第十九章 鬼に金棒
彼はその場から動かなかった。
一歩たりとも、無駄な足を運ばない。
そして、すべての斬撃を弾いていた。
稲妻のように。
神々は残る力のすべてを振り絞っていた。だが、足りなかった。ほんの一瞬でも隙を作らせるには、あまりにも足りない。どの角度から入ろうと、どう攻めようと、彼に死角というものは存在しなかった。
彼は全身で戦っていた。
あらゆる一撃を素手で受け、空いた手が、相手自身の開いた隙へすぐさま入り込む。
だが、返す一撃は、ひとつとして相手を傷つけなかった。
彼にとって、彼らは敵ではなかった。
ようやく歩き方を覚え始めたばかりの、赤子だった。
稽古ですらない。
遊びだ。
マルクスは離れた場所から見ていたが、何が起きているのか分からなかった。
つい一分前、魔王はその気配だけで彼らを消し去りかけていた。
それが今は……。
頭の中を、不遜な考えがよぎった。
(まさか……鍛えているのか? だが、何のために)
魔王はその考えを、即座に聞き取った。
硬い顔に、ほとんど見えないほどの笑みがかすめた。
若い神の剣が、真上から振り下ろされる。
魔王はそれを手の甲で受け、次の瞬間には短い指弾が相手の指を打ち、緩んだ握りから武器を弾き飛ばしていた。
あるいは、刃を人差し指と中指で挟み取り、捻り、一息に奪う。
剣でも、槍でも、何であろうと――結果は同じだった。
炎の神は武器を持たなかった。
素手で戦っていた。
その相手に対してだけは、魔王ははるかに容赦がなかった。
弾いた一撃の終わりは、いつも同じ。
曲げた中指が、正確に急所を打つ。
外には傷ひとつ残らない。
残るのは痛みだけだ。
耐えがたく、全身を引きつらせる痛み。
拍子が速くなっていく。
戦いは次第に、一方的な打擲に近づいていった。
それでも神は耐えた。
歯を食いしばり、己の限界をすべて絞り出していた。
若き神々を、魔王は幻影の腕で抑えていた。
そして自分自身は――その身体と、その顔は――炎の神だけを見ていた。
険しく、不満げな眼差し。
重く、失望を含んだ吐息。
いつもより少しだけ強く一撃を弾き返すと、魔王はただの指弾で、神の肩を打った。
神の胸から息が叩き出された。
身体が数メートル弾き飛ばされ、重く片膝をつく。肩を手で押さえ、顔が痛みに歪んだ。
空間そのものを震わせる低い声が響いた。
「本来、これはお前がやるべきことだ!」
魔王は、ほんのわずかに気配を解き放った。
それだけで、神の軍勢は凍りついたように立ち尽くした。
誰ひとり、身じろぎすらできなかった。
圧が消える。
魔王は一語一語を落とすように続けた。
「お前の子らが弱いのは、ただお前自身が己を怠けさせたからだ」
説教は長く続いた。
炎の神は深く頭を垂れたまま、一言も言い返せずにそれを聞いていた。
やがて魔王は一歩横へ退き、マルクスを己の影の外へ出した。
鞘に収めた剣を持つ右手で、まっすぐ彼を指し示す。
そして、先ほどよりも穏やかな――だからこそ恐ろしい――声で言った。
「これは私の……ゴホン」
マルクスの知る限り、魔王が言葉の途中でむせたのは初めてだった。
「……弟子だ。マルクスという」
マルクスは横目で魔王を見た。
(弟子、ね)
魔王は再び、重い視線を神へ向けた。
「お前の子らと、二、三度手合わせすれば十分だろう」
一瞬、考えるように炎の神を眺める。
「そのあとで、お前とやらせる」
神に、選ぶ余地はなかった。
それに本当のところ、ここまで辿り着いた定命の者がどれほどのものか、神自身も見てみたかった。
神は己の子らを見回した。
その視線が、双子の上で止まった。
「ゾリャン。ザルニツァ」
手を振ると、二人はすぐに前へ出た。
兄と妹。
ひとつの顔を二人で分け合っていながら――ほかに似たところは、ほとんどなかった。
兄は、肩まで届く暗い銅色の髪。
左右で色の違う目。片方は夜明けの太陽、もう片方は夕暮れの太陽のようだった。
うっすらと日に焼けた、明るい肌。
深紅の色合いの軽い衣。
片手に片手剣、もう一方の手に盾。
妹は、ほとんど黒に近い暗い髪。そこに銀色の筋が混じり、まるで閃光が髪の中に引っかかったままのようだった。
