「今夜だけ」のはずが一週間経った。出ていく気配はゼロである
翌朝、シルフィアは帰らなかった。
起きたら小屋の扉が開いて、中からいい匂いがしていた。
なんだろうと思って顔を出したら、シルフィアが俺の鍋を勝手に使って何かを煮ていた。
「おはよう」
「おはようございます。……何を作ってるんですか」
「精霊界の薬湯よ。頭の傷に効く。昨日の夜、裏の森で薬草を採ってきた」
確かに、額の傷はだいぶ引いている。
それより、精霊王の娘が「薬草を採ってきた」という事実に少し驚いた。
「自分で採れるんですか」
「精霊と話せれば、薬草の場所くらい教えてもらえる。ちなみに、あなたの畑の南側に良質なものが群生してたわよ。全部採ってきた」
「……ありがとうございます」
貴重な自生薬草が根こそぎ収穫されていたが、まあいい。
シルフィアは薬湯を椀に注いで、俺に差し出した。
「飲みなさい。農作業で体を傷めてるでしょ」
「俺はそんなに……」
「飲みなさい」
飲んだ。
苦かった。でも体の芯がじんわり温まる感じがした。
「美味しくはないわね」
「ええ」
「でも効くのよ」
「はい」
シルフィアが満足そうに頷いた。
そういえば聞いていなかった。
「帰らなかったんですね」
「……婚約の話し合い、昨日も今日も予定が入ってるらしいの。そろそろ流れるはずだから」
「なるほど」
「邪魔だった?」
「全然」
シルフィアがほんの少し、表情を緩めた。
気づいていないふりをして、俺は朝の畑仕事に出た。
*
三日後、シルフィアはまだいた。
「婚約の話し合い、流れましたか」
「流れた。でも父が次の日程を組もうとしてる」
「そうですか」
「……もう少しだけ。いい?」
「どうぞ」
一週間後、シルフィアはまだいた。
もう誰も「帰らないんですか」とは聞かなかった。
聞いても意味がないのが、なんとなくわかっていた。
*
同居して五日目の朝、シルフィアが宣言した。
「この家、私の部屋はどこ?」
俺は鍬を持ったまま止まった。
「……部屋は一つしかないです」
「じゃあ増築して」
「増築」
「木に頼めばいいでしょう。あなた、木と友達なんだから」
言っていることは正しかった。
俺は木に「もう一部屋、増やすのを手伝ってもらえますか」と頼んだ。
木は「ええよ、材料持っておいで」と快諾した。
半日で部屋が増えた。
シルフィアは新しい部屋を検分して、「窓が小さい」と言った。
木に頼んだら窓が大きくなった。
「日当たりが悪い」と言ったら、枝が自分でよけた。
「棚が欲しい」と言ったら、壁から木の板が生えてきた。
シルフィアが「……この家、すごいわね」と呟いた。
木は「わがままな嬢ちゃんだ」と言いながらも嬉しそうにしていた。
*
六日目、シルフィアが申し出てきた。
「精霊の契約魔法を使わせてあげる」
朝ごはんを食べながら、真剣な顔で言ってくる。
「泊めてもらったお礼よ。精霊と契約を結べば、魔法が使いやすくなるし、精霊からの加護も受けられる。人間にとっては破格の厚遇のはずだけど」
「ありがとうございます。でも、いいです」
シルフィアが止まった。
「……いらないの?」
「俺、スキルで精霊語が話せるので、契約しなくても精霊と話し合えるんです。加護もすでにいただいてる気がしますし」
シルフィアが、ゆっくりと椀を置いた。
「話し合える」
「ええ」
「加護も、もうある」
「たぶん。畑の育ちがよすぎて、土もびっくりしてたので」
シルフィアが立ち上がって小屋を出ていった。
三分後に戻ってきた。顔が少し赤い。
「……森の精霊たちに確認してきた」
「何を」
「あなたが契約なしで加護を受けてるかどうか。本当だった。しかも複数の精霊から、自発的に」
「ありがたいですね」
「ありがたいですね、じゃないのよ!」
シルフィアが声を荒げた。
「精霊の加護って、そんな簡単に出るものじゃないの。何年もかけて信頼を積んで、正式な契約を結んで、それでやっと一柱からもらえるかどうかなの。なのにあなたは一週間で複数から自発的に! しかも契約なし! どういうこと!?」
「……俺にもよくわからないですが、みんな優しくしてくれるので」
「そういう話じゃない!」
シルフィアが額を押さえてどっかりと座り込んだ。
「私のお礼の切り札が……最初からいらなかった……」
「切り札なんて思わなくていいです。シルフィアがここにいてくれること自体、助かってますから」
シルフィアが顔を上げた。
「……助かってる? 私が?」
「薬湯、体に効いてます。村の子どもたちも懐いてるし。あと、精霊たちが嬉しそうなので」
シルフィアが何か言おうとして、やめた。
もう一度言おうとして、またやめた。
三度目に、ようやく小さく言った。
「……そう」
*
七日目の夕方、ルナたちが来た。
子どもたちはすでにシルフィアに慣れていて、今日はルナがシルフィアの髪を編もうと張り切っていた。
「シルフィアおねえちゃん、すわって!」
「おねえちゃん……」
シルフィアが微妙な顔をしたが、ルナはお構いなしに後ろに回って銀色の髪に手を伸ばした。
コルとペペは畑の草むしりを「手伝う!」と言い張って、むしっていい草とむしってはいけない草の区別がつかずに俺を呼びに来た。
夕日が傾いてきたころ、シルフィアは髪を三つ編みにされたまま、ルナに絵本を読んでいた。精霊界の話らしく、子どもたちが「もっと!」と騒いでいる。
俺は夕飯の準備をしながら、その光景を横目で眺めた。
(悪くない)
また、その言葉が浮かんだ。
夕飯を食べ終わって、子どもたちを帰した後、シルフィアが焚き火の前に座って空を見上げていた。
髪はまだ三つ編みのままだ。
俺が隣に腰を下ろすと、シルフィアが言った。
「ねえ、アルト」
「はい」
「あなたって、なんで……」
言いかけて、やめた。
「なんでですか」
「……なんでそんなに平気な顔してるの」
「何がですか」
「全部よ、全部。追放されても怒らないし、精霊王の娘が転がり込んできても動じないし、精霊から加護をもらっても『ありがたいですね』で終わるし」
俺は少し考えた。
「怒ったり動じたりしても、あんまり意味ないので。畑は待ってくれないし、腹は空くし、目の前のことをやってれば、だいたいなんとかなります」
シルフィアがじっと俺を見た。
焚き火の光が、琥珀色の目に映っている。
「……なんで平気な顔してるの!?」
突然、声が大きくなった。
「な、何がですか」
「そういうことを! そういうことをさらっと言うの! やめてよ、なんか、その……っ」
シルフィアが立ち上がって、足早に小屋に入っていった。
扉が、ばたん、と少し強めに閉まった。
俺は焚き火を眺めながら、首を傾けた。
(何か、まずいことを言っただろうか)
土が、呆れたように呟いた。
『鈍いな、お前は』
「何がですか」
『自分で考えろ』
俺にはよくわからなかった。
焚き火が、静かに燃えていた。




