第四部 第198話 六つの役割
停止させる者の反応が遠ざかってからも、僕はしばらくその場を動かなかった。
正確には、動けないわけではない。
スマートマテリアルユニットは正常に作動している。
外装の損傷も、戦闘を継続できないほどではなかった。
身体にも大きな異常はない。
それでも、記録にも記憶にも存在しない九秒間だけが、頭の奥に引っかかったままだった。
「アオト」
セリナの声に顔を上げる。
「大丈夫?」
「うん」
返事をしてから、自分でも少し考える。
「たぶん」
「たぶん、なのね」
「身体は問題ないよ」
「身体は?」
セリナは僕の言葉の続きを待っていた。
僕は視線を落とす。
黒い装甲の表面では、細かな傷を埋めるように素材がゆっくりと形を変えている。
損傷は修復できる。
けれど、失われた九秒だけは戻らない。
『記録領域の再確認を完了しました』
リムの声が意識の内側へ届く。
『欠落した時間帯に相当する映像、音声、感覚補助記録は確認できません』
「やっぱり駄目か」
『はい』
セリナがこちらを見る。
僕が誰と話しているのかは、もう分かっているらしい。
「リム?」
「うん」
僕は頷いた。
「九秒間の記録は、やっぱり残ってないって」
「機体の故障ではなく?」
「違うみたい」
『少なくとも、既知の記録障害とは一致しません』
リムの言葉を僕はそのまま伝えた。
セリナは少し黙った。
少し離れた場所では、バルドたちが周囲の確認を続けている。
崩れた石壁。
折れた柱。
戦闘の跡が残る王城跡。
つい先ほどまで白い人影が立っていた場所には、もう何も残っていない。
「停止させる者」
セリナが小さく呟いた。
僕は顔を上げる。
「そう名乗ったのね?」
「正確には、『停止させる者です』って言ってた」
「名前ではなく?」
「名前は言わなかった」
僕は少し考える。
先に現れた白い人影もそうだった。
あの相手も、自分自身のことを語らなかった。
何をするのか。
どんな作用を及ぼすのか。
そこだけが前面に出ていた。
「最初の相手も似てた」
「静寂?」
「僕がそう呼んでるだけだけどね」
声を奪う。
音を奪う。
判断を孤立させる。
あの存在には、それ以外の輪郭がほとんどなかった。
セリナは視線を細めた。
「名前ではなく、役割」
「うん」
「何者なのかではなく、何をする者なのか」
その言葉に、胸の奥で何かが引っかかった。
「それって」
僕は言葉を探す。
「人を、人として見てないみたいだ」
セリナが僕を見る。
「人?」
「名前がないってことじゃなくて」
僕は首を振った。
「名前なんて必要ないって考えてるように見える」
『同意します』
リムが答える。
『少なくとも、現在までに接触した二個体は、自身を個体識別ではなく機能によって表現しています』
「リムも同じこと言ってる」
「機能」
セリナはその言葉を繰り返した。
「兵器みたいね」
「うん」
そう言いながらも、少し違う気がした。
兵器なら、それでもいい。
名前がなくても。
役割だけでも。
けれど、あれは人の姿をしている。
話す。
考える。
僕の言葉へ反応する。
少なくとも、命令をそのまま実行するだけの機械には見えなかった。
「でも、完全な道具にも見えない」
「私もそう思う」
セリナは遠くを見る。
「だから余計に気になるのよ」
風が崩れた城壁の間を抜けた。
僕は周囲を見回す。
白い者たちは、この辺りにまだいる。
すべてが姿を現したわけではない。
最初に確認された六つの小さな反応。
そして、それとは別の大きな反応。
今までに僕の前へ現れたのは二つだけだ。
「六つ」
僕が呟くと、セリナがこちらを見る。
「最初から六つの反応だったよな」
「ええ」
「静寂と停止が、その中の二つだとしたら」
「残りは四つ」
何をする者なのかは、まだ分からない。