灰がかった青い目。
青白く、ひんやりとした肌。
黒鉛色の軽い衣。
二人とも細身だった。
そして二人とも、この神の子らが皆そうであるように――瞳孔のすぐ縁に、細い金の輪があった。
魔王は頷いた。
「悪くない……」
短い間。
ほかの子らを見回してから、言う。
「双子なら、二人まとめてこいつとやれ」
さらに何度か頷き、乾いた声で、独り言のように。
「よし、よし……」
炎の神は戸惑った。
「ですが、それは……」
魔王は手を一振りして、その言葉を断ち切った。
もう一度ほかの子らを眺め、神へ視線を投げ、まとめるように言った。
「よし、決まりだ」
数メートル離れた場所に、卓と椅子、それに料理の皿がいくつか現れた。
だが、腰を下ろす前に、魔王は子らの中でいちばん大柄な者を目で示した。
炎の神は、それを悟った。
「スヴェトザール」
背が高い。父にほとんど並ぶほどの長身で、肩幅が広い。
肩まで垂れた淡い金の髪は、毛先がほとんど白く、まるで陽に焼けて色が抜けたようだった。
淡い琥珀色の目は、一族の誰よりも明るい。
日に焼けた肌は、生まれてからずっと太陽の下に立ち続けてきたかのようだった。
衣は同じく軽やかな、白と金。
そして、魔王でさえすぐには気づかなかった、ひとつの奇妙さ。
彼の足元には、ほとんど影が落ちていなかった。
ようやく魔王は卓についた。
穏やかで、満足げな顔だった。
わずかに首を傾け、マルクスにしか聞こえないほど小さな声で言う。
「もう、仮面をつけていい」
その一言で十分だった。
覚えのある感覚。
懐で、仮面が冷たくなっていた。
マルクスはそれを取り出し――そして、動きを止めた。
仮面が変わっていた。
亀裂が増えている。
それは、彼自身の身体に走っていた亀裂と同じだった。
彼は新しい亀裂のひとつを、親指でなぞった。
縁は冷たく、不思議なほど滑らかだった。誰かに刻まれたのではなく、内側から伸びてきたかのように。
亀裂の奥で、青い塵がゆっくりと明滅していた。
初めて仮面を見たあの夜よりも、鈍く。
それとも、そう見えただけなのか。
(いつ、こうなった? 地獄でか? 門のあとか? それとも、ずっと俺と一緒に変わり続けていて――俺がただ、見ていなかっただけなのか)
「……妙だな」
マルクスは、ほとんど独り言のように小さく呟いた。
魔王は皿から目も上げずに、乾いた声を投げた。
「急げ」
マルクスは仮面を顔へ近づけた。
一瞬、仮面が自分から顔に収まったように思えた。
あの時と同じだ。眠りの中で、目覚めたらすでに顔にあった、あの時と。
まるで、顔のほうがずっとこれを待っていたかのように。
冷たさが皮膚を這い、その下へ染み込み、そして静かに落ち着いた。
初めて、それは肌を灼かなかった。
どこか遠く、聞こえるか聞こえないかの境で、子どもが泣き出した。
たった一人。
マルクスはゆっくりと息を吐いた。
そして、新しい息を吸うたびに、塵はますます鮮明に感じられていった。
仮面を見た神が、唇だけで呟いた。
「そうか……お前は……」
まだ始まってもいないものを止めようと、神は手を上げかけた。
だが、魔王がただ一瞥しただけで、その手は下りた。
双子とマルクスは卓の前に立った。互いの間は数メートル。
兄と妹が、武器を構えた。
マルクスにとって、これは控えめに言っても予想外の成り行きだった。
だが、逃げ場はなかった。
彼はわずかに前へ身を傾け、拳を握った。
左腕を前に。右腕は身体の近くに。右肩を、少しだけ上げる。
そのとき、彼は自分の腕を見た。
青く燻る亀裂が、腕を覆っていた。
そこから熱が漏れている。
だが、彼自身は痛みも熱も感じていなかった。
握った拳から、青い火花がぱちぱちと四方へ散った。
魔王が手を打ち鳴らした――十対の腕、そのすべてで。
衝撃波が、戦いの始まりを告げた。
マルクスは、最初の一歩を踏み出した。
読んでいただき、ありがとうございます。
仮面を見た炎の神は、何に気づいたのでしょうか。
よろしければ、感想で教えてください。
次回、ついに戦いが始まります。




