第四部 第133話 声を運ぶ者たち
仮王宮の中で、伝令網の全体的な見直しが始まった。
紙に書く。
声に出す。
理由を添える。
不利益を記す。
確認者を置く。
ただそれだけのことなのに、部屋の中の雰囲気は重かった。
これまで当たり前に使っていた伝令の形が、もう当たり前ではなくなっていた。
私の声が使われた。
私の名が使われた。
父上の声も使われた。
なら、次に狙われるのは、私の声を運ぶ人たちだ。
そう考えるだけで、胸の奥が冷える。
「伝令は二人一組にする」
アオトが地図を見ながら言った。
「一人は通達を読む」
「もう一人は理由と不利益を復唱する」
「受け取った側も、同じ内容を言い返す」
「少し時間はかかるが、声だけで動くよりは安全だ」
ヴォルコフが同意するように頷いた。
「兵には徹底させます」
「ただ、城下全域となると時間がかかる」
「空から伝令を行います」
エリーナが一歩前に出た。
「私がやります」
その声はまっすぐだった。
けれど、指先が少しだけ震えているのが見えた。
カイも気づいたのだろう。
低く言う。
「無理はするな」
「無理はしません」
エリーナはそう答えた。
でも、すぐに小さく付け加えた。
「たぶん」
アオトが端末から目を上げる。
「たぶんは危ない」
「分かっています」
エリーナは唇を結んだ。
「でも、空中伝令部隊の責任者は私です」
「セリナ様の言葉を、一番早く届けられるのも私です」
「だから、行かせてください」
私はエリーナを見た。
彼女は怖がっている。
それでも逃げていない。
怖いまま、前に出ようとしている。
それは、今の私たちに必要な強さだった。
「エリーナ」
「はい」
「一人でやろうとしないでください」
「はい」
「あなたの声だけで、伝えないでください」
「はい」
「疑われても、怒らないでください」
エリーナは一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「それは、少し難しいです」
「でも、頑張ります」
「疑われるのは、怖いですから」
「私も怖いです」
私は答えた。
「でも、疑えることが、今は守りになります」
エリーナは深く頷いた。
「分かりました」
「私の声も、疑ってもらえるように伝えます」
その言葉に、アオトが少しだけ表情を緩めた。
「それが一番いい」
「綺麗な伝令より、引っかかる伝令の方が今は強い」
エリーナは杖を握り直した。
「では、南側避難区域、北区、慰霊碑周辺、順番に回ります」
「各地点で、決定確認手順を伝えます」
ヴォルコフが兵を二人つけた。
一人は地上伝令。
もう一人は記録役。
エリーナは空から先回りし、地上の二人が追って確認する。
それが、新しい形だった。
完璧ではない。
遅い。
手間も多い。
けれど、だからこそ白い気配には使いにくいはずだった。
◆
エリーナが仮王宮を出ると、夕暮れ前の風が城下を撫でていた。
空はまだ明るい。
けれど、光には少し灰色が混じっている。
街のあちこちに、今日一日で起きた混乱の跡が残っていた。
中央広場では、偽の掲示が剥がされている。
慰霊碑へ向かう道には、まだ泣きながら帰る人の姿がある。
南側からは、施療関係者が発熱者の移動を止め、状態確認を続けているという報告が届いていた。
白い気配の大きな干渉は、ひとまず切った。
でも、街の表面に残った不安までは消えていない。
エリーナは屋根の上へ降り立ち、息を整えた。
「南側避難区域へ伝令します」
彼女の声が風に乗る。
強く響かせるのではない。
近くにいる人へ、きちんと届く程度に。
「先ほど出回った一括移送の通達は、確認が取れるまで保留です」
「発熱者や重症の方は、動かさないでください」
「理由は、体力のない方へ負担が出るためです」
「不利益として、判断に時間がかかります」
「それでも、一人一人の状態確認を優先します」
地上伝令が同じ内容を読み上げる。
記録役が復唱する。
受け取った施療係が、さらに繰り返す。
ぎこちない。
何度も言い直す。
途中で言葉を間違える者もいる。
けれど、それでよかった。
滑らかではないことが、今は大事だった。
「……これで、いいんですよね」
エリーナが小さく呟いた時だった。
風が変わった。
自分の足元からではない。
少し離れた屋根の上。
古い風見柱の方から、声が聞こえた。
「南側避難区域の方は、全員、仮王宮へ移動してください」
エリーナの体が固まった。
その声は、エリーナの声だった。
「セリナ様の決定です」
「移動すれば、安全に保護されます」
「迷わず、順路に従ってください」
地上の人々が顔を上げる。
施療係の手が止まる。
発熱した子どもを抱えた母親が、不安そうに空を見た。
「エリーナ様?」
「今のは、どちらですか」
エリーナの喉が詰まった。
