第四部 第132話 王女の声を守るために
臨時評議場の空気は、まだ落ち着く様子がなかった。
白い気配の干渉は切った。
けれど、それで終わりではない。
むしろ、次の標的がはっきりした分だけ、警戒の重さが増していた。
指導者権限。
その言葉が、私の胸の奥に残っている。
私の声。
私の決定。
私の名。
それが、白い気配に使われるかもしれない。
中央広場で、すでに私の名は使われた。
旧王城跡の地下では、父上の声まで使われた。
なら、次に私の声が狙われることは、自然な流れなのかもしれない。
自然だと思えてしまうことが、ひどく嫌だった。
「まず、前提を変える」
アオトが言った。
臨時評議場の机の上には、地図と名簿と配給表がまだ広げられている。
さっきまで白い気配に侵されていた紙だ。
今はただの紙に戻っているはずなのに、見るだけで嫌気がさしてくる。
「セリナ一人の決定で全体が動く形を、いったん止める」
「つまり、私の決定を無効にするのですか」
思わずそう聞いてしまった。
アオトは首を振る。
「違う」
「セリナの声を弱めるんじゃない」
「奪われても、そのまま使えない形にする」
その言い方に、私は少しだけ息を吐いた。
弱めるのではない。
守るために、形を変える。
「具体的には?」
カイが腕を組んだまま聞く。
アオトは端末を操作し、机の上に青白い文字を浮かべた。
「決定確認を二段階に分ける」
「セリナの判断だけで動かない」
「必ず、現場責任者の承認と、理由の確認を挟む」
ヴォルコフが頷く。
「軍の伝令に近い形か」
「ただし、少し面倒にする」
アオトは短く答えた。
「白い気配は、流れを滑らかにする」
「なら、こちらはあえて引っかかりを作る」
「引っかかり……」
エリーナが小さく繰り返す。
「確認」
リムが静かに言った。
「異議」
「保留」
「疑問」
「そういうものを、正式な手順に入れる」
「白い気配は、そこを嫌がる」
私は机の上の名簿を見た。
違う声を残す。
異議を消さない。
それを決めたばかりだった。
今度は、決定にも同じことをする。
「私の決定に、異議を挟むのですね」
「そう」
リムはあっさり頷いた。
「あなたの声が正しくても、異議を挟む」
「それが大事」
カイが少しだけ眉を寄せた。
「だが、緊急時の対処は遅れないか?」
「遅れます」
私は答えた。
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「でも、奪われた決定で街全体がすぐ動くよりはいい」
「緊急時の即応は、範囲を限定しましょう」
「全体決定だけ、必ず確認を挟む」
ヴォルコフが深く頷いた。
「現場単位の判断は残す」
「王女決定で全体を動かす場合のみ、確認手順を必須にする」
「それなら可能です」
アオトが端末に記録していく。
「よし」
「次に、声の確認だ」
「声の確認?」
エリーナが首を傾げる。
アオトは少し考えてから、私を見た。
「セリナの声を真似される可能性がある」
「中央広場でも、かなり近い声を出してきた」
「なら、声だけで本人確認しない」
私の背中に、冷たいものが走る。
自分の声が、自分ではないものに使われる。
考えるだけで気分が悪くなった。
「合言葉を決めるのか」
カイが言った。
「合言葉だけだと読まれる」
アオトは首を振る。
「固定の言葉じゃなく、状況確認式にする」
「たとえば、セリナが判断して決定を出すなら、その場の理由を必ず言う」
「なぜその決定が必要なのか」
「何を守るためなのか」
「誰に負担が出るのか」
ヴォルコフが目を細める。
「そこまで言わせるのか」
「ああ」
アオトは頷いた。
「白い気配は正しい結論だけを出して誘導する」
「理由や負担や異議を嫌う」
「だから、そこを本人確認に使う」
私はゆっくりと頷いた。
たしかに、白い気配が作る言葉は滑らかだ。
優しく、正しく、迷いがない。
でも、人の決定には迷いがある。