けれど、全員が名前ではなく役割によって存在しているのなら。
六つの反応。
六つの役割。
その可能性は無視できなかった。
『アオト』
リムの声が少しだけ硬くなった。
「なに?」
『先ほどの件とは別に、確認していただきたい情報があります』
僕は意識を切り替える。
「何があった?」
『ノア=アークの広域観測系が、テンレア方面で大型反応を捕捉しています』
視界の端に簡略化された地図が浮かぶ。
レグノルから離れた位置。
テンレア中央区。
そこに、一つの大きな反応が表示された。
「大型反応?」
『既存の観測情報と照合しました』
リムが続ける。
『現在テンレアで確認されている白色大型個体と一致します』
「白い巨体か」
僕の言葉に、セリナの表情が変わった。
「ノア=アークから、そこまで分かるの?」
「リム?」
『内部構造や詳細な戦闘状況までは取得できません』
僕はリムの返答をセリナへ伝える。
『ですが、大規模なエネルギー変動と外形の変化であれば、長距離からでも観測可能です』
大型反応の周囲へ、さらに複数の反応が追加された。
一つではない。
白い巨体を囲むように動いている。
『大型個体の周囲には、複数の高出力反応も確認されています』
「七聖?」
『既存の観測記録および行動情報との照合では、その可能性が高いです』
「まだ戦ってるんだ」
僕は表示を見つめる。
アルディアスたちがテンレアに残っていることは知っている。
けれど、その戦いが今も続いていることを、こうして目の前の情報として見ると感覚が変わった。
僕たちがここで白い者たちと向き合っている間にも、離れた場所では別の戦いが続いている。
『ただし』
リムが続けた。
『気になる記録があります』
「何?」
画面に二つの時間軸が表示された。
一つはレグノル。
もう一つはテンレア。
先ほど停止現象が起きた時間帯が示され、その近くへテンレア側の観測記録が重なる。
僕は眉を寄せた。
「これは?」
『大型個体の外殻移動に、一時的な乱れが記録されています』
表示が拡大される。
白い巨体の外殻が動き、損傷した箇所へ集まっていく。
その流れが、一瞬だけ鈍っていた。
完全に止まってはいない。
形が崩れたわけでもない。
戦闘中なら起こり得る変化だと言われれば、それまでの程度だった。
「これが、九秒を失った時間の近く?」
『はい』
「同じ時間?」
『正確には断定できません』
リムは即座に答えた。
『観測距離が異なります』
『使用している記録系統にも差があります』
『時刻補正を行っていますが、完全な同期を保証できる精度ではありません』
「じゃあ、偶然かもしれない」
『その可能性はあります』
僕は二つの記録を見比べた。
九秒を失った時間。
その近くで起きていた、白い巨体の僅かな変化。
それだけなら、まだ何も言えない。
「他には?」
『先に接触した白色個体との戦闘時間帯にも、類似した小規模な変動が一件記録されています』
僕はセリナを見る。
彼女も表示を見ながら眉を寄せていた。
「二回」
「うん」
一度なら偶然。
二度でも、まだ偶然かもしれない。
あれだけ巨大なものが激しい戦闘を続けているのなら、外殻の動きが乱れることくらい何度あっても不思議ではない。
それでも、気にはなる。
「リム」
『はい』
「白い巨体と、こっちにいる六つの反応が繋がってる可能性は?」
少しだけ間があった。
『判断できません』
予想していた答えだった。
『現在確認できるのは、レグノル側で異常現象が発生した時間帯の近傍に、テンレア側でも反応変化が記録されていたという事実だけです』
「こっちが、向こうを動かしてるとかは?」
『根拠がありません』
「逆は?」
『同様です』
セリナが表示を見ながら口を開く。
「同じものに繋がっている可能性もあるわね」
僕は彼女を見る。
「同じもの?」
