第17章:アイリスの烙印
訓練場の中央に、ひとりの男が座していた。
マルクスは浅く、途切れ途切れの眠りの中にいた。
膝に肘をつき、重く脈打つ頭を掌で支えている。
皮膚に刻まれた裂傷、生々しい肉の裂け目、生白い古傷は、古びる時間すら与えられていなかった。
その下の肉体は、内側から込み上げる不快な痒みと共に絶え間なく結合し続けている。
周囲の空気の僅かな揺らぎすら、皮膚の裏側で即座の緊張として伝わっていた。
石壁の濃い影の中に、魔王が立っていた。微動だにしない。
その佇まいには賞賛も温もりもなく——ただ、完成した刀身の出来映えを検分する刀匠の、冷ややかな満足感だけが存在していた。
(一日か? 一週間か? それとも数ヶ月……あるいは数年か?)
灼熱するマルクスの頭の中で、穀物のない石臼が回るように、思考が重く鈍く巡っていた。
だが、それらの問いに意味はなかった。
この場所において、時間という概念そのものが黒い石畳に押し潰されて死んでいた。
ここは魔王の絶対なる領土——秒の一瞬すら長さも意味も持たない、地獄であった。
足音もなく寄り添うと、魔王はその重い手をマルクスの肩に置いた。
「ここで為すべきことは終わった。行くぞ」
マルクスは砕けた鼻から息を吸い込んだ。肺が重く鳴る。
彼はゆっくりと目を開け、身体を一つ一つのパーツから組み上げるようにして立ち上がり、肩をすくめた。
その時初めて、果てしない戦闘の連鎖が彼の肉体をいかに変貌させたかが露わになった。
彼は酷くやつれ、骨と皮ばかりに痩せこけていた。
肋骨が乾いた弓のように皮膚を押し上げ、頬骨は鋭く削ぎ落とされていた。
喰らうべき糧がない時、無限の再生能力は彼自身の肉体を内側から貪り尽くしていたのだ。
魔王はその衰弱した姿を見おろし、静かに首を振った。
「膳を出させなかったのか? 贅沢品はないが、喰い物に困る場所ではないはずだがな」
強張った木のように硬い足取りでフラつきながら、マルクスは裂けた唇を歪めてニヤリと笑った。
そして、自分を折る者のいなくなった死の訓練場を見渡すように、両腕を大きく広げた。
「自分を……試したかっただけだ」
膝が脈絡もなく崩れ落ちた。
脚が裏切り、マルクスは爪を己の太腿に深々と突き立てることで、どうにか石畳への滑落を免れた。
筋が悲鳴を上げ、鳴り響く。だが、彼は踏みとどまった。
「それだけの……価値はあった……」
荒い息を整えながら、彼は絞り出した。
「さて……」
両手を膝についたまま屈み込み、彼は下から魔王を見上げた。
落ち窪んだ眼の奥から魔王を見つめるその瞳には、人間の領域を完全に踏み越えたもの——重く、焼き尽くされ、己の新たな本質を受け入れたモノが宿っていた。
「何か喰わせてくれ」
* * *
二人は重い足取りで玉座の間へと向かった。
一歩踏み出すごとに、削ぎ落とされたマルクスの筋肉に鈍い痛みが走ったが、彼は背筋を伸ばし続けた。
重厚な鉄の扉が軋んだ音を立てて開くと、玉座の間の圧倒的な広がりが眼前に現れた。
空間の中央には、一枚の巨大な黒真珠石から削り出されたかのような、黒大理石の卓が鎮座していた。
卓の上に贅沢なご馳走が溢れているわけではない。
その上座の左右に、ごくシンプルな料理が数皿置かれているだけだった。
魔王は己の玉座から遠く離れた端の席を指さした。
「あるものでな」
それぞれが席に着いた。
魔王は深く腰掛け、素朴な料理を見つめると、静かな口調のまま、口元に薄い笑みを浮かべて付け加えた。
「人間界からの供物は、今や滅多に届かぬ。私を祀る神殿は未だ残っておろうが、人の心から信仰の火は消えかけているのだ」
卓の上にはいくつかの質素な皿が並んでいた。
一方の皿には湯気を立てるスパイシーなカレーとナンが盛られ、もう一方には焼き上げられた鳥肉の塊が横たわっていた。
マルクスは短く頷くだけにとどめた。
言葉を発する気力すら残っておらず、舌は木切れのように乾き切っていた。
彼は迷うことなく喰らいついた。
傍らから見れば、料理が彼の手に触れた瞬間に消え去っていくかのようだった。
