第四部 第197話 名前のない者
リンシアと侵食の巫女が言葉を交わしていた頃。
教会区では、変わらず避難してきた人々の声が行き交っていた。
水を求める声。
戦闘で傷ついた者を気遣う声。
離れた家族や、はぐれた仲間を探す声。
遠くでは今も、七聖と白い巨体の戦闘による地響きが続いている。
それでも、この場所にいる人々は、それぞれ違う声で隣にいる誰かと話し続けていた。
その中で、白い衣を纏った少女だけが、先ほどからほとんど動いていない。
リンシアが投げかけた一つの問いが、まだ彼女の中に残っているようだった。
「侵食する者になる前のあなたは、何をしていたのですか」
リンシアの言葉が、少女の中で何度も反芻される。
それまでなら、我が神に与えられた役割を答えれば終わる問いだった。
私は侵食する者。
我が神のために、人の迷いへ触れ、必要な答えへと育てる者。
それだけで十分だったはずだ。
しかし今は、その言葉だけではリンシアの問いに答えられていないことを、侵食の巫女自身が初めて感じ始めているように見えた。
「……なる前?」
侵食の巫女は、もう一度その言葉を小さく口にした。
まるで自分にも、役割を与えられる以前の時間が存在したのかを確かめるように。
リンシアは急かさなかった。
「はい」
ただ、それだけを返した。
巫女は視線を落とす。
「私は侵食する者です」
「それは聞きました」
「それ以前も」
言葉が止まる。
リンシアは待った。
巫女の唇が僅かに動く。
「……それ以前?」
「分からないのですか?」
「分からない」
今度は、答えるまでに少し時間がかかった。
リンシアはその変化を見逃さなかった。
先ほどまでの巫女なら、分からないという答えすら必要としなかっただろう。
役割さえ言えば、それですべてが終わった。
だが今は違う。
自分には分からないことがあると、彼女自身が認めた。
「なら、今は分からないままでいいのではありませんか」
巫女が顔を上げる。
「分からないまま?」
「はい」
「答えを出さない?」
「今すぐ出せないなら」
「それでは、問いが残ります」
「残っていてはいけませんか?」
巫女は黙って、リンシアの言葉に耳を傾けた。
「そもそも問いは、答えを得るためにあります」
「そうですね」
「ならば、答えを決めるべきです」
「誰が?」
「……」
リンシアは少しだけ微笑んだ。
「あなたが分からないことまで、誰かに決めてもらうのですか?」
巫女の周囲に漂う白い光が、僅かに揺れた。
「我が神ならば、答えを知っています」
「本当に?」
「我が神は、迷いを終わらせることができます」
「それは、答えを知っていることと同じでしょうか」
巫女の眉が僅かに動く。
「違うのですか?」
「私は違うと思います」
リンシアは教会区へ視線を向けた。
壁際では、一人の母親が眠っている子供の髪を優しげな表情で撫でている。
少し離れた場所では、負傷した男が仲間から水を受け取り、僅かに笑っていた。
誰かが泣いている。
誰かが笑っている。
誰かが不安そうに入口を見ている。
同じ場所にいるのに、考えていることも感じていることも一つではない。
「答えが出ないからこそ、自分で考え続けることもあります」
リンシアは言った。
「すぐには分からないから、誰かと話して、相談して、確かめることもあります」
「それは苦しみです」
侵食の巫女は静かに答えた。
「そうかもしれません」
「ならば、なくしたほうがよい」
「でも」
リンシアは巫女を見る。
「あなたは今、その問いをなくしたいですか?」
白い光が僅かに明滅した。
「……私は」
巫女が自分の胸元へ手を置く。
何かを確かめようとするような仕草だった。
「分かりません」
「それでいいと思います」
「なぜ?」
「今のそれは、あなたが考えて出した答えでしょう?」
巫女の指先が止まる。
「分からない、が?」
「はい」
「答えではありません」
「それでも、あなた自身がそう感じたことです」
巫女は自分の手を見る。
「私自身」
その言葉もまた、確かめるように繰り返された。
その時だった。
教会の入口近くから、小さな少女の泣き声が聞こえた。
「お兄ちゃん!」
幼い声だった。
リンシアと巫女が同時にそちらを見る。
人混みの間を、小さな少女が泣きながら必死に歩いている。
周囲を何度も見回し、一人の名前を呼び続けていた。
「レオンお兄ちゃん!」
少女の声が教会区に響く。
「レオンお兄ちゃん、どこ?」
近くにいた女性が少女へ駆け寄った。
「大丈夫よ、さっき向こうで見たわ」
「ほんと?」
