第三部 第102話 セリナの決断
人々の活気が戻りつつあるレグノル城下町。
仮王宮は、まだ王宮とは呼べない姿のままだった。
崩れた石壁。
仮設の柱。
積み上げられた資材。
廊下の外では、兵と職人たちが絶えず行き交っている。
それでも。
ここには、もう絶望の気配だけはなかった。
再建の音が、確かに響いていた。
人々の笑い声も、少しずつ戻り始めていた。
「西区画の補修は後回しで構いません」
地図に視線を落としたまま、セリナが告げる。
「住居の確保を優先してください。雨風を防げる場所がなければ、民は安心して暮らせません」
控えていた兵が深く頭を下げた。
「はっ」
兵が足早に去る。
カイが腕を組んだまま口を開く。
「南側の穴のスタンピードは、今夜中に一つ潰せます」
レグノルには、テンレア同盟国のような巨大迷宮は存在しない。
だが、崩壊した王都のあちこちには、魔物の棲みついた穴が残っていた。
戦争の影響で、その管理も止まっていたのだ。
王都を取り戻しただけでは終わらない。
人が暮らせる場所に戻すには、まだ泥臭い戦いが必要だった。
「バルドとエリーナは?」
「南の穴の制圧へ。まだ戻っていません」
セリナは小さく頷いた。
「分かりました」
守るべきものは多く、戦力は常に足りない。
それが、今のレグノルの現実だった。
その時だった。
外が騒がしくなる。
荒い足音。
制止の声。
そして――
「セリナ様!」
扉が、勢いよく開いた。
ヴォルコフだった。
全身が濡れている。
血と海水と砂にまみれ、鎧の各所が砕けていた。
片膝をつき、荒い息のまま顔を上げる。
その姿だけで、広間の空気が変わった。
セリナは、一瞬だけ安堵し、すぐに表情を引き締めて一歩前に出る。
「ヴォルコフ。何があったのですか」
喉を焼くような呼吸の合間に、ヴォルコフは言葉を絞り出した。
「海側の戦線が……崩れかけています」
沈黙。
カイの目が細くなる。
「どこの戦線だ」
ヴォルコフは息を整えながら続ける。
「テンレア同盟国内、ヴァスティラ国。海沿いの村テーゼです」
「七聖と魔王が戦っています」
そして。
「七聖が……押されています」
広間の空気が凍った。
セリナの表情が、はっきりと変わる。
「七聖が……押されている?」
カイが低く呟く。
「七聖が、か」
ヴォルコフが深く頷く。
その瞳には、まだ戦場の光景が焼きついていた。
「あれは……通常の敵ではありません」
「攻撃が届かない。理屈が通らない」
一拍。
「アルディアスが――黒魔王と断定しました」
その名が落ちた瞬間、
広間の温度が一段下がった。
セリナは息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「生存者は?」
ヴォルコフの顔がわずかに曇る。
「……一人、いました」
短い答え。
それで十分だった。
「白狼の牙の生存者です。名は、リリア」
ヴォルコフは視線を落とす。
「彼女は……震えながらも、一歩も引かなかった」
「七聖と魔王の戦いの行方を、最後まで見届けると」
「……その背中が、私をここまで走らせました」
セリナは何も言わなかった。
ただ、拳を強く握りしめる。
カイが地図に目を落としたまま言う。
「レグノルから海へ兵を出しても、間に合わん」
「今ここを空にすれば、王都の復旧が止まる」
低い声。
「だが放置すれば、それ以上の被害が出る」
ヴォルコフが、押し殺すように続ける。
「エミリオに言われました」
「『このままじゃ――終わる』と」
その言葉に、セリナは顔を上げた。
胸の奥が、わずかに震えた。
だが迷いは、そこまでだった。
「……ファランシアへ向かいます」
カイが視線を向ける。
「姫様」
「アオトに会います」
声は静かだった。
だが、揺れていない。
「七聖ですら届かない相手なら、私たちの持つ常識の外です」
「私たちの知らない知識を持つ彼の考えも必要です」
ヴォルコフが息を呑む。
「ですが、まだ療養中では……」
「それでもです」
即答だった。
「待っていて済む段階は、もう過ぎました」
その声は、守られるべき“王女”のものではなかった。
国を背負い、未曾有の災厄に立ち向かう“王”の声だった。
カイがわずかに目を伏せる。
「馬を飛ばせば、明朝にはファランシアへ着ける」
一拍。
「俺も同行する」
セリナは首を振った。
「駄目です」
「カイ、あなたはここに残ってください。今のレグノルを守れるのは、あなたです」
カイの眉が寄る。
だが、反論はしなかった。
それが感情ではなく、王としての冷徹な采配だと分かったからだ。
「……承知しました」
低く応じる。
「ならば、道中の警戒は最大にします」
セリナが頷く。
「お願いします」
ヴォルコフが背筋を正す。
「自分が同行します」
その声には、もう迷いがなかった。
戦場から“現実”を、そして“リリアの決意”を持ち帰った者の声だった。
窓の外で、風が鳴る。
海の方角から吹いてきたような、嫌な風だった。
セリナはその音を聞きながら、胸の奥がざわめくのを感じていた。
けれど、止まらない。
止まれない。
「馬を用意してください」
兵たちが一斉に動き出す。
命令が飛ぶ。
足音が重なる。
仮王宮は、再び慌ただしさに包まれた。
カイが静かに言う。
「セリナ様」
セリナが振り返る。
「必ず、戻ってください」
短い言葉だった。
だが、その中にすべてがあった。
セリナは、かすかに笑う。
「ええ。必ず」
そして、最後にもう一度だけ海の方角を見た。
見えるはずもない。
それでも、確かに感じていた。
何かが、この世界を塗り替えようとしている。
「……待っていて、アオト」
それは祈りではなかった。
助けを求めるだけの弱い声でもない。
一人の王が、もう一人の王を呼ぶ。
対等の魂を呼ぶ声だった。
やがて。
夜のレグノルから、二騎の馬が駆け出した。
闇を裂くように。
ファランシアへ向かって。




