第二十章 鬼の目にも涙
一秒一秒が、ひどく長く引き延ばされていた。
すべてが細部まで見えた。
穂先から散った火花。
誰かの足の下で燃え上がった草の一本。
ゾリャンのこめかみを伝う、ひと粒の汗。
見ることは、間に合っていた。
かわすことは――間に合わなかった。
体が、目に追いつかない。
ザルニツァは常に攻撃の先端にいた。
兄はその半拍後ろで動いていた。半歩下がった位置から妹の死角を塞ぎ、マルクスの拳はそのたびに、盾の分厚い守りに沈み込んだ。
盾が鐘のように鳴る。
その向こうから、もう次の槍が閃いている。
二人の動きはあまりにも揃っていて、まるで一つの体を二人で分け合っているかのようだった。
顔と同じように。
武器を素手で弾くのは痛かった。
受けるたびに、その衝撃は手首から歯の奥まで響いた。
だが、気を緩める暇はなかった。
ザルニツァは兄の背後から打ってきた。
鋭く、稲妻のように。まさかと思う角度から。
槍は腕を、肩を、脇腹を捉えた。
傷が、ひとつ、またひとつと刻まれていく。深く、ぎざぎざに。
血が滲む間もなく、傷口の縁がくすぶり始めた。
そして傷が増えるたびに、熱は強くなっていった。
魔王と炎の神は、それぞれまったく違う顔で戦いを見ていた。
炎の神は不安を押し殺していた。
うまく押し殺せてはいなかった。指が握られては開き、また握られる。まるで自分が娘の槍を握っているかのように。
一方、魔王はこの上なく上機嫌だった。
彼は笑った。
ひとつの声ではなかった。魔の姿が轟かせるその笑いに、空気そのものが震えた。
「いいぞ、我が弟子よ!」
その目は狂信じみた光を宿していた。マルクスの動きも、双子の動きも、ひとつとして見逃さない。
だが、不意にその顔が引き締まった。
一瞬だけ、魔王の視線が地平線へ向く。
そこで雲が暗くなっていた。
厚くなっているのではない。黒くなっていた。内側から墨を流し込まれたように。
そしてその黒が、ゆっくりと空を這い、こちらへ近づいてくる。
炎の神も、思わずそちらを振り返った。
その背後の炎の輪が、一瞬、揺らいだ。
黒は、ゆっくりと進んでいた。
なぜか、見ていたくなかった。
魔王は何事もなかったかのように戦いへ目を戻し、言い放った。
「見せてやれ、魔界の力を! 地獄の力を!」
マルクスには、もう何も聞こえていなかった。
体の動きが、不自然なほど軽い。
息が胸ではなく、全身で行われているようだった。踵から後頭部まで、すべてで。
吸う息で、持てるものをすべて集める。
吐く息で、打つ。
相手が一歩を踏み出したばかりの、その瞬間へ。迎え撃つように。
「兄さん、構えて」
ザルニツァが短く言った。
双子は言葉の半分で通じ合っていた。左右から同時に打ち込み、挟み撃ちにする。
そのとき、ようやく体が反応に追いついた。
マルクスには塵が見えた。
二人のまわりで、ほとんど分からないほどかすかに震えている。灼けた石の上で揺らぐ空気のように。
そしてその震えは、いつも攻撃よりほんの一瞬だけ早かった。
攻撃の瞬間に、マルクスは一歩退いた。
そして戻る動きのまま、槍の穂先に拳を叩き込んだ。
穂先が、拳の骨に当たって止まった。
それだけだった。
(柔らかい穂先だな。痛くもない)
戦いが続くほど、見えるものが増えていった。
今では、塵の呼吸そのものが分かる。動きのひとつひとつのまわりで、縮んでは広がる、その気配が。
それと一緒に、夜明けのようにゆっくりと、ある理解が訪れていた。
塵は、もっとずっと小さなものでできている。
もうそれ以上は分けられない粒で。
考えきる前に、彼は横へ跳んだ。
そのとき、視界の端に自分の腕が映った。
濃い青の炎が、腕を包んでいた。
重く、密で、プラズマのような炎。
呼んだ覚えはない。
勝手に来たのだ。
マルクスは槍へ目を移した。
穂先が燃えていた。
金属は溶けてはいなかった。ただ、目の前で消えていく。何かに拭い去られるように。
ザルニツァが鋭く槍を振り、穂先の炎を払い落とした。
間に合った。
あと一瞬遅ければ、槍はなくなっていた。
短い間が生まれた。
急に、野のすべての音が聞こえるようになった。くすぶる草のはぜる音。遠い雲の奥で、雷が寝返りを打つ音。
兄と妹は、口を開けて荒く息をしていた。
二人とも心臓が激しく打ち、その鼓動が外まで聞こえそうなほどだった。
マルクスは疲れていなかった。