「ええ、一緒に探しましょう」
女性が少女の手を取る。
その時、人混みの向こうから一人の少年が顔を出した。
「ミア!」
少女が振り返る。
「お兄ちゃん!」
二人が駆け寄り、抱き合う。
周囲にいた者たちが安堵したように息を吐いた。
リンシアも小さく笑う。
ふと隣を見ると、侵食の巫女だけが二人をじっと見つめていた。
「どうしました?」
「……呼んだ」
「はい?」
「名前を」
巫女の視線は、抱き合う兄妹から離れない。
「レオン」
「ミア」
一つずつ。
忘れないように確かめるような声音だった。
「名前ですね」
リンシアが答える。
「なぜ、名前を呼ぶのですか?」
リンシアにとって、それは思いがけない問いだった。
「急に、なぜと聞かれると難しいですね」
「そこにいると分かっている」
「はい」
「姿も見えている」
「そうですね」
「ならば、呼ぶ必要はあるのでしょうか」
侵食の巫女の問いに、リンシアは少し考えた。
確かに。
単純な情報伝達だけなら、名前を呼ばなくても成立する場面は多い。
それでも、人は名前を呼ぶ。
嬉しい時。
怖い時。
怒った時。
助けを求める時。
もう一度、振り向いてほしい時。
「必要だから、だけではないと思います」
「では?」
「その人だから、呼ぶのではないでしょうか」
巫女がリンシアを見る。
「その人だから?」
「はい」
「役割を伝えるためではなく?」
「ええ」
リンシアは少し離れたところにいる兄妹を見る。
「妹だからミアと呼ぶのではありません」
「……」
「ミアという人だから、ミアと呼ぶのです」
巫女は黙った。
「兄だからレオンなのでもありません」
「レオンという人が、その子のお兄さんなのです」
「違いがありますか?」
「あります」
リンシアは迷わず答えた。
「役割なら、別の誰かが代わることもできます」
「でも、その人そのものの代わりにはなれません」
巫女の瞳が僅かに揺れる。
「代われない」
「はい」
「侵食する者は必要です」
「そうですね」
「私がいなくなれば、別の者が役割を担えばよい」
その言葉に、リンシアはすぐには返事をしなかった。
巫女はそれを当然のことのように口にしている。
「あなたは、それでいいのですか?」
「役割が残るならば」
「また役割の話ですね」
「それ以外に、何がありますか?」
リンシアは答えようとして、少し考え直した。
言葉で説明するだけでは届かない気がした。
ちょうどその時、先ほど水を受け取っていた負傷者の男へ、一人の女性が近づいた。
「エドガー」
呼ばれた男が顔を上げる。
「なんだ?」
「包帯、替えるって言われてたでしょう」
「あとでいい」
「駄目よ」
「歩ける」
「知ってます」
女性は呆れた顔で男の隣へ座った。
「でも、エドガーが心配なの」
男は一瞬だけ黙り、それから諦めたように腕を差し出した。
「……分かったよ」
二人のやり取りを、巫女はじっと見ていた。
「今のも」
「はい」
「名前を呼びました」
「呼びましたね」
「役割ではない」
「そうですね」
「負傷者」
巫女が言う。
「それでも意味は通じる」
「たぶん、通じます」
「ならば」
「でも、それではエドガーさんではありません」
巫女の視線が再び男へ向く。
「同じ人です」
「指している人は同じです」
リンシアは頷いた。
「でも、呼ばれた側が受け取るものは同じでしょうか」
「受け取る?」
「自分を呼んでいる、と分かることです」
巫女は何も言わない。
「誰かが、自分を他の誰でもない一人として見ている」
「……」
「名前を呼ぶことには、そういう意味もあると思います」
「個を残す」
その言葉に、リンシアの表情が僅かに変わった。
「知っているのですか?」
「何を?」
「個という言葉を」
「知っています」
巫女は当然のように答える。
「我が神へ集う前には、個があります」
「では」
リンシアは慎重に尋ねた。
「集った後は?」
「必要ありません」
「名前も?」
「必要ありません」
今度の答えは早かった。
だが、先ほどまでとは違う。
巫女の視線は、教会区にいる人々へ向いたままだった。
名前を呼ぶ声が、あちらこちらから聞こえる。
「サラ、水をこっちへ」
「分かった」
「母さん、ここだよ」
「エイル、離れないで」
「先生を呼んでくれ」
一つとして同じではない声。
一つとして同じではない名前。
リンシアは、あえて何も言わなかった。
侵食の巫女はしばらくそれらを聞いていた。
やがて、自分の胸へ再び手を置く。
「私にも」
声が途切れる。
リンシアは振り向いた。
「はい?」
