↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リブートオブアーク ―科学と魔法が交差する王国再建戦記―  作者: 和幸雄大


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

201/208

第四部 第197話 名前のない者

リンシアと侵食の巫女が言葉を交わしていた頃。

教会区では、変わらず避難してきた人々の声が行き交っていた。

水を求める声。

戦闘で傷ついた者を気遣う声。

離れた家族や、はぐれた仲間を探す声。

遠くでは今も、七聖と白い巨体の戦闘による地響きが続いている。

それでも、この場所にいる人々は、それぞれ違う声で隣にいる誰かと話し続けていた。

その中で、白い衣を纏った少女だけが、先ほどからほとんど動いていない。

リンシアが投げかけた一つの問いが、まだ彼女の中に残っているようだった。

「侵食する者になる前のあなたは、何をしていたのですか」

リンシアの言葉が、少女の中で何度も反芻される。

それまでなら、我が神に与えられた役割を答えれば終わる問いだった。

私は侵食する者。

我が神のために、人の迷いへ触れ、必要な答えへと育てる者。

それだけで十分だったはずだ。

しかし今は、その言葉だけではリンシアの問いに答えられていないことを、侵食の巫女自身が初めて感じ始めているように見えた。

「……なる前?」

侵食の巫女は、もう一度その言葉を小さく口にした。

まるで自分にも、役割を与えられる以前の時間が存在したのかを確かめるように。

リンシアは急かさなかった。

「はい」

ただ、それだけを返した。

巫女は視線を落とす。

「私は侵食する者です」

「それは聞きました」

「それ以前も」

言葉が止まる。

リンシアは待った。

巫女の唇が僅かに動く。

「……それ以前?」

「分からないのですか?」

「分からない」

今度は、答えるまでに少し時間がかかった。

リンシアはその変化を見逃さなかった。

先ほどまでの巫女なら、分からないという答えすら必要としなかっただろう。

役割さえ言えば、それですべてが終わった。

だが今は違う。

自分には分からないことがあると、彼女自身が認めた。

「なら、今は分からないままでいいのではありませんか」

巫女が顔を上げる。

「分からないまま?」

「はい」

「答えを出さない?」

「今すぐ出せないなら」

「それでは、問いが残ります」

「残っていてはいけませんか?」

巫女は黙って、リンシアの言葉に耳を傾けた。

「そもそも問いは、答えを得るためにあります」

「そうですね」

「ならば、答えを決めるべきです」

「誰が?」

「……」

リンシアは少しだけ微笑んだ。

「あなたが分からないことまで、誰かに決めてもらうのですか?」

巫女の周囲に漂う白い光が、僅かに揺れた。

「我が神ならば、答えを知っています」

「本当に?」

「我が神は、迷いを終わらせることができます」

「それは、答えを知っていることと同じでしょうか」

巫女の眉が僅かに動く。

「違うのですか?」

「私は違うと思います」

リンシアは教会区へ視線を向けた。

壁際では、一人の母親が眠っている子供の髪を優しげな表情で撫でている。

少し離れた場所では、負傷した男が仲間から水を受け取り、僅かに笑っていた。

誰かが泣いている。

誰かが笑っている。

誰かが不安そうに入口を見ている。

同じ場所にいるのに、考えていることも感じていることも一つではない。

「答えが出ないからこそ、自分で考え続けることもあります」

リンシアは言った。

「すぐには分からないから、誰かと話して、相談して、確かめることもあります」

「それは苦しみです」

侵食の巫女は静かに答えた。

「そうかもしれません」

「ならば、なくしたほうがよい」

「でも」

リンシアは巫女を見る。

「あなたは今、その問いをなくしたいですか?」

白い光が僅かに明滅した。

「……私は」

巫女が自分の胸元へ手を置く。

何かを確かめようとするような仕草だった。

「分かりません」

「それでいいと思います」

「なぜ?」

「今のそれは、あなたが考えて出した答えでしょう?」

巫女の指先が止まる。

「分からない、が?」

「はい」

「答えではありません」

「それでも、あなた自身がそう感じたことです」

巫女は自分の手を見る。

「私自身」

その言葉もまた、確かめるように繰り返された。

その時だった。

教会の入口近くから、小さな少女の泣き声が聞こえた。

「お兄ちゃん!」

幼い声だった。

リンシアと巫女が同時にそちらを見る。

人混みの間を、小さな少女が泣きながら必死に歩いている。

周囲を何度も見回し、一人の名前を呼び続けていた。

「レオンお兄ちゃん!」

少女の声が教会区に響く。