悩みもある。
一番大事な、ためらいがある。
誰かを傷つけるかもしれない責任がある。
それを言葉に含める。
「私が決定を出す時は、必ず理由と、想定される不利益を述べる」
「それを言わない決定事項は、責任者の確認が取れるまで保留」
「そういうことですね」
「そういうこと」
アオトが頷いた。
カイが少しだけ口元を緩める。
「面倒な手順だな」
「面倒でいいのです」
私は答えた。
「簡単に使われるよりは」
その時だった。
廊下の向こうが、急に騒がしくなった。
伝令の足音。
兵の声。
誰かが慌てて扉の前で止まる。
「失礼します!」
若い兵士が駆け込んできた。
顔が青い。
手には封のされた通達書を握っている。
「セリナ様からの緊急通達として、南側避難区域へ指示が出ています!」
「私から?」
私の声が、自分でも分かるほど硬くなった。
兵士は通達書を差し出した。
「はい」
「南側避難区域の発熱者を、名簿順に仮王宮へ移送せよと」
「重症者、軽症者の区別なく、全員を一括移動とあります」
リムの目が細くなった。
「最悪ね」
アオトが通達書へ端末を向ける。
青白い光が紙の表面をなぞる。
封蝋。
署名。
文面。
どれも整っていた。
整いすぎていた。
『通達書表層に白色干渉反応』
『王女署名の疑似再現』
『仮王宮内部書式を模倣』
「もう来たか」
アオトが低く言った。
カイが剣の柄に手を置く。
「誰が持ってきた」
兵士は震えながら答える。
「南側詰所に、仮王宮伝令を名乗る者が」
「顔は?」
「覚えていません」
「白い前掛けをした文官補佐のような者で」
「ですが、気づいた時には姿がありませんでした」
ヴォルコフが部下へ振り返る。
「南側へ走れ」
「移送を止めろ」
「ただし、騒がせるな」
「決定確認中と伝えろ」
兵士がすぐに駆け出す。
リムも端末を手に取った。
「私も行く」
「発熱者を一括移動なんてされたら、準備も何もないここでは対処できない」
「白い気配はそれを分かっている」
私は通達書を見た。
そこには、私の名が書かれていた。
セリナ=リュミエール・レグノル。
その文字が、私ではない意志で使われている。
「これは、私の決定ではありません」
声に怒りが混ざった。
けれど、それだけでは足りない。
中央広場と同じだ。
否定するだけでは、白い気配はまた別の声を使う。
「今、決めた手順をすぐに使います」
私は言った。
アオトが頷く。
「やろう」
私は伝令用の紙を取った。
手が震えそうになる。
でも、止めない。
震えていても書ける。
震えていても、選べる。
「南側避難区域への通達」
私は声に出しながら、文官に書かせた。
「先に出回った一括移送通達は、確認が取れるまで保留」
「移動は中断、現状維持」
「すでに移動してきた者には、水と薬草を回し、体調を見て判断する」
文官が必死に書き取る。
私は続けた。
「理由」
「発熱者を一括移動すれば、体力のない者へ負担が出る」
「また、南側施療所の状況を無視した移動は、感染と混乱を広げる恐れがある」
「不利益」
「判断に時間がかかる」
「現場負担が増える」
「それでも、一人一人の状態確認を優先する」
書き終えた瞬間、臨時評議場の空気がわずかに揺れた。
白い気配が嫌がったのが、なんとなく分かった。
綺麗ではない。
簡単でもない。
でも、本物の決定だ。
「これを、誰が確認する」
私は周囲を見た。
ヴォルコフが即座に一歩前へ出る。
「私が軍側確認を行います」
リムが続く。
「医療側確認は私」
カイが頷く。
「護衛側は俺が見る」
アオトが端末を掲げる。
「マザーブレインで白色干渉の有無を確認」
『通達文面に白色干渉なし』
『記録保持を推奨』
「よし」
アオトが言った。
「これで出せる」
私は文官に頷いた。
「伝令を二人で出してください」
「一人ではなく、必ず二人」
「受け取った側にも、理由を復唱させてください」
「はい、セリナ様」