「私にも、あったのでしょうか」
これまでの彼女なら出なかった問いだった。
「何がですか?」
巫女は答えるまで、少し時間を置いた。
「名前」
リンシアの目が僅かに見開かれる。
すぐに表情を戻した。
「私は、あったと思います」
「なぜ?」
「あなたは人です」
「人であれば、名前がある?」
「必ずとは言いません」
リンシアは穏やかに答える。
「でも、誰かがあなたを呼んだことはあったのではないかと思います」
「誰か」
「家族かもしれません」
「友人かもしれません」
「あなたを大切に思った誰かかもしれません」
白い光が大きく揺れた。
巫女の身体が僅かに強張る。
リンシアはすぐに口を閉じた。
「……家族」
巫女の声が低くなる。
「何か思い出しましたか?」
「いいえ」
即答だった。
だが、今度の否定には僅かな戸惑いが混じっていた。
「何も」
「そうですか」
「聞かないのですか?」
「何を?」
「思い出せ、と」
リンシアは首を横に振る。
「思い出せないものを、無理に思い出させる必要はありません」
「なぜ?」
「あなたの記憶だからです」
巫女がリンシアを見る。
「必要ならば、引き出せばよい」
「誰が?」
「……」
「あなたの中にあるからといって、誰かが勝手に触れていいものではありません」
リンシアは静かに続けた。
「思い出したいと思った時に、あなた自身が向き合えばいいのです」
「私自身が」
「はい」
「思い出さないことも?」
「選べます」
巫女の瞳が揺れる。
「忘れたままでいることも?」
「それが本当にあなたの選択なら」
「……」
「ただし」
リンシアは少しだけ声を柔らかくした。
「誰かに忘れさせられているのなら、それは別です」
巫女の周囲を漂っていた白い光が止まった。
ほんの一瞬だった。
それでもリンシアには分かった。
触れてはいけない何かへ、触れたような気がした。
「私は」
巫女の声が僅かに掠れる。
「我が神に集い、与えられた役割を遂行する者です」
「はい」
「必要のないものは、残しません」
「それは、あなたが決めたことですか?」
沈黙。
リンシアは追わなかった。
巫女の指が、自分の衣の胸元を握る。
「必要がない」
もう一度。
今度は、自分へ言い聞かせるように。
「名は個を残す」
「そう考えているのですね」
「個は迷いを生む」
巫女は続ける。
「その迷いは争いの元となる」
「そうなることもあります」
「違いを生む」
「はい」
「争いを生む」
「そうなることもあります」
「ならば」
巫女がリンシアを見る。
「なぜ、原因を残すのですか」
「違いそのものが、争いの原因とは限らないからです」
「違うから争う」
「違うから、相手を知ろうともします」
巫女は黙って聞いている。
「同じでないから、話します」
「分かり合えないこともある」
「あります」
「それでも?」
「それでもです」
リンシアは教会区を見渡した。
「全員が同じことを考えていたとしたら、ここにいる人々から、こんなにたくさんの声は生まれません」
「……」
「でも私は、この騒がしさが嫌いではありません」
泣く声も。
怒る声も。
誰かの名前を呼ぶ声も。
不安を隠そうとして笑う声も。
全部違う。
だからこそ、そこには人がいる。
巫女も同じものを見ていた。
「名前」
また、小さく口にする。
リンシアは今度こそ尋ねた。
「あなたにも、名前がありますか?」
長い沈黙が落ちた。
巫女の唇が動く。
「私は、侵食する者です」
「それは役目です」
「私は巫女です」
「それも役目です」
「我が神に仕えます」
「それは、あなたがしていることです」
一つずつ。
リンシアは否定するのではなく、分けていく。
巫女の目に、初めて困ったような色が浮かんだ。
「では」
声が止まる。
「私は」
言葉を続けようとしている。
けれど、その先が声にならない。
リンシアは待った。
急かさない。
答えを代わりに出さない。
名前を与えようともしない。
やがて。
「……分かりません」
巫女はそう言った。
その声は、これまでで一番小さかった。
けれどリンシアには、はっきり聞こえた。
「はい」
「否定しないのですか?」
「何をです?」
「分からないことを」
「しません」
「なぜ?」
「今の答えは、あなた自身が考えて出したものですから」
巫女は何も言わなかった。
教会区のどこかで、また誰かが名前を呼んだ。
巫女の視線が、その声を追う。
そして。
長い時間をかけて。
本当に小さな声で、リンシアへ尋ねた。
「名前があれば」
一度、言葉を切る。
「何が変わるのですか?」