何事もなかったように、静かに息をしていた。
いや――息をしていたのは、彼の輪郭を包む炎のほうだった。
膨らんでは沈み、膨らんでは沈む。
その中で、彼自身は像のように動かなかった。
双子は顔を見合わせた。
そして同時に、父を見た。
炎の神はためらった。
彼が見ていたのはマルクスではなかった。自分の子らだった。刻まれた傷。乱れた息。焦げた槍をまだ握りしめている娘。
その顔には、深い不安があった。
それでも、神は短く頷いた。
マルクスには、二人が何をするつもりなのか分かった。疑う余地もなく。
(そのほうが、面白い)
彼は邪魔をしなかった。
今打つのがいちばん楽だ。だが、それでは二人に何ができるのか、分からないままになる。
彼は黙って、二人の支度が終わるのを待った。
双子の髪と武器が、見る間に炎に包まれていった。
ゾリャンは深紅と金の炎に燃え上がった。煙の中へ沈む夕陽のように、濃く、重く。
ザルニツァの槍のまわりには、銀色の炎が踊った。その縁は獰猛な紫に脈打ち、光っては消え、光っては消える。
熱が波のように押し寄せた。
二人のまわりの草が、黒く縮れていった。
魔王は動かない弟子を眺め、何度か頷いた。
乾いた声で、独り言のように。
「よし、よし……」
そのあいだ、マルクスは自分の内側に耳を澄ませていた。
戦いのただ中で。
体の中の塵が、低く途切れのない唸りで応えた。
その唸りはいちばん深いところから生まれ、全身へ広がり、体のひと粒ひと粒と共鳴していった。
手のひらを当てた鐘が、内側から震えるように。
筋肉が密になっていく。
ずっと、密に。
血が血管を流れるのが分かった。ひとつひとつの拍動が、ひとつひとつの波が。
力がどこで生まれ、どこへ去っていくのかが分かった。
感覚が深く沈むほど、彼ははっきりと理解し始めていた。それは――
その思考を、攻撃が断ち切った。
完全に揃った一撃。
あまりにも速く、マルクスはかろうじてかわした。大きく後ろへ倒れ込みながら。
体勢が崩れる。
彼は仰向けに倒れ始めた。
双子は、その隙を見逃さなかった。
そして、一撃ですべてを終わらせようとした。
ザルニツァが兄の背後から跳び上がった。剣を握った兄の曲げた腕を足場に蹴って。
両手で槍を握り直し、炎を限界まで燃え上がらせる。
今や炎は、武器ごと彼女の全身を包んでいた。
銀の閃光が、倒れゆく男の上へ降ってくる。
同じ瞬間、ゾリャンも自分の炎をすべて絞り出した。
深紅と金の炎が、頭から足先まで彼を覆う。
彼は剣を振り上げ、マルクスの脚を狙った。完全に倒し、二度と立たせないために。
そのとき、久しぶりに、頭の中に声が戻ってきた。
いや。
ひとつだけ。
この瞬間まで、マルクスは完全に落ち着いていた。自分を完全に制していた。
不意を突かれたせいで、声が入り込んだのかもしれない。
自分で招いたことだ。自分の落ち度で。
だが、そんなことはもうどうでもよかった。
来たのは、あの声だった。
眠っていた声。
憤怒。
「兄弟よ……」
胸の中のすべてが締めつけられ、耐えがたく灼け始めた。
「目を開けろ」
時が、遅くなった。
マルクスはまだ仰向けに倒れている途中だった。
その胸に、槍の穂先が突き立っていた。
青い炎が、ザルニツァの荒れ狂う炎を最後の力で押し返している。銀と青が一点で噛み合い、熾火に水をかけたような音を立てていた。
脚を包む炎も、同じようにゾリャンの剣を受け止めていた。
声は急がなかった。
急ぐ理由がなかった。この内側では、時間は声のものだった。
「こいつらに甘すぎると、思わないか」
言い返せることは、何もなかった。
たしかに、彼の拳には悪意が一滴もなかった。
痛めつけたいという気持ちも、一滴も。
「地獄の悪魔どもと一緒にするな」
声は囁いた。
「こいつらは、神の道を歩む者だ」
すぐそば、耳元で、重いため息がはっきりと聞こえた。
話し手が、ぴたりと隣に立っているかのように。
「いい加減に分かれ、愚か者。あいつらは、おまえを殺しに来たんだ」
短い間。
「おまえが生きているのは、魔王のおかげにすぎない」
マルクスは視界の端で魔王を探した。
魔王は座ったまま、興味深そうに眺めていた。
心配している気配など、かけらもなかった。
「あいつらを見ろ」
マルクスは見た。
双子と目が合った。
どれほどの激しさで、どれほど容赦なく、二人が自分に食らいついてくるのかが見えた。
迷いの影もない。
憐れみの影もない。