文官の声は少し震えていた。
でも、その震えが今は安心できた。
人の声だった。
◆
リムは南側施療所へ向かった。
ヴォルコフの兵も動き出した。
臨時評議場に残った私たちは、次の偽通達を警戒しながら、決定系統の書き換えを進めた。
書き換えと言っても、難しい魔法ではない。
紙に書く。
声に出す。
皆で確認する。
それだけだ。
けれど、その単純な作業がとても重かった。
「全区向け決定は、王女単独では発効しない」
「必ず理由、不利益、確認者を記載する」
「異議が出た場合は記録する」
「即時決定の場合でも、あとで必ず理由を補記する」
ノルドが震える手で議事録を書いている。
先ほど白い気配に通されていた文官だ。
まだ顔色は悪い。
けれど、彼は席を離れなかった。
「ノルド」
私が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「はい、セリナ様」
「無理をしていませんか」
「しています」
彼は小さく答えた。
その言葉に、私は思わず瞬きをした。
ノルドは苦く笑う。
「ですが、先ほどの自分の判断を、書き残す必要があります」
「忘れたくありません」
「自分が、どれほど安易に考えていたか」
私はゆっくりと頷いた。
「なら、お願いします」
「その記録は、きっと必要になります」
「はい」
ノルドは再び筆を動かした。
その時、アオトの端末が短く鳴った。
『注意』
全員の視線が集まる。
『仮王宮内伝令経路に微弱な白色干渉反応』
『場所、東廊下』
『音声型の可能性』
「音声型?」
エリーナが不安そうに言った。
廊下の向こうから、声が聞こえた。
それは、私の声だった。
「全員、評議場に集まってください」
私の声が、廊下を滑るように進んでくる。
「これより、私が直接決定を伝えます」
「異議は不要です」
広間の空気が凍った。
私の口は動いていない。
けれど、声は間違いなく私に似ていた。
中央広場で聞いた偽物の声より、さらに近い。
少しだけ、喉の奥が冷たくなる。
「来たな」
アオトが端末を構えた。
カイが扉の前に立つ。
「誰も返事をするな」
「声だけで動くな」
私も一歩前に出た。
怖い。
自分の声が、自分を追いかけてくるようだった。
でも、今は下がれない。
「その決定の理由を述べてください」
私は廊下へ向かって言った。
偽物の声が、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬。
それだけで、皆の呼吸が変わる。
「全員の安全のためです」
偽物の声が答える。
滑らかだった。
でも、薄い。
「不利益は?」
私は続けた。
「その決定で、誰に負担が出ますか」
沈黙。
廊下の向こうの空気が、白く揺れた気がした。
「異議は不要です」
偽物の声が、少しだけ強くなる。
「私に従ってください」
その瞬間、私は理解した。
これは、私の声を借りている。
でも、私の迷いまでは真似できていない。
私が誰かへ決定を伝える時に感じる怖さ。
その判断で誰かが傷つくかもしれないという重さ。
それがない。
「違います」
私は言った。
「それは私の声ではありません」
偽物の声が、また重なる。
「私はセリナです」
「レグノル王家の名において――」
「私なら、理由を言います」
私は声を強めた。
「私なら、不利益を言います」
「私なら、異議を不要とは言いません」
広間の中で、誰かが息を呑む。
エリーナが杖を構えた。
「声の位置、廊下の奥です!」
アオトの端末から青白い光が伸びる。
廊下の空気に、細い白い筋が浮かび上がった。
声だけが宙に浮いているように見えた。
いや、違う。
壁に掛けられた伝令用の小型魔道具だ。
そこから、私の声が流れていた。
『音声伝達魔道具に白色上書き紋』
『王女音声の模倣波形を確認』
『自律核ではありません』
『外部から短時間注入された残響です』
「残響か」
アオトが歯を食いしばる。