自分の声だ。
少し高くて。
少し優しくて。
少し滑らかすぎる。
でも、聞き慣れた者なら迷うには十分だった。
「違います!」
エリーナは叫んだ。
「それは私ではありません!」
けれど、偽物の声はさらに続く。
「慌てなくて大丈夫です」
「皆さま、同じ順路で進んでください」
「全員が一緒なら、安心です」
人々の足が揃いかける。
ついさっきまで止まっていた移送の準備が、また動き出しそうになる。
エリーナの胸がざわつく。
自分の声で、人が動こうとしている。
自分の声で、セリナの決定が上書きされようとしている。
「アオトさん!」
エリーナは通信用の小型端末に声を飛ばした。
「私の声が使われています!」
「場所は南側避難区域の風見柱です!」
すぐにアオトの声が返る。
『見えてる』
『風見柱に白色干渉』
『空中伝令の声を拾って、短時間だけ模倣してる』
『エリーナ、近づきすぎるな』
「でも、このままだと動きます!」
『分かってる』
『声を止める前に、人の流れを切る』
『偽物の声に、理由を聞かせろ』
エリーナは息を呑んだ。
セリナがやったことだ。
偽物の声に、理由を問う。
不利益を問う。
迷いを問う。
それを、自分がやる。
「……できます」
エリーナは杖を握り直した。
怖い。
自分の声と向き合うのは怖い。
でも、ここで逃げたら、もう自分の声を伝令として使えなくなる。
それだけは嫌だった。
「その決定の理由を言ってください!」
エリーナは風見柱へ向かって叫んだ。
偽物の声が止まる。
ほんの一瞬。
南側避難区域の人々も、つられるように足を止めた。
「全員の安全のためです」
偽物のエリーナが答える。
「では、不利益は?」
エリーナは続けた。
「病人を全員動かすことで、誰に負担が出ますか?」
風が白く揺れた。
偽物の声は少し遅れて言った。
「全員が保護されます」
「答えになっていません!」
エリーナの声が震える。
それでも、引かなかった。
「私は、セリナ様の言葉を運ぶ伝令です」
「でも、伝令は結論だけを運ぶものではありません」
「理由も、不利益も、迷いも、一緒に運びます」
偽物の声が、また滑らかに重なる。
「迷う必要はありません」
「従えば、安心です」
「違います!」
エリーナは叫んだ。
「私は、そんな伝え方をしません!」
「私は、迷っている人に、迷わないでいいとは言いません!」
「怖くても、確認してくださいと言います!」
地上で、一人の施療係がはっと顔を上げた。
「確認……」
「そうだ」
別の男が言う。
「理由を復唱しろと言われていた」
「移動の理由は?」
母親が子どもを抱え直す。
「負担が出るって、言っていました」
「だから、動かさないって」
人々の足が止まる。
揃いかけた流れが、ばらける。
泣き声。
咳。
文句。
問い返す声。
それらが戻ってくる。
『人流同期率、低下』
マザーブレインの声が通信に混ざる。
『風見柱の白色干渉、不安定化』
『切断可能』
「アオトさん!」
『やる』
青白い光が、仮王宮の方向からではなく、地上伝令の携行端末を通して風見柱へ走った。
アオトが遠隔で干渉線を通している。
風見柱の上で、白い筋が浮かび上がった。
その筋は柱だけではなかった。
近くの屋根。
吊るされた風鈴。
伝令用の薄い金属板。
そこに残っていたエリーナの声の残響へ絡みついている。
「私の声を……」
エリーナは唇を噛んだ。
「勝手に使わないでください!」
彼女は杖を振った。
強い風ではない。
声を運ぶための風でもない。
風見柱の周囲だけを、横から崩すような風だった。
偽物の声が乱れる。
「全員……安心……順路……」
「理由を言ってください!」
エリーナはもう一度叫んだ。
「言えないなら、それはセリナ様の決定ではありません!」
「私の伝令でもありません!」
青白い光が白い筋を断ち切る。
風見柱が小さく鳴った。
澄んだ音ではない。
錆びた金具が軋むような、かすれた音だった。
偽物の声が途切れる。
南側避難区域に、遅れて人の声が戻ってきた。
「今の、なんだったんだ」
「エリーナ様の声だったよな」
「違うって言ってた」
「じゃあ、動かない方がいいのか」
地上伝令がすぐに声を上げる。
「確認済みの通達を復唱します!」
「一括移送は保留!」
「理由は、発熱者への負担が大きいため!」
「不利益は、判断に時間がかかること!」
「それでも、状態確認を優先します!」
施療係が続ける。
「聞こえた者は、近くの者にそのまま伝えてください!」
「理由も一緒にです!」
エリーナは屋根の上で、ようやく息を吐いた。
膝が震えていた。
怖かった。
自分の声に、伝令の役目を奪われるのが怖かった。
それでも、止められた。
「エリーナ」
通信越しに、セリナの声が聞こえた。
今度は本物だと、エリーナには分かった。