「レオンお兄ちゃん、どこ?」

近くにいた女性が少女へ駆け寄った。

「大丈夫よ、さっき向こうで見たわ」

「ほんと?」

「ええ、一緒に探しましょう」

女性が少女の手を取る。

その時、人混みの向こうから一人の少年が顔を出した。

「ミア!」

少女が振り返る。

「お兄ちゃん!」

二人が駆け寄り、抱き合う。

周囲にいた者たちが安堵したように息を吐いた。

リンシアも小さく笑う。

ふと隣を見ると、侵食の巫女だけが二人をじっと見つめていた。

「どうしました?」

「……呼んだ」

「はい?」

「名前を」

巫女の視線は、抱き合う兄妹から離れない。

「レオン」

「ミア」

一つずつ。

忘れないように確かめるような声音だった。

「名前ですね」

リンシアが答える。

「なぜ、名前を呼ぶのですか?」

リンシアにとって、それは思いがけない問いだった。

「急に、なぜと聞かれると難しいですね」

「そこにいると分かっている」

「はい」

「姿も見えている」

「そうですね」

「ならば、呼ぶ必要はあるのでしょうか」

侵食の巫女の問いに、リンシアは少し考えた。

確かに。

単純な情報伝達だけなら、名前を呼ばなくても成立する場面は多い。

それでも、人は名前を呼ぶ。

嬉しい時。

怖い時。

怒った時。

助けを求める時。

もう一度、振り向いてほしい時。

「必要だから、だけではないと思います」

「では?」

「その人だから、呼ぶのではないでしょうか」

巫女がリンシアを見る。

「その人だから?」

「はい」

「役割を伝えるためではなく?」

「ええ」

リンシアは少し離れたところにいる兄妹を見る。

「妹だからミアと呼ぶのではありません」

「……」

「ミアという人だから、ミアと呼ぶのです」

巫女は黙った。

「兄だからレオンなのでもありません」

「レオンという人が、その子のお兄さんなのです」

「違いがありますか?」

「あります」

リンシアは迷わず答えた。

「役割なら、別の誰かが代わることもできます」

「でも、その人そのものの代わりにはなれません」

巫女の瞳が僅かに揺れる。

「代われない」

「はい」

「侵食する者は必要です」

「そうですね」

「私がいなくなれば、別の者が役割を担えばよい」

その言葉に、リンシアはすぐには返事をしなかった。

巫女はそれを当然のことのように口にしている。

「あなたは、それでいいのですか?」

「役割が残るならば」

「また役割の話ですね」

「それ以外に、何がありますか?」

リンシアは答えようとして、少し考え直した。

言葉で説明するだけでは届かない気がした。

ちょうどその時、先ほど水を受け取っていた負傷者の男へ、一人の女性が近づいた。

「エドガー」

呼ばれた男が顔を上げる。

「なんだ?」

「包帯、替えるって言われてたでしょう」

「あとでいい」

「駄目よ」

「歩ける」

「知ってます」

女性は呆れた顔で男の隣へ座った。

「でも、エドガーが心配なの」

男は一瞬だけ黙り、それから諦めたように腕を差し出した。

「……分かったよ」

二人のやり取りを、巫女はじっと見ていた。

「今のも」

「はい」

「名前を呼びました」

「呼びましたね」

「役割ではない」

「そうですね」

「負傷者」

巫女が言う。

「それでも意味は通じる」

「たぶん、通じます」

「ならば」

「でも、それではエドガーさんではありません」

巫女の視線が再び男へ向く。

「同じ人です」

「指している人は同じです」

リンシアは頷いた。

「でも、呼ばれた側が受け取るものは同じでしょうか」

「受け取る?」

「自分を呼んでいる、と分かることです」

巫女は何も言わない。

「誰かが、自分を他の誰でもない一人として見ている」

「……」

「名前を呼ぶことには、そういう意味もあると思います」

「個を残す」

その言葉に、リンシアの表情が僅かに変わった。

「知っているのですか?」

「何を?」

「個という言葉を」

「知っています」

巫女は当然のように答える。

「我が神へ集う前には、個があります」

「では」

リンシアは慎重に尋ねた。

「集った後は?」

「必要ありません」

「名前も?」

「必要ありません」

今度の答えは早かった。

だが、先ほどまでとは違う。

巫女の視線は、教会区にいる人々へ向いたままだった。

名前を呼ぶ声が、あちらこちらから聞こえる。

「サラ、水をこっちへ」

「分かった」

「母さん、ここだよ」

「エイル、離れないで」

「先生を呼んでくれ」

一つとして同じではない声。

一つとして同じではない名前。

リンシアは、あえて何も言わなかった。

侵食の巫女はしばらくそれらを聞いていた。

やがて、自分の胸へ再び手を置く。

「私にも」

声が途切れる。

リンシアは振り向いた。

「はい?」