「白い者たちが巨体を操っているとも限らない」
「巨体がこっちへ力を送ってるとも限らない」
「ええ」
セリナは二つの地点を見比べる。
「両方とも、もっと奥にある同じ何かに繋がっているだけかもしれない」
僕はもう一度、レグノルとテンレアを見る。
距離は離れている。
ここにいる白い者たち。
向こうにいる白い巨体。
見た目も役割も、まるで違う。
それでも。
「同じ仕組みの中にいる」
僕が言うと、セリナはゆっくり頷いた。
「可能性の一つね」
『現段階では、いずれも証明できません』
リムが言う。
僕は小さく息を吐いた。
「じゃあ、まだ分からないままか」
「それでいいでしょう」
セリナが答えた。
「え?」
「分からないものを、分かったことにする必要はないわ」
彼女は少しだけ笑う。
「考えることと、決めつけることは違うでしょう?」
その言葉に、僕は一瞬黙った。
停止させる者の言葉が頭をよぎる。
迷うための時間。
考えるための時間。
それを不要なものとして切り落とす。
答えが分からないなら、迷わなくていいようにする。
それが白い者たちの考え方なのだとしたら。
「そうだね」
僕は頷いた。
「分からないなら、分からないまま調べればいい」
「ええ」
「ノア=アークの観測は続けてもらおう」
『継続します』
「もしまた同じような変化が起きたら教えて」
『了解しました』
僕は一度、テンレアの表示を見る。
白い巨体。
その周囲で戦い続ける七聖。
そして、こちらにいる六つの白い反応。
まだ線で結ぶには早い。
けれど、何も関係がないと切り捨てるにも早かった。
『アオト』
リムの声が割り込んだ。
『レグノル側の反応に変化があります』
視界の表示が切り替わる。
六つあった小さな反応のうち、二つは僕たちから距離を取っている。
一つは停止させる者。
もう一つは、最初に接触した白い人影。
残る反応の一つが動き始めていた。
「こっちへ来る?」
『いいえ』
僕は眉を寄せた。
反応は僕たちの位置を僅かに外れながら、王城跡を横切るように進んでいる。
「どこへ向かってる?」
リムが周辺地図を重ねた。
その進路の先には、城下から移動してきた兵士たちと、避難者を誘導している一団がいる。
「僕たちじゃない」
セリナも気づいた。
「人がいる場所へ向かってる」
『はい』
リムの声が少し硬くなる。
『さらに異常があります』
「何?」
『進路上にいる複数名の行動パターンが変化しています』
僕は顔を上げ、視界に浮かぶ表示を見る。
まだ距離はある。
白い者の姿さえ見えない。
それなのに。
『十三名が、ほぼ同時に移動を停止しました』
「何をしてる?」
『同一方向を見ています』
視界に周辺映像が開く。
兵士。
避難誘導をしていた者。
荷物を運んでいた男。
それぞれ違うことをしていたはずの人たちが、同じ方向へ顔を向けていた。
誰かに命令された様子はない。
声も聞こえない。
やがて、一人が歩き出す。
その隣も。
さらに後ろの者も。
同じ方向へ。
同じような速度で。
「アオト」
セリナの声が低くなる。
「うん」
僕は右腕を下げる。
黒い素材が流れ、可変刃の形を作り始めた。
けれど、すぐには走り出さなかった。
今までと違う。
相手は僕へ何かをしているわけじゃない。
周囲の人間へ触れている。
西方貴族領で、人々の判断が同じ方向へ揃っていった時に近い。
『対象反応、移動を継続』
リムが告げる。
『周辺人物の行動一致率が上昇しています』
「一致率?」
『はい』
僕は歩き始めた人々を見る。
誰も苦しんでいない。
誰も助けを求めていない。
むしろ、その顔から迷いだけが消えていた。
まるで全員が。
自分自身で、同じ答えを選んだように。
僕は地面を蹴った。
セリナもすぐに並ぶ。
その先で。
まだ姿さえ見えない白い者が、人々の判断を一つへ揃え始めていた。