「魂の扉を、俺に開け」
マルクスは答えなかった。
その意志は、どんな言葉よりも強かった。
彼はただ、拳をさらに固く握った。
腕の青い亀裂が、見る間に広がっていく。
そのまわりの皮膚が、ますます速く焼けていく。内側から、行き場のない熱が突き破ろうとしていた。
今は折れない。
声はそれを悟り、薄れ始めた。
「この世界は、複雑だ……」
消えていきながら、最後に囁く。
「おまえは、いつまで俺たちに抗えるかな」
時が、一気に戻ってきた。
すべての音と、すべての熱を連れて。
マルクスは全力で打った。
両の拳で。
片方は柄へ。
もう片方は刃へ。
その一撃の威力は、炎の神さえも呆然とさせた。
柄は、乾いた枝のように折れた。
ザルニツァは遠く横へ吹き飛ばされた。
刃への衝撃を、マルクスは受け止めて利用した。
その力に体を空中で回される――一度、二度、三度。
そしてその回転のまま、ゾリャンの頭へ蹴りを放った。
若い神はかろうじて盾を掲げた。
盾が唸り、ゾリャンは妹とは反対の方向へ吹き飛ばされた。
魔王の顔に、悪辣な笑みが浮かんだ。
彼は大笑いした。
低く、深く。
地面そのものがその笑いに震えたかのように、あたりに小さな揺れが走った。
「見事だ!」
腕を胸の前で組み、彼は戦いを見続けた。
(分けた。ようやくだ)
マルクスの頭を、それがよぎった。
彼はもう、ゾリャンのもとへ駆けていた。
ゾリャンは、歪んだ盾に体を預けてかろうじて起き上がろうとしていた。
立て直す暇を、マルクスは与えなかった。
全速のまま、踵でまっすぐに蹴り込む。
盾が砕け散った。
その下の腕が、真っ二つに折れた。
ゾリャンは野の遠くまで飛ばされ、深紅の炎はその宙で消えた。
彼は意識を失って倒れていた。
マルクスは妹のほうへ向き直った。
彼女は、もうこちらへ向かっていた。野の反対の端から、兄が倒れているこの場所へ。
荒い息をつき、足を引きずり、折れた柄を杖のようにつきながら。
炎は弱まっていた。銀は鈍り、紫の縁はほとんど消えかけている。
力は残っていなかった。
それでも、歩いていた。
戦いへ、戻るために。
自分へ向かって突進してくる彼を見ると、彼女は残っていた炎のすべてを折れた柄に込め、彼の顔めがけて投げつけた。
マルクスはかわさなかった。
正面から受けると決めた。
当たるはずの場所で、彼の炎の色が変わった。
青が、紺に。ほとんど紫に近い色へ。
柄は届きさえしなかった。
触れる手前で、一瞬にして燃え尽きた。灰ひとつ残さずに。
ザルニツァは悟った。
もう、かわせない。
恐怖が心臓をつかんだ。
彼女は両腕を顔の前で交差させた。まるで、その陰に隠れられるとでもいうように。
マルクスは、心の奥でふっと笑った。
「どうして隠れる? 俺を貫くつもりだったんだろう……」
返ってきたのは、沈黙だけだった。
そして、震え。
拳は、もう彼女の腕の目の前にあった。
マルクスは、それを止めた。
「おまえには、少し手加減してやる……」
拳は止めた。
だが、拳のあとを追う力までは止めなかった。
衝撃波がザルニツァを迎え、遠くへ弾き飛ばした。
彼女は草の上を転がり、打ちつけられ、また跳ね上がった。
水面を切って跳ねる平たい石のように。どうしても止まれずに。
二人が、彼女へ駆けた。
長兄は全力で走っていた。
白い炎がその背に尾を引き、足もとで草が燃え上がる。
間に合え。
受け止めろ。
だが、青い閃光が彼を追い抜いた。
マルクスはザルニツァの軽いシャツの袖をつかみ、勢いを殺し、宙で向きを変えた。
そして、ゆっくりと草の上へ下ろした。
彼女は気を失っていた。
そのまつげが震えたとき、そばにはもう誰もいなかった。
ザルニツァは目を開けた。
やっとのことで立ち上がる。
何が起きたのか分からないまま、あたりを見回した。
ずっと先、焼け焦げた草の真ん中に、二つの姿が向かい合って立っていた。
目を焼くほどの、ほとんど白い炎。
そして、紫にきらめく、小さな青い灯。
お読みいただき、ありがとうございました。
双子との戦いは終わりました。
でも、まだ終わっていないものがあります。
白い炎と、青い炎。
次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。
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