「私にも、あったのでしょうか」

これまでの彼女なら出なかった問いだった。

「何がですか?」

巫女は答えるまで、少し時間を置いた。

「名前」

リンシアの目が僅かに見開かれる。

すぐに表情を戻した。

「私は、あったと思います」

「なぜ?」

「あなたは人です」

「人であれば、名前がある?」

「必ずとは言いません」

リンシアは穏やかに答える。

「でも、誰かがあなたを呼んだことはあったのではないかと思います」

「誰か」

「家族かもしれません」

「友人かもしれません」

「あなたを大切に思った誰かかもしれません」

白い光が大きく揺れた。

巫女の身体が僅かに強張る。

リンシアはすぐに口を閉じた。

「……家族」

巫女の声が低くなる。

「何か思い出しましたか?」

「いいえ」

即答だった。

だが、今度の否定には僅かな戸惑いが混じっていた。

「何も」

「そうですか」

「聞かないのですか?」

「何を?」

「思い出せ、と」

リンシアは首を横に振る。

「思い出せないものを、無理に思い出させる必要はありません」

「なぜ?」

「あなたの記憶だからです」

巫女がリンシアを見る。

「必要ならば、引き出せばよい」

「誰が?」

「……」

「あなたの中にあるからといって、誰かが勝手に触れていいものではありません」

リンシアは静かに続けた。

「思い出したいと思った時に、あなた自身が向き合えばいいのです」

「私自身が」

「はい」

「思い出さないことも?」

「選べます」

巫女の瞳が揺れる。

「忘れたままでいることも?」

「それが本当にあなたの選択なら」

「……」

「ただし」

リンシアは少しだけ声を柔らかくした。

「誰かに忘れさせられているのなら、それは別です」

巫女の周囲を漂っていた白い光が止まった。

ほんの一瞬だった。

それでもリンシアには分かった。

触れてはいけない何かへ、触れたような気がした。

「私は」

巫女の声が僅かに掠れる。

「我が神に集い、与えられた役割を遂行する者です」

「はい」

「必要のないものは、残しません」

「それは、あなたが決めたことですか?」

沈黙。

リンシアは追わなかった。

巫女の指が、自分の衣の胸元を握る。

「必要がない」

もう一度。

今度は、自分へ言い聞かせるように。

「名は個を残す」

「そう考えているのですね」

「個は迷いを生む」

巫女は続ける。

「その迷いは争いの元となる」

「そうなることもあります」

「違いを生む」

「はい」

「争いを生む」

「そうなることもあります」

「ならば」

巫女がリンシアを見る。

「なぜ、原因を残すのですか」

「違いそのものが、争いの原因とは限らないからです」

「違うから争う」

「違うから、相手を知ろうともします」

巫女は黙って聞いている。

「同じでないから、話します」

「分かり合えないこともある」

「あります」

「それでも?」

「それでもです」

リンシアは教会区を見渡した。

「全員が同じことを考えていたとしたら、ここにいる人々から、こんなにたくさんの声は生まれません」

「……」

「でも私は、この騒がしさが嫌いではありません」

泣く声も。

怒る声も。

誰かの名前を呼ぶ声も。

不安を隠そうとして笑う声も。

全部違う。

だからこそ、そこには人がいる。

巫女も同じものを見ていた。

「名前」

また、小さく口にする。

リンシアは今度こそ尋ねた。

「あなたにも、名前がありますか?」

長い沈黙が落ちた。

巫女の唇が動く。

「私は、侵食する者です」

「それは役目です」

「私は巫女です」

「それも役目です」

「我が神に仕えます」

「それは、あなたがしていることです」

一つずつ。

リンシアは否定するのではなく、分けていく。

巫女の目に、初めて困ったような色が浮かんだ。

「では」

声が止まる。

「私は」

言葉を続けようとしている。

けれど、その先が声にならない。

リンシアは待った。

急かさない。

答えを代わりに出さない。

名前を与えようともしない。

やがて。

「……分かりません」

巫女はそう言った。

その声は、これまでで一番小さかった。

けれどリンシアには、はっきり聞こえた。

「はい」

「否定しないのですか?」

「何をです?」

「分からないことを」

「しません」

「なぜ?」

「今の答えは、あなた自身が考えて出したものですから」

巫女は何も言わなかった。

教会区のどこかで、また誰かが名前を呼んだ。

巫女の視線が、その声を追う。

そして。

長い時間をかけて。

本当に小さな声で、リンシアへ尋ねた。

「名前があれば」

一度、言葉を切る。

「何が変わるのですか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。