第五話 体が先に知るもの
八度目の吸気で、
心臓がまた乱れた。
マルクスはすぐには目を開けなかった。
数秒のあいだ、
机の端に両手をついたまま、
こめかみや喉、
指先で血が重く脈打つのを聞いていた。
部屋は薄暗さに沈んでいた。
外から滲む光は鈍く、
ほとんど死んだような色をしていた。
だが、それでも十分だった。
影をより乾かし、
より深く見せるには。
仮面がすぐそばにあった。
彼はそれを見ていなかった。
それでも気配は感じていた。
手の届くところに置かれた物としてではなく、
そこを起点に、
空気の中へかすかな内圧が滲み出しているように。
その圧のあとでは、
体はただの体ではなくなる。
その内側に、
自分とは別の何かが棲みついているようになる。
より冷たく。
より静かで。
より正確な何かが。
マルクスはもう一度、目を閉じた。
呼吸を整えようとした。
安らぎのためではない。
その言葉は、もう彼にとってほとんど意味を失っていた。
そうではなく、
もっと別のために。
早すぎるあの乾いた、
まちがった構えに落ちてしまわないために。
そのあとに塵が現れ、
体の内側すべてが、
考えるより先に危険を知り始めるあの状態へ。
空気は重く入ってきた。
心臓の乱れはしつこかった。
右手は、
指を動かす前から、
嫌な重さを帯びていた。
今ではそれがいちばん悪かった。
夜そのものへの恐れではない。
次の呼び声への恐れでもない。
いちばん悪いのは、
体のほうが自分より先に始まることだった。
マルクスは意識を内側へ沈めた。
もっと深く。
もっと単純で、
それゆえにいちばん恐ろしいところへ。
まだ自分と呼べるものへ。
呼吸。
心臓。
血。
関節の重さ。
肩の乾いた構え。
背中。
本来よりも多くを背負ってしまっている背中。
知りたかったのは一つだけだった。
どこで自分が終わり、
どこから先で、
体が人間である自分より先に知り始めるのか。
呼吸がわずかに整うと、
彼はさらに深く耳を澄ませた。
心臓の律動へ。
その鈍く、
しつこい働きへ。
最近それは、
命の自然な土台というより、
どこか別の、
ほとんど敵意に近いものに思えることがあった。
心臓さえ、
最後まで自分の味方ではないように。
その奥から、
血の感覚が持ち上がった。
手首。
指。
こめかみ。
彼はもうそれを、
皮膚の下を流れる抽象的な何かとは感じていなかった。
それは別個の仕事だった。
自分が生きているというより、
生きたまま引き留められているとしか思えないときでさえ、
止まることなく続いている内部の働きだった。
手が、
先に意識へ上がってきた。
大きな掌。
硬い指の関節。
短く、
不穏な手首の構え。
さらにその上には肩。
広く、
静かにまとまり、
じっとしているだけでも、
その中に動きの癖を隠しているような肩だった。
この体には、
鈍い重さも、
見せびらかすような力もなかった。
むしろ乾いていた。
持久力があり、
負荷に慣れ、
長く耐えることを覚えている体だった。
だからこそ、
内側で何かが少しずれただけで、
全身がどれほど速く一本の線に引き締まるのかが、
なおさら気味悪かった。
次に意識に入ってきたのは背中だった。
体の重みのいちばん大きな部分が、
そこに残っていた。
怪物じみた重さではない。
押し潰す重さでもない。
ただ、
執拗で、
道の重さだった。
本来より多くを耐えることに慣れた者だけが背負う重さ。
そのあとでようやく、
首が意識に入った。
本来、静かにしているだけなら
そこまで張るはずのない場所なのに、
首はずっと強く緊張していた。
まるで頭だけでなく、
この名のつかない内側の増大そのものまで
支えなければならないかのように。
そしてそこでまた、
ここ数日いちばん彼を怯えさせてきたものが現れた。