「切る」
青白い光が伝令魔道具へ走る。
同時に、偽物の私の声が強くなった。
「私に従いなさい」
「一つになれば、迷わなくて済みます」
「争いは終わります」
カイが低く吐いた。
「似ているだけで、中身が違う」
私は頷いた。
「はい」
「私なら、そんなことは言いません」
私は一歩前へ出た。
「迷ってください」
「異議を出してください」
「必要なら、私の決定を疑ってください」
その言葉と同時に、アオトの光が白い筋を断ち切った。
伝令魔道具が小さく鳴る。
鈴のような音ではない。
糸が切れるような、乾いた音だった。
偽物の声が途切れる。
廊下に沈黙が戻った。
けれど、私の体の震えはすぐには止まらなかった。
アオトがこちらを見る。
「セリナ」
「大丈夫です」
私はそう答えた。
けれど、声が少しだけ震えた。
「……少し、気持ち悪いですね」
「自分の声に命じられるのは」
アオトは何も言わなかった。
ただ、隣に立った。
それだけで、少し呼吸がしやすくなる。
◆
すぐに仮王宮内の伝令魔道具が点検された。
同じような上書き紋は、三箇所で見つかった。
東廊下。
南側階段。
兵の詰所前。
すべて短時間だけ声を流す仕組みだった。
長く支配するものではない。
一瞬だけ決定を通すためのもの。
それだけで、人は動いてしまう。
特に、私の声なら。
「対策が間に合っていなければ、危なかったな」
カイが低く言った。
「評議場の代表が一斉に動いていたかもしれん」
「兵もです」
ヴォルコフが戻ってきて言った。
「南側への偽通達は止めました」
「ただ、一部の施療係がすでに移送準備を始めていました」
「リム殿が止めています」
「よかった」
私は息を吐いた。
けれど、安心はできなかった。
アオトの端末が、また低く鳴る。
『外部送信を検出』
「またか」
アオトが呟く。
表示された文字を、私は見た。
『指導者音声、抵抗を確認』
『理由確認手順、阻害要素』
『次段階、代理声帯候補へ移行』
「代理声帯……?」
エリーナの声が震えた。
カイが剣の柄に手を置く。
「今度は何だ」
リムの通信が入る。
声がいつもより硬い。
『セリナ本人の声が使いにくくなったから、次は近い立場の人間を使うという意味かもしれない』
「近い立場……」
私は周囲を見た。
アオト。
カイ。
エリーナ。
ヴォルコフ。
リム。
ノルド。
文官たち。
兵たち。
私の言葉を伝える人たち。
私の決定を受けて動く人たち。
私の代わりに、民へ説明する人たち。
白い気配は、きっとそこへ重なる。
「つまり、次は私の声ではなく」
私はゆっくりと言った。
「私の声を伝える人が狙われる」
誰も否定しなかった。
仮王宮の外では、夕暮れの風が強くなっていた。
臨時評議場の中には、まだばらばらな声が残っている。
そのばらばらさを守るために、私たちは形を変え始めた。
けれど、白い気配もまた形を変えてくる。
祈りから、休息へ。
休息から、施療へ。
施療から、弔いへ。
弔いから、評議へ。
評議から、私の声へ。
そして次は。
私の声を運ぶ人たちへ。
私は拳を握った。
守るべきものが、また一つ増えた。
けれど、もう分かっている。
一人で守ろうとすれば、奪われる。
だから、皆で守る。
声も。
決定も。
異議も。
迷いも。
「次は、伝える人を守ります」
私は言った。
アオトが頷く。
「ああ」
「偽の声を潰すだけじゃ足りない」
「本物の伝令網を作り直す」
カイが短く息を吐く。
「面倒な戦だ」
「はい」
私は答えた。
「でも、必要な戦です」
夕暮れの光が、仮王宮の窓から差し込んだ。
それは白い気配の光ではない。
ただの夕陽だった。
その当たり前の色を見ながら、私はもう一度だけ、自分の声を確かめた。
奪われないためではない。
使われても、見分けられるように。
そして、誰かが私の声に怯えず、必要なら疑えるように。
王女の声を守る戦いは、まだ始まったばかりだった。