理由を持った声だった。
迷いを含んだ声だった。
「はい、セリナ様」
「よく止めてくれました」
その一言で、エリーナの目に涙が浮かびそうになった。
でも、まだ泣かなかった。
「まだ、終わっていません」
「分かっています」
セリナの声が少しだけ柔らかくなる。
「でも、あなたの声は守れました」
エリーナは風見柱を見た。
完全に壊れたわけではない。
ただ、白い筋だけが消えている。
「はい」
「次も、守ります」
◆
南側避難区域で起きた偽声の報告は、すぐに仮王宮へ戻された。
臨時評議場では、アオトが地図に新しい印を打っていた。
風見柱。
伝令板。
屋根上の風鈴。
空中伝令が声を乗せる場所。
そのいくつかに、微弱な反応が残っていた。
「声そのものじゃなく、声の通り道を狙ってきた」
アオトが言った。
「エリーナの魔法を直接奪ったわけじゃない」
「けど、残響を拾って似せた」
カイが腕を組む。
「つまり、伝えれば伝えるほど、真似される可能性がある」
「そういうことだ」
アオトの声は重い。
「だから、声だけの伝令は全部止める」
「風伝令も、補助扱いにする」
「必ず紙、復唱、確認者を挟む」
エリーナが戻ってきた時、顔色はかなり悪かった。
それでも、足取りは崩れていない。
彼女はセリナの前で膝をつきかけた。
セリナはすぐに止めた。
「礼はいりません」
「今は座ってください」
「ですが」
「これは決定です」
セリナはそこで、少しだけ息を吸った。
「理由は、あなたが疲弊しているから」
「不利益は、伝令速度が落ちること」
「それでも、あなたの判断力を守る方を優先します」
エリーナは目を瞬かせた。
それから、ふっと笑った。
「確認済みです」
「その決定には、異議ありません」
その場の空気が、少しだけ緩んだ。
カイが小さく息を吐く。
「こういう使い方なら、面倒な手順も悪くないな」
「でしょう」
アオトが短く返した。
リムの通信が入る。
『南側施療所の患者移送は止まった』
『発熱者の状態確認を継続中』
『夢幻干渉の再発は今のところなし』
「助かりました」
セリナが答える。
『礼はあとで』
リムの声は淡々としていた。
『それより、気になることがある』
アオトが端末に視線を落とす。
「何だ」
『偽声に使われた残響が、エリーナの声だけじゃない』
エリーナの顔が強張る。
「他にも?」
『ええ』
『セリナの声』
『エリーナの声』
『それから、ヴォルコフの声に近い波形も検出した』
ヴォルコフが顔を上げた。
「私の声?」
『兵に通りやすい声だからでしょうね』
『軍の配置を動かすには、あなたの声が便利』
カイが低く唸る。
「次は兵か」
アオトの端末が、そこで短く鳴った。
『外部送信を検出』
セリナの胸が、また冷たくなる。
アオトは何も言わず、復元された文を表示した。
『代理声帯候補、第一接続失敗』
『伝令網、理由確認により阻害』
『次段階、発声阻害へ移行』
「発声阻害……?」
エリーナが呟いた。
リムの声が、通信越しに低くなる。
『声を真似るのをやめて、声を出せなくするという意味かもしれない』
広間の空気が凍った。
声を使われる。
その次は、声を奪われる。
伝令が黙る。
兵が伝えられなくなる。
民が助けを呼べなくなる。
そうなれば、街は簡単に分断される。
「白い気配は」
セリナはゆっくりと言った。
「今度は、声そのものを奪いに来るのですね」
誰も否定しなかった。
仮王宮の外で、夕暮れの風が鳴った。
その風の中に、もう偽の声は混じっていない。
けれど、次の沈黙が近づいている気がした。
セリナは机の上の地図を見た。
声を運ぶ道。
人が助けを求める場所。
兵が応答する詰所。
施療所。
避難区域。
すべてが、細い線でつながっている。
「声を守るだけでは足りません」
セリナは言った。
「声が出なくなっても、届く形を作ります」
アオトが頷く。
「ああ」
「合図、灯火、旗、手書き、全部使う」
カイが剣の柄に手を置いた。
「面倒が増えるな」
「増やしましょう」
セリナは答えた。
「白い気配が滑らかに進めないように」
エリーナは椅子に座ったまま、両手で杖を握った。
その表情には、まだ恐怖が残っている。
でも、目は逸らしていなかった。
「私の声を使われても」
「声を奪われても」
「伝える方法は、まだあります」
セリナは頷いた。
「はい」
「私たちは、まだ伝えられます」
窓の外で、夕陽が城下の屋根を赤く染めていた。
白い気配の光ではない。
人の暮らしに落ちる、ただの夕陽だった。
その色が消える前に、次の備えをしなければならない。
声を奪われても。
沈黙が来ても。
それでも、誰かの助けを求める手が届くように。
セリナは地図の上に、新しい印を置いた。
声ではない伝令。
次の戦いは、そこから始まる。




