第三部 第101話 絶望と転機
海面が、一瞬抉られる。
さっきまでそこにあったはずの水面が、空白になっている。
遅れて――押し戻される。
轟音。
衝撃。
「……っ、ぐ……!」
エミリオの体が海面を滑る。
止まらない。
ようやく止まった時には、呼吸が乱れていた。
肋骨が軋む音がした。
それでも立とうとする。
「……なんだよ……今のは……」
視界が揺れる。
膝が笑う。
力が入らない。
◆
黒が、立っている。
変わらない。
何も。
ただ“そこにいる”。
それだけで、空間が歪む。
リンシアが結界を展開する。
――砕ける。
「……また……!」
防げない。
展開した瞬間に、押し潰される。
ミハイマールが叫ぶ。
「出力変動なし! なのに――干渉されている……!」
理屈が通らない。
ジュリアが低く呟く。
「……最悪ね」
エミリオが息を吐く。
肺が痛む。
それでも、立つ。
「……関係ねぇ」
一歩。
踏み込む。
次の瞬間――消える。
視界から。
空間が歪み、音が遅れる。
最短距離での加速。
一直線。
――叩き込む。
止まる。
拳が、黒の目前で静止する。
触れてすらいない。
なのに、それ以上進まない。
「……は?」
違和感。
手応えが、存在しない。
黒が、視線だけを向ける。
それだけで。
次の瞬間。
エミリオの体が弾かれる。
空が反転する。
海面に叩きつけられる。
「……っ、が……!」
息が、抜ける。
◆
転がりながら、理解する。
違う。
これは、戦いじゃない。
成立していない。
視界の端。
横切る影。
アーク=テンレア。
黒の余波で、巨体が揺れている。
――あれすら、持たない。
「……チッ」
舌打ち。
黒が、視線を空に上げる。
七聖を見るでもない。
何かを探すように。
周囲の誰も、気にもとめられていない。
その中で――
エミリオは、アーク=テンレア艦橋のヴォルコフの姿を捉える。
まだ無傷に近い。
だが、時間の問題だ。
「……おい」
低く、呼ぶ。
ヴォルコフが振り向く。
「……ここから逃げろ」
短く。
それだけ。
◆
ノクスの声が、淡く響く。
「……座標を送る」
一拍。
「それ以上は、介入になる」
アーク=テンレア内の端末に、脱出ポットの位置が表示される。
リリアが一歩、後ろに下がる。
震えている。
それでも、止まらないヴォルコフに向けて言う。
「……行ってください」
ヴォルコフが息を呑む。
「ここは――私が残り見ます」
「白狼の牙として」
一拍。
「……最後まで」
その瞳は、逸れない。
この状況から。
逃げていない。
「……無茶だ」
ヴォルコフが呟く。
わかっている。
残れば、死ぬ。
それでも――
(……ここで、判断を誤るわけにはいかない)
「それでも、です」
リリアが言い切る。
「私だけが、生きている理由があるなら」
「……ここです」
◆
轟音。
黒が、動く。
一歩。
それだけで、海面が歪む。
空間が沈む。
誰かが弾かれる。
声も出ない。
「……行け」
エミリオの声。
低く、押し殺した声。
ヴォルコフが振り返る。
「伝えろ」
「……あいつらに」
一瞬。
迷い。
「このままじゃ――終わる」
ヴォルコフの拳が握られる。
震えている。
悔しさか。
恐怖か。
その両方か。
「……承知した。」
重く短く。
それだけ。
◆
リリアが、前を向く。
背中を見せない。
黒を見据えたまま。
「……必ず」
ヴォルコフが、ノクスに示された座標へ走る。
アーク=テンレアの脱出ポットへ。
躊躇は、もうない。
乗り込む。
閉鎖。
次の瞬間。
射出。
海面を蹴り上げる。
風を裂く。
空へ。
ヴォルコフは、振り返らない。
◆
背後。
戦場。
黒。
歪む世界。
届かない攻撃。
崩れる結界。
沈む海。
――逃げたのではない。
運ぶために。
この現実を。
黒が、再び空を見上げる。
ほんの一瞬。
その視線は――
“何かを思い出している”ようだった。
だが。
それは、すぐに消える。
◆
戦いは、続いている。
だが。
その結末だけは――
まだ、誰にも見えていなかった。
――この戦いが、終わらないことを。




