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終わりなき塵  作者: Nick Occam


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第18話 蟷螂の斧

未知の森を静かに進みながら、マルクスと魔王は周りの気配に耳を澄ませていた。この世界の住人に感づかれるのを警戒してのことだ。


それと同時に、二人はある違和感を覚えていた。この地の空気は驚くほど澄み渡り、彼らの精神を圧迫しようとする気配すらない。だが、それが安らぎをもたらすことはなかった。背中に突き刺さる何者かの視線が、消えることなく彼らを焼き続けていた。


「門」から少し離れたところで、マルクスは振り返り、周囲を見渡した。


木々の間や草むらには、生き物たちが蠢いている。地獄の業火の中で永遠を過ごしてきた者にとって、生命に満ちたその光景は、どこか異質で遠い記憶の代物に思えた。


この世界がすぐさま自分たちを滅ぼそうとしていないことを確認し、マルクスが魔王に声をかけようとした――その瞬間、彼の身体が凍りついた。


魔王の顔には冷酷な笑みが浮かび、その重厚な視線は森の奥深く、暗闇の向こうを射抜いていた。


余計な言葉を削ぎ落とし、魔王はただ静かに手をひと振りすると、前に歩みを進めた。


「行くぞ。どうやら、手厚い歓迎のようだ」


マルクスはかすかな驚きを覚えつつも、何も言わずにその背中に続いた。


道中、様々な生き物と遭遇したが、取り分け異彩を放っていたのは捕食者たちだった。


街道の両脇、木々の濃い影の中に、ヒグマ、トラ、灰色の狼が息を潜めていた。森中の猛獣が集められたかのごとく、それらは群れをなし、頭上の枝葉に身を隠しながら、二人の進行方向に合わせて並走していた。


だが、マルクスの中に恐怖や不安はなかった。ただ唯一、彼を困惑させたのは、獣たちの異常な行動だった。


「まるで……街道を警備しているみたいだ」


マルクスが呟いた。


獣たちの野性に満ちた瞳の奥に、彼は単なる本能ではなく、冷徹な計算の色を見た。引き絞られた弓の弦のように、いつでも襲いかかれる態勢を整えている。


魔王は唇に指を当て、静寂を促した。


「口を慎め」


振り返りもせず、淡々とした声で魔王は言い放った。


「奴らは、この地の他の住人を守っているのだ」


その重々しく揺るぎない声に、マルクスは悟った。これは単なる観察などではなく、一刻も気を抜けない状況なのだと。


* * *


森を抜けると、目の前には黄金の波を打つ果てしない草原が広がっていた。


遥か彼方には厚い雲が立ち込めている。だが、進めば進むほど、その雲が地平線の向こうへと人工的に押し払われているかのような錯覚に陥った。


黄金の街道を進んでも、周囲の緊張感が和らぐことはなかった。変わったことと言えば、茂みの陰から覗く猛獣の姿が、今や数百の怪しく光る「瞳」へと変わったことだけだ。姿も気配もなく、ただ無限の視線だけが二人を刺す。


ある意味では、その方がまだ幾分かマシだった。


「急ぐこともできるが……その必要もあるまい」


魔王はマルクスの前を歩きながら、低い声でつぶやいた。


「景色でも眺めておくのだな。後でそんな余裕はなくなる」


迫り来る危機への直感が、マルクスの心を苛んでいた。地獄での壮絶な試練を経て、彼の肉体は危険の兆候に過敏なほど反応するようになっていたのだ。


振り返った魔王は、マルクスの瞳に宿る不安に気づき、薄く微笑んだ。


「未知なるものへの恐れか?」


その足取りはどこまでも優雅で、周囲の脅威などまるで意に介していないかのようだった。しかし、視線を前方へ戻した瞬間、その手はごく自然に柄へとかかり、声からは一切の感情が消え失せた。


「我が側に我がおるのだ……憂うことなど何もない」


マルクスの身体を不意に身震いが襲った。隣に立つこの古の存在の威圧感によって、彼はどうにか金縛りを免れているに過ぎない。だが、その瞳に恐れの色はなかった。


背後に立つ男の戦意を感じ取り、魔王は満足そうに鼻を鳴らした。


「お前も武者震いしているのか?」


マルクスは無言で短く頷いた。


「クハハ」


魔王の口から重厚な笑い声が漏れた。


「我もだ。久々に固くなった骨をほぐすとしよう」


* * *


その言葉を待ち構えていたかのように、世界が変貌を遂げた。


空を覆う厚い雲は迫ってこなかったものの、頭上から突如として雷鳴が轟いた。その地響きのような音は、一打ごとに威力を増していく。


魔王はピタリと足を止めた。右手で柄を強く握り締め、左手を後ろへ伸ばしてマルクスを庇うように遮る。


「我が背後に控えよ。絶対に離れるな」


直後、一筋の閃光が青空を切り裂いた。漆黒の暗雲が猛スピードで広がり、あっという間に空全体を呑み込んでいく。


「来おったか!」


魔王の胸から凄まじい大爆笑が湧き上がった。その声には一つの人格だけでなく、彼の中に潜む無数の悪魔たちの咆哮が混ざり合っていた。


大気が鉛のように重く沈み込み、ねっとりと肌にまとわりつく。マルクスは息苦しさに喘ぎながらも、必死に周囲を警戒した。


雷鳴が止むと、空から眩い太陽の光が射し込み、遥か高みに一筋の光点が現れた。


魔王は見上げる。その神々しい光も、彼の魔眼を眩ませることはできない。彼は遥か上空の刺客たちを克明に捉えていた。マルクスがその姿を視認できたのは、彼らがかなり低空まで降りてきてからだった。