野獣のような素早い動き——砕け散る鳥の骨の音、カレーの効いた米を掻き込む匙の動き、ソースを綺麗に拭い取るナン。
彼は渇望のままに、空っぽの腹の中へ糧を叩き込んでいった。
そして、変貌は即座に始まった。
胸の奥の重い喘ぎが消え、呼吸は深く静かなものへと変わった。
灰色の皮膚は、密度の高い生気へと塗り替えられていく。
残されていた傷口の生々しい縁が目の前で塞がり、古びた瘢痕すらも跡形もなく滑らかに消え去っていった。
しかし、その身体は依然として細身のままであった。
その様子を眺めていた魔王は、己の分の食事を終えると、背もたれに寄りかかって髭を撫でながら、重々しく口を開いた。
「やはり、お前宛てではない供物では、完全な効力は得られぬな」
魔王は一呼吸置くと、拒絶を許さぬ声で言った。
「急げ。出立の時だ」
最後のひとかけらを口に放り込むと、マルクスは胸の前で手を合わせ、静かに目を閉じた。
「ごちそうさまでした」
彼は低く呟いた。
「そして……今も大いなる力を信じ続ける者たちに感謝を」
その言葉に、魔王はかすかな微笑を返しただけだった。
マルクスが空になった皿を丁寧に重ねて片付けている間に、魔王は立ち上がった。
一瞬の動作で、彼の着ていた儀礼の衣はシンプルな服装へと変わっていた。
逞しい肩を露わにした黒いノースリーブの衣に、同じく深い黒のゆったりとした袴状のズボン。
腰には金の帯が締められ、足元にはつま先の跳ね上がった金のサンダル、そして両腕には二つの金の腕輪が輝いていた。
彼は刀掛けへ歩み寄ると、一振りの長刀を取り、腰に佩いた。
その刀身は異常なほど長く、鞘の先端は黒大理石の床をかすめるほどであった。
振り返った魔王の視線が止まった。
マルクスの身体の周囲で空間が揺らぎ、過酷な戦いで削ぎ落とされた肉が、圧倒的な速度で再構築されていく。
だが復元されたのは、脂を削ぎ落とした純粋な筋繊維のみ。
巨躯へと肥大化するのではなく、首から背にかけてが著しく逞しくなり、腕の筋肉は岩石のように密度を増していた。
魔王は彼を頭から足元まで見やり、短く吐き捨てた。
「着替えろ」
マルクスは言い返そうとしたが、視線を下に落とした。
腰に巻きついているのは、血で固まった布の切れ端に過ぎなかった。
魔王の言う通り、反論の余地がないことを悟った彼は口をつぐんだ。
魔王が指を鳴らすと、マルクスの脇の椅子の上に衣類が現れた。
ボロ切れを脱ぎ捨て、マルクスは着替え始めた。
魔王の着ているものによく似た、灰色のノースリーブの衣を身にまとう。
魔王は満足そうに頷いた。
「これで、この場所の殉教者のようには見えん。他者の前に出しても恥ずかしくはないな」
服の帯を締めながら、マルクスの頭の中に、かつて洞窟で抱いた疑問が再び浮かび上がった。
戦闘と生存の狂気の中で、棚上げにされ続けていたあの問いだ。
マルクスが顔を上げた。
玉座の間がその視線の重みに揺れたかのようだった。
この瞬間、彼にとって魔王との圧倒的な実力差などどうでもよかった。
静かな瞳の奥で、澄み切った怒りの火花が弾けた。
彼が口を開こうとした瞬間、魔王がそれを制した。
「落ち着け」
重い溜め息をつき、魔王は続けた。
「お前が案じている者たちは、全員無事だ」
魔王の落ち着いた低音の声が響いたが、マルクスの耳にはほとんど届いていなかった。
「無事」という言葉は何の救いにもならず、洞窟以来彼の胸の奥で燻り続けていたものを解き放つトリガーに過ぎなかった。
彼の皮膚の上に、細い青い炎の舌が走り始めた。
捜査の間に伸び、この地で立派な髭へと変わっていた顎髭が燻り始めた。
頬や顎から、バチバチと乾いた音を立てて青い火花が四方に飛び散る。
飢えと戦闘によって奥底へ押し込められていた怒りが、狂暴な勢いで再燃した。
マルクスは荒く、重い息をついた。
暗い皮膚の表面に、発光する青い亀裂が浮かび上がる。
魔王は恐怖の色も見せず、ただ呆れたように彼を見つめた。
「丸太に話しかけているようだな……」
魔王はパンと、短く乾いた音を立てて両手を打ち合わせた。
次の瞬間、炎は消え去り、皮膚の亀裂は塞がり、胸を焼き焦がすような怒りは跡形もなく霧散した。
