洪水のように、還ってきた。


 乗っ取られていた言語庫の鍵が、脈打つのをやめ、赤黒い光を失って、ただの鍵に、戻った。


 言語庫が、閉じた。


 遠く、どこかで、灰色の外套が、身を翻す気配がした。ヴァイスの遠隔の力が、断ち切られた。舌打ちが、聞こえた気がした。


 街は、救われた。


 でも。


 僕の腕の中で、ヨミが、散っていく。


 全部の頁を、僕に開いて見せた彼女は、もう、輪郭さえ、なかった。光の粒になって、風に、ほどけて、消えていく。指の隙間から、こぼれていく。


「ヨミ!」


 僕は、必死に、彼女の名を、呼んだ。約束した。呼び戻すと。


「ヨミ! ヨミ! 戻ってこい! ここに、いろ!」


 でも、散っていく。「ヨミ」という借り物の名前では、彼女を、この世に、繋ぎとめられなかった。名前のない彼女を、支える合意が、消えかけていた。


 だめだ。届かない。あの日と、同じだ。師匠のように。また、目の前で、失う。腕の中が、また、空になる。


 その時だった。


 街から、声が、返ってきた。


 僕とヨミが、繋ぎ直した、あの人たちだった。母子が、友人たちが、通じ合いを取り戻した人々が、口々に、呼んでいた。姿の見えない、けれど、自分たちを繋いでくれた、光の主を。


 「ありがとう」と。「どこにいるの」と。「戻ってきて」と。


 言葉は、ばらばらだった。方言も、拙い言い回しも、まじっていた。でも、意味は、一つだった。


 ――あなたに、いてほしい。


 街じゅうの、その願いが、その「合意」が、散りゆくヨミの光を、包んだ。ひとつの声では届かなかったものが、幾百の声になって、風の中の光を、抱きとめようとしていた。


 僕は、悟った。ヨミは、この街の「通じ合い」で、できている。なら、街じゅうが、彼女に「いてほしい」と願う限り――彼女は、消えない。


「聞こえるか、ヨミ!」僕は、叫んだ。喉が裂けても、かまわなかった。「君は、一人じゃない! 街じゅうが、君を、呼んでる! 名前は、まだ、ない! でも、みんなが、君を、『いてほしい』と、信じてる! だから――戻ってこい!」


 散りかけた光が、止まった。


 そして、ゆっくりと、ゆっくりと、集まりはじめた。街の願いを、糧にして。ほどけた糸が、手繰り寄せられるように。少女の、かたちに。


 僕の腕の中に、ヨミが、戻ってきた。


 薄くて、頼りなくて、けれど、確かに、そこに、いた。重さが、あった。


「……ただいま、です」ヨミが、かすれた声で、笑った。「セン。あなたの声、ちゃんと、道しるべに、なりました」


 僕は、言葉が、出なかった。ただ、崩れるように、彼女を、抱きしめた。消えなかった。今度は、失わなかった。それだけで、胸が、いっぱいだった。


 腕の中の光は、まだ、頼りなく揺れていた。けれど、たしかに、まだ、灯っていた。



 夜が明けた。


 言葉を取り戻した街に、朝の喧騒が、戻っていた。あたりまえの、「通じ合い」が。呼び売りの声。挨拶。笑い。ゆうべまで、それが、どれほど尊いものか、誰も知らなかった顔で。


 鐘楼の下で、シビラが、待っていた。憑き物が落ちたような、静かな顔で。


「わたしは、協会に、出頭するわ」彼女は、言った。「妹のために、言葉を憎んだ。でも、あなたたちを見て、わかった。……あの子は、最後まで、通じ合いを、諦めなかった。憎むべきだったのは、言葉じゃ、なかったのね」


 シビラは、僕とヨミに、深く、頭を下げた。長いこと、そうしていた。


「教えてくれて、ありがとう。――言葉で、伝えるわ。それが、いちばん、あの子への、供養になる気がするから」


 彼女は、協会の鍵守に伴われて、去っていった。背教者ではなく、一人の、姉に、戻って。その背中は、来たときより、少しだけ、軽そうだった。


 僕は、擦り切れた本を、開いた。


 言語庫が閉じ、二つ目の鍵が、あるべき場所へ還った。でも、原初書の頁には、また、あの筆跡が、滲んでいた。にじみながら、こちらを、覗き込むように。


《 二つ目も、見事だった。だが、次は、そうはいかない。時が、乱れるとき――君は、過去を、知ることになる。私と、ガランの、本当のことを 》


 時が、乱れるとき。


 時間庫。三つ目の、庫。


 そして――「私と、ガランの、本当のこと」。


 師匠の遺言「次は来るな」の意味に、少しだけ、手が、届く気がした。近づけば、きっと、痛いことも、知る。腕の中の温もりを、また、危うくするかもしれない。それでも。


「行こう、ヨミ」僕は、本を閉じた。「まだ、二つ。あと、五つ、残ってる」


「はい」ヨミが、隣で、指を一本、立てた。まだ薄い光の指で、それでも、いつもの、決め所作で。「――道しるべは、わたしにお任せを」


 二人で一人の、読み手。


 落ちない街に、通じ合う言葉が、戻っていた。次の世界が乱れる音は、まだ、遠い。でも、確かに、時を刻んで、近づいていた。


 ――時が、乱れるとき。


 原初書に滲んだ、ヴァイスの一行。次章、第三章「時間庫編」の幕開けの合図です。時の狂った世界で、センは、師ガランとヴァイスの「本当のこと」に触れることになります。遺言「次は来るな」の核心。二人の背教者と一人の師の、そのあいだに何があったのか――核心へ、いよいよ手が届きます。


 そして、ヨミ。街じゅうの「いてほしい」で辛くも戻った彼女は、いま、薄い光でそこにいます。なぜ「名前」ゆえに脆いのか、失った真名はどこにあるのか。その謎は、いずれ来る「名前庫」で、必ず、彼女自身の手に還します。今夜の脆さは、その伏線です。


 次の世界が乱れる音は、もう、遠くありません。第16話、時間庫の入口で、お会いしましょう。ブックマークで、七鍵を巡る旅の続きに、同行してもらえたら。


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