第三部 第100話 災厄のはじまり
海が、押し上げられる。
黒が、脈打つ。
ドクン。
空間が、圧縮される。
ドクン。
足場が、悲鳴をあげる。
ドクン。
肺が、潰れる。
「……っ」
リンシアが息を詰めた。
誰も動けない。
ただ、見ている。
◆
アルディアスが一歩前に出る。
静かに。
「構えろ」
短い命令。
七聖が応じる。
陣が整う。
だが――黒は動かない。
ただ“そこにある”。
空気が、歪む。
◆
「来る」
ミハイマールの声が震えた。
解析が、追いついていない。
次の瞬間。
黒が――消えた。
「――は?」
視線が揺れる。
どこにも、いない。
「上だ」
アルディアスの声。
遅い。
◆
落ちてくる。
空から。
黒が。
――衝突。
光が消える。
音が、遅れて来る。
爆発。
海が割れる。
七聖が弾かれる。
エミリオの体が、海面を滑る。
「……っ、は……」
立てない。
リンシアの結界が、ガラスのように砕け散る。
「……そんな……」
アンリエットが膝をつく。
魔法陣が、音を立てて崩れる。
「……この圧……何……?」
◆
ミハイマールが、震える手で解析を走らせる。
だが――
「出力……測定不能」
観測艦オラクルの演算が、停止した。
ジュリアは扇を閉じたまま、笑わない。
「……これは」
言葉が、続かない。
◆
アルディアスだけが立っている。
黒を見据えて。
そこに“いる”だけで、息ができない。
黒が形を取る。
均整の取れた、人の形。
黒い体。
白い羽――六枚。
そして、顔。
女の顔。
◆
ゆっくりと、笑う。
音はない。
だが、全員が理解した。
“違う”。
これは――
◆
アルディアスが踏み込む。
「退くな」
斬る。
炎が走る。
届く――はずだった。
止まる。
刃が、空中で。
まるで、時間が止まったかのように。
「……なに」
黒が指先で触れる。
軽く。
羽虫を払うように。
次の瞬間。
アルディアスの体が吹き飛ぶ。
海を抉り、深淵へと沈む。
誰も、声を出せない。
◆
エミリオが立ち上がろうとする。
膝が、震える。
「……ふざけんな……」
拳を握る。
だが、力が入らない。
黒が一歩、踏み出す。
それだけで、空気が崩れる。
リンシアが後ずさる。
「……何か手を……」
リンシアが、言葉を失う。
◆
黒が見下ろす。
笑っている。
ゆっくりと。
楽しむように。
その時。
アーク=テンレアが少し遅れて全火力を集中させる。
オラクルが、臨界までエネルギーを収束させる。
発射。
閃光。
衝撃。
海が、狂ったように揺れる。
◆
アルディアスが海面から浮上する。
血を流しながら、それでも立つ。
「全員聞け」
一拍。
「奴は――黒魔王と断定する。」
空気が凍る。
「死力を尽くせ」
七聖が構える。
返事はない。
ただ、武器を握る音だけが重なった。
逃げない。
逃げられない。
黒が、動く。
世界が、軋む。
――災厄は、降りた。
七聖はまだ知らない。
この日を、人々が“黒の降臨”と呼ぶようになることを。




