第三話 子どもたちが恐れる者
マルクスはもう眠れなかった。
仮面と出会ってから、
眠りは消えた。
目を閉じれば、
聞こえるのは声だけだった。
かすかなこともあった。
だが、
あまりにも絶望的で、
黙らせるためなら自分の頭を引き裂きたくなるほどのこともあった。
けれど、
いちばんひどいのは、別のことだった。
彼はそれを、
聞くより先に感じるようになっていた。
まるで体の奥で何かが、
ゆっくりと他人の痛みに手を伸ばしていくように。
その夜、
マルクスは急に目を覚ました。
闇の中から押し出されたように。
部屋は冷えていた。
床に、
ベッドのそばに、
薄い灰色の塵が落ちていた。
マルクスは動きを止めた。
昨日はこんなものはなかった。
彼はゆっくりしゃがみこんだ。
塵はかすかに震えていた。
まるで呼吸しているように。
声は、すぐに聞こえてきた。
子どもの声。
怯えた声。
すぐ近くからだった。
マルクスは黙って立ち上がり、
上着を羽織って
外へ出た。
夜の街は雪と風で彼を迎えた。
人影はほとんどない。
たまに通る辻馬車が、
人気のない道を軋みながら過ぎていくだけだった。
だがマルクスにはもう分かっていた。
何かが起こる。
石畳の上の塵が、
かすかに動いていた。
まるで道を示しているように。
気が狂いかけているのだと、
自分に言い聞かせようとした。
それでも足は前へ進んだ。
古びた住宅街は、
沈黙のまま彼を迎えた。
静かすぎた。
風さえ、
この場所では息を潜めているようだった。
マルクスは古い長屋の前で立ち止まった。
そしてすぐに聞こえた。
泣き声。
子どもの声だ。
すぐ近くで。
彼は階段を駆け上がった。
三階。
壊れた扉。
壁に飛び散った血。
マルクスはゆっくりと中へ入った。
部屋には、
酒と、
恐怖と、
それ以外の何かの匂いがこもっていた。
もっと重いもの。
奥の部屋で、
誰かが息を詰めるようにすすり泣いていた。
マルクスは一歩進んだ。
その瞬間、声がした。
「誰だ?」
男の声。
酔っていた。
苛立っていた。
部屋の奥から男が出てきた。
大柄だった。
禿げ上がっていた。
顔はむくんでいた。
手には、
ベルト。
その背後、
部屋の隅には、
小さな女の子が座っていた。
マルクスは感じた。
内側で、
何か黒いものが頭をもたげはじめていた。
男は眉をひそめた。
「おまえ、誰だ?」
マルクスは黙っていた。
視線は女の子に止まっていた。
裂けた唇。
目の下の痣。
震えていた。
男が一歩近づいた。
「聞こえてねえのか?」
床の塵が揺れた。
マルクスは、
いつ手を上げたのか自分でも分からなかった。
部屋の空気が不意に重くなった。
男は急に動きを止めた。
まるで肩の上に、
見えない何か巨大なものが落ちてきたように。
ベルトが手から落ちた。
その目に浮かんだのは恐怖だった。
本物の恐怖。
マルクスは黙って彼を見ていた。
そして突然気づいた。
もう自分の中に、
哀れみがない。
それが何よりも恐ろしかった。
男は喘ぎながら、
立ち上がろうとした。
その足元で、
塵がゆっくりと渦を巻きはじめた。
ひどくゆっくりと。
あまりにもゆっくりと。
まるで世界そのものが、
この先を続けたがっていないかのように。
「た、頼む……」
男は掠れた声で言った。
マルクスはわずかに身を震わせた。
一瞬、
また子どもの声が聞こえた気がした。
だが違った。
それは大人の恐怖だった。
そしてなぜか、
それは空っぽに感じられた。
塵が鋭く跳ね上がった。
短い、乾いた音がした。
男の体が床に崩れ落ちた。
静かすぎるほど静かに。
マルクスは凍りついた。
自分が何をしたのか、
すぐには分からなかった。
手は、一度も男に触れていなかった。
塵はゆっくりとまた床へ戻っていった。
何も起こらなかったかのように。
部屋の隅から、
押し殺したような音がした。
マルクスは振り向いた。
女の子は目を大きく見開いて、
彼を見ていた。
震えていた。
あの男にではない。
彼に、だ。
マルクスはゆっくりと一歩下がった。
さらにもう一歩。
体の奥が冷えていった。
助けに来たはずだった。
なのに今の自分は、
床に転がったあの男と同じくらい怪物に見えた。
「もう大丈夫だ」
マルクスは低く言った。
そして言った瞬間に、
それが嘘だと分かった。
女の子は震えたままだった。
マルクスは彼女を見つめた。
そして、
ひどく恐ろしい考えにとらわれた。
いつか自分は、
この子が何になるのかを知ることになるのかもしれない。
この子は自分を守りきれるのか。
それとも、いつか、
子どもたちが闇の中で怯えて身を潜めるような、
もう一人の大人になるのか。
その考えに、
本当に吐き気がこみ上げた。
マルクスは目を落とした。
床の塵が、
またかすかに動いていた。
遠くのどこかで、
もう次の子どもの声がしていた。
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