体は彼より先に知っている。
すべてではない。
完全でもない。
それでも、
前よりずっと多く。
マルクスは動かなかった。
ただ耳を澄ませつづけた。
逃げ場を失った人間だけが持つ、
硬く、
ほとんど怒りに近い集中で。
吸う。
吐く。
心臓の乱れ。
血の一押し。
指の構え。
肩の重さ。
そして――冷たさ。
仮面からだった。
鋭くも、
粗暴でもない。
もっと細く、
もっと内側へ入ってくる冷たさ。
皮膚の上ではなく、
もっと奥、
もう長く清い感情など生まれなくなった場所へ染み込む冷たさ。
その冷たさに、
心臓がもう一度強く跳ねた。
呼吸が崩れた。
右手は真っ先に、
あの短い、
不穏な構えで応えた。
それを彼はもう、
ほかの何かと取り違えることができなかった。
そのあとでようやく、
皮膚の上に鈍い灰色が浮いた。
ほんの少しだけ。
ほとんど見えないほどに。
それでも、
すべてが違って感じられた。
これまで塵は、
他人の不幸と一緒に、
彼の中へなだれ込んでいた。
正面から見る暇すら与えずに。
だが今、
彼は初めてそれを入口で捉えた。
動きはまだ起きていない。
それでも体のほうが、
すでにそれへ向けて整ってしまっている。
その、ごく短い裂け目で。
マルクスは目を開けた。
塵は、
夜の外へ出るときのように空気の中へ層をなして漂ってはいなかった。
ただ、
そこにあると分かる程度に自らを示していた。
指先の灰色。
仮面から来る冷たさ。
そして、
体の内側の構えと、
それが同じ一点で重なるという、
あまりにも嫌な一致。
彼は動かなかった。
来たのは安堵ではなかった。
喜びでもない。
まして、
何かを理解できたという汚れた満足などではない。
恐怖だった。
疲労のせいにもできない。
狂気のせいにもできない。
偶然だったと押し流すこともできない。
初めて彼は見たのだ。
ただの塵ではなく、
ただの残り香でもなく、
それが自分の中へ入ってくるその境目そのものを。
そしてその裂け目は、
外側にはなかった。
部屋にも。
夜にも。
仮面そのものにも。
それは彼の中にあった。
いや、
もっと正確に言えば、
体のほうが理性より先に危険を知るその瞬間にあった。
マルクスはゆっくりと手に視線を落とした。
灰色はもう、
ほとんど消えていた。
だが感覚は消えていなかった。
彼はもう一度試した。
呼び出すためではない。
従わせるためでもない。
無理に起こすためでもない。
ただ戻りたかった。
呼吸へ。
心臓へ。
血へ。
思考より先に体が整い始める、
あのごくかすかな瞬間へ。
一度目は何も起こらなかった。
二度目も同じだった。
三度目、
仮面は少し早く冷たくなった。
右手もまた、
あの短く不穏な構えを帯びた。
塵が、
そこにあると分かる程度に姿を見せた。
前より弱く。
だが、
前より澄んで。
マルクスは弾かれたように指を開いた。
塵そのものよりも、
それが本当に繰り返され始めたことのほうが恐ろしかった。
彼はしばらく動けなかった。
それからゆっくり立ち上がり、
机から距離を取り、
仮面から目を離さなかった。
幻ではなかった。
自分の内側には、
本当に裂け目がある。
塵はそこを通って入ってくる。
もしこの先に道があるのだとしても、
それは怒りや、
分かりやすい意味での力のほうへ続いているのではない。
もっと深い場所だ。
もっと暗く、
ほとんど耐えがたい場所。
体のほうが、
その内にいる人間より先に知り始める場所へ。
だからこそ、
この発見は彼を楽にしなかった。
むしろ、
さらに悪くした。
この先を進めば、
いつか彼は、
目を開けたときにはもう体のほうがすべてを決め終わっていて、
自分はただ、
とっくに起きてしまったことを追いかけるだけの存在になるかもしれない。