眼前に現れたのは、灼熱の神馬に牽かれた黄金の戦車。そこに君臨していたのは、常人を遥かに凌ぐ巨躯を誇るこの地の「神」であった。その背後には、太陽を模した炎の輪が宙に浮いている。


身に纏うのは純白の法衣。厳格な顔立ちには頑丈な顎と高い頬骨、そして原始の炎を宿した瞳が存在感を放っていた。鷲鼻が威厳を添え、肩まで伸びた銀糸の髪には繊細な額飾りが与えられていた。


その周囲には、光り輝く鎧を纏った十数人の若き神兵や神女たちが浮遊している。いずれも神より一回り小さい程度の大躯で、その手には神兵器が握られていた。


神々の圧倒的な神威によって、周囲の黄金の草原は押し潰され、地面ごと凹んでいた。


しかし、魔王が立つ僅かな一画だけは、何事もなかったかのように平然としていた。魔王はマルクスを背中に隠しながら、見上げる神々を冷ややかに見つめている。


マルクスは魔王の肩越しに必死で覗き込もうとしたが、光の眩しさに目を細めた。彼らの巨体と、空を飛ぶという現実に戦慄を禁じ得ない。


(なんという怪物どもだ……)


だが、観察を続けようとするマルクスを遮るように、魔王の背中が急速に巨大化し始めた。あまりの圧迫感にマルクスが半歩横へズレようとした瞬間、魔王の怒号が彼を縫い止めた。


「動くな!」


地鳴りのような吐息とともに、魔王の背中から九対の幻影の腕が噴出し、その肩の周りには九つの頭部が浮かび上がった。魔王の巨躯は膨れ上がり、ついには戦車に乗る神と肩を並べるほどの巨神へと変貌を遂げた。


マルクスは、目の前の背中をまるで巨大な山脈かのように見上げていた。


「いつまで見下ろしている気だ」


山崩れのごとき低音の咆哮が響き渡り、魔王の嘲笑が爆発した。


「なぜ地に降りぬ? ならば、我が手を貸してやろう!」


魔王が鞘に収まったままの剣を軽く持ち上げた――次の瞬間、神々の群れの上に目に見えぬ巨大な鉄槌が振り下ろされた。


「ぐはあっ!?」


神兵たちは絶叫とともに地面へと叩きつけられた。


神馬たちは苦痛に喘ぎながら叫び声を上げる。神は必死の思いで戦車から転がり落ち、繋ぎ縄を切り落とした。解き放たれた神馬たちは命からがら逃げ出していく。


立っていられたのは神ただ一人。配下の神兵たちは全員が膝をつかされ、中には泡を吹いて気絶するものまでいた。


「やめろ……悪魔め……!」


神は屈辱と恐怖に震えながら声を絞り出した。


だが、魔王はその反応を心底楽しむように低く笑うと、氷のように冷たい視線を神の瞳に突き刺した。


「貴様らが何を企んでここへ来たかなど、全てお見通しだ。ならば……」


魔王はゆっくりと手を伸ばし、剣を僅か一寸だけ鞘から抜いた。


――キィン。


露出した刃から放たれたのは、死を象徴する白銀の光。


「ぎゃあああああっ!」


神兵はおろか、神ですらその光に焼かれ、身をよじって絶叫した。


「……なぜ我が手を止めねばならん?」


人の情を捨て去った魔王の絶望的な貌に、神は本能的な恐怖を覚えた。その圧倒的な格の違いに折れ、誇り高き神は視線を逸らし、地面に両膝をついた。


――カチリ。


魔王が剣を鞘に戻すと、凄惨な光は一瞬で消え去った。


魔王は冷徹な眼差しで、地に伏す虫ケラどもを見下ろした。彼らにとって神々など、足元を適当に棲み処とする羽虫に過ぎない。


「まあよい……」


魔王は吐き捨てるように言い放った。


「立て。疾く立て!」


圧迫感が消え去り、神々は息を吹き返して立ち上がった。


怯えた神兵たちは主の顔を仰ぎ見る。神は再び魔王と視線を交わしたが、もはや言葉を発することすらできなかった。


「来たりし目的を果たしてみよ」


魔王は素手で構えをとった。剣を抜く気すらハナからない。


「準備運動の相手くらいにはなる」


逃げ場のない絶望を悟った神々は、死を覚悟して武器を構えた。


その瞬間、開戦の合図のごとく、再び雷鳴が轟いた。

物語はまだ続きます。

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