木の上から何かが落ちてきた。銀髪で尖り耳で、めちゃくちゃ怒ってる
何かが、落ちてきた。
朝の水路点検をしていた俺は、頭上で枝が折れる音を聞いた。
反射的に一歩前に出て、両手を広げた。
どすん、と重い衝撃が腕の中に収まった。
思ったより軽かった。
でも思ったより柔らかかった。
見下ろすと——人間だった。
正確には、人間に近い何かだった。
銀色の髪。日の光に透けるような白い肌。
そして、耳が。
尖っている。
(エルフ? いや、違う。精霊族か)
俺のスキルがざわめいた。
この子から、森の精霊たちと似た気配がする。
抱えた相手は目を閉じて気絶していた。
額に小さな切り傷がある。落ちる途中で枝に当たったのだろう。
あと、ものすごく怒った顔をしたまま気絶していた。
眉間に皺が寄っている。口元がへの字に結ばれている。
怒りながら落ちたらしい。
(まあ、とりあえず)
俺は気絶した銀髪の誰かを、小屋に運んだ。
*
目が覚めたとき、最初に見えたのが俺の顔だったのが、よくなかったのかもしれない。
「っ——!」
銀髪の少女は跳ね起きて、壁際まで後退した。
琥珀色の目を大きく見開いて、俺を睨んでいる。
「落ち着いて。怪我の手当てをしただけです」
「……手当て?」
少女が自分の額に触れた。薬草を当てて布で巻いてある。
「なぜ」
「落ちてきたので。拾いました」
「……拾った」
少女が微妙な顔をした。
プライドが傷ついた顔、というやつだ。
(言い方が悪かったかな)
「助けた、の間違いです。失礼しました」
「……」
少女はしばらく俺を眺めた。観察している、という感じだ。
じっと見てから、おもむろに言った。
「あなた、人間ね」
「そうです」
「なのに、精霊の気配がする」
「スキルです。万物の声、といって——」
「ちょっと待って」
少女が手を上げて俺を遮った。
立ち上がり、小屋の外に出て、何かに向かって耳をそばだてた。
しばらくして、真っ青な顔で戻ってきた。
「森の精霊が……あなたのことを友達だと言ってる」
「仲よくしてもらってます」
「人間と精霊が友達になるなんて……何百年も聞いたことがない」
少女がふらりとよろめいた。
頭を打ったせいかもしれない。俺は慌てて肩を支えた。
「座ってください。まだ安静にしていたほうがいい」
「……あなた、名前は」
「アルトです。農家です」
「農家」
「農家です」
少女が何か言いたそうな顔をしたが、黙った。
俺に促されて、再び寝床に座った。
「私はシルフィア。シルフィア・エル・ヴェルドリン」
名乗った後、少し間があった。
「……ヴェルドリン、というのは」
「精霊王家の名前よ」
精霊王家。
つまり、落ちてきたのは精霊界の王女だった。
*
話を聞いた。
要約すると——精霊王ヴェルドが、シルフィアに婚約者を押しつけようとしている。相手は精霊界の高位貴族の息子で、シルフィアとは折り合いが悪い。
婚約の話し合いが今日の午前中に予定されていたので、それから逃げるために人間界に飛んできた。
着地に失敗して、大木から転落した。
以上だった。
「それで、木の上に?」
「人間界を上から偵察しようと思って。思ったより高かった」
「なるほど」
「笑わないでよ」
「笑いませんよ。大変でしたね」
シルフィアが少し意外そうな顔をした。
俺はそれより、鍋の火加減が気になっていた。
朝から煮込んでいたシチューが、そろそろいい頃合いだ。
「お腹、空いてますか」
「……え?」
「朝から何も食べてないでしょう。逃げてきたんなら」
シルフィアが何も言わなかった。
それが肯定だと受け取って、俺は椀を二つ出した。
シチューは野草と根菜の入ったやつだ。
昨日、エルデ村の村長が塩と干し肉の塊を持ってきてくれたので、今朝からそれを加えて煮ていた。
出汁が出て、深みのある味になっているはずだ。
椀に盛ってシルフィアの前に置くと、彼女はしばらく湯気を眺めていた。
「……精霊界では、人間の料理を食べたことがない」
「口に合わなかったら残していいです」
シルフィアが一口、すくって飲んだ。
止まった。
もう一口飲んだ。
それから無言で、ゆっくりと、でも確実に食べ進めた。
椀が空になったとき、シルフィアは少しだけ目を伏せた。
「……おかわり、ある?」
「あります」
俺は黙って椀に盛った。
シルフィアは今度はもう少し速いペースで食べた。
(よかった、気に入ってもらえたみたいだ)
などと思っていたら、シルフィアが突然、椀を持ったまま俺を真っ直ぐ見た。
「なんで聞かないの」
「何をですか」
「精霊王の娘がなんでここにいるのか、とか。精霊界に帰れ、とか。利用できないか、とか」
俺は少し考えた。
「怪我した人をまず食べさせるのは当然じゃないですか。事情はそのあとでも聞けます。それに、帰りたくないから逃げてきたんでしょう。そこに帰れとは言いにくい」
「……利用しようとは思わないの」
「精霊王の娘を利用してどうするんですか。俺、農家ですよ」
シルフィアがまた、微妙な顔をした。
今度は、怒っているのとは少し違う顔だった。
なんだろう、と思っていたら、シルフィアが椀をそっと膝に置いて言った。
「精霊界には、今日は帰りたくない」
「そうですか」
「明日になれば、婚約の話し合いは流れる。父も諦めるはず。だから今夜だけ……」
シルフィアが少しだけためらってから、続けた。
「今夜だけ、泊めてもらえますか……?」
琥珀色の目が、まっすぐこちらを見ている。
気位が高そうなのに、耳の先がほんのりと赤い。
俺は小屋を見回した。
部屋はひとつ。寝床はひとつ。
「俺は外で寝ます。寝床、使ってください」
「外で!?」
「焚き火があれば平気です。夜は土が見張りをしてくれるので」
「土が見張り……」
シルフィアが何か言いかけて、黙った。
ため息をついて、それから小さく「ありがとう」と言った。
聞こえるか聞こえないかくらいの声だったが、俺にはちゃんと届いた。
*
夜、焚き火のそばで空を見上げていると、小屋の中からシルフィアの声がした。
「アルト」
「はい」
「精霊界では、万物の声を持つ人間のことを、古い言葉で『語り部』と呼ぶの。知ってた?」
「知らなかったです」
「数百年に一人、現れるかどうかという。伝説みたいなものだと思ってた」
焚き火がはぜた。
「明日、帰るべき?」とまた声がした。
「帰るかどうかはシルフィアさんが決めることです」
しばらく間があった。
「……シルフィアでいい。さん、はいらない」
「わかりました、シルフィア」
それきり、声はしなくなった。
俺は星を眺めながら、木の囁きに耳を傾けた。
大木が、おかしそうに揺れていた。
『落としてすまなかった。だが、悪くない縁になりそうだな』
俺は何も言わなかった。
でも、まあ——そうかもしれない、とは思った。