後には、耳鳴りのような死の静寂だけが残された。
「よく聞け」
魔王は冷徹な声で言い放った。
彼は一歩を踏み出し、マルクスの目の前まで歩み寄ると、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
マルクスは己の中から瞬時に力が引き抜かれた感覚に、呆然と立ち尽くしていた。
「あやつらは無事だ」
魔王は一語一語を噛み締めるように繰り返した。
「無辜の者が害されることはなかった」
マルクスはゆっくりと首を垂れ、乾いた空気を受け入れた。
魔王はその重い手を彼の肩の上に置いた。
「あらゆることには時がある。時が来れば、お前自身で全てを理解するはずだ」
強制的な鎮静の後に訪れた魂の冷たさを感じながら、マルクスは着替えを終えた。
魔王の履物にどこか似た、金糸の刺繍が施されたサンダルに足を通す。
男が落ち着いたのを確認すると、魔王は手を一振りし、二人は急速に玉座の間を後にした。
* * *
徒歩での道のりは数日に及んだ。
この世界において、遠近の感覚そのものが曖昧であった。
彼らはかなりの速度で移動しており、魔王はマルクスが回復し、以前を超越した己の肉体に馴染み始めているのを静かに観察していた。
食事をとるために、途中で何度か足を止める必要があった。
その度に、二人の前の空間に玉座の間と同じ材質の小さな黒大理石の卓が現れた。
卓の上には、ある時は果物が入った温かいピラフの大皿が、またある時は小さな鉢に盛られた焼きたてのパンが現れた。
食事をとるたびに、マルクスの肉体は供物に反応を示した。
体躯がこれ以上大きくなることはなく、ただ組織の密度だけが増していった。
マルクスの肉体の変化を見て、魔王はぽつりと一言だけ呟いた。
「地獄は保養地ではない」
短い沈黙の後、彼は付け加えた。
「ここに存在するということ自体が、死との永遠の鬼ごっこなのだ」
彼らが歩む大地は、水のように流れる、濃厚で深い霧に覆われていた。
街道と、その両端に見える城および門の他には、何も見えなかった。
巨大な門の直前で、魔王は足を止めた。
彼が再び卓を呼び出すと、そこには農夫が育てた野菜の入った深い鉢と、折りたたまれた一通の置き手紙が置かれていた。
「これはお前への供物だ、小僧」
魔王は言った。
傍らに現れた小さな椅子に魔王が腰掛ける中、マルクスはまず手紙を開いて読み始めた。
『見知らぬ旅人様へ。私は死の床について初めて、あなたの行いを知りました。
息を引き取る間際、私の家の門前に、黒猫を肩に乗せた大柄な男が現れました。そして、あなたが私の仇をとってくれたと告げてくれたのです。実の親どもは当然の報いを受けました。
私が彼らと共にいた頃、どれほどの苦痛を与えられたことか……彼らから引き離されたことこそが、私にとっての救済でした。
どうか、あの男に対して悪感情を抱かないでください。彼は、親と呼ぶことすら憚られる怪物どもから私を救い出してくれたのです。門をくぐらせてくれましたが……勘違いしないでください、私が堕獄したわけではありません。
彼は私を心から優しい人々の元へ連れて行ってくれ、私の魂を救ってくれたのです。血の繋がりこそありませんが、私は彼らを胸を張って「父さん」「母さん」と呼ぶことができます。
感謝いたします。あなたのおかげで私の魂に安らぎが訪れました。これで私も、心安らかにこの世を去ることができます。
この手紙は、私の言葉を孫娘に書き留めさせたものです。
敬具
ジェンキンス家より』
読み終えたマルクスは、野菜を魔王へ分け合おうとしたが、魔王は静かに手を振って辞退した。
食事を終えると、マルクスは両手を合わせ、低く呟いた。
「安らかに眠れ、友よ」
長年、己の胸に重くのしかかっていた男へ、最大の敬意を込めて深々と頭を下げた。
立ち上がり、温かい皮膚の上ですぐに乾いて消えた一筋の涙を拭うと、彼は魔王へと向き直った。
「俺は……全てを理解した……」
魔王は手を挙げ、マルクスの言葉を遮った。
「不用だ」
魔王が手を振ると、卓も椅子も即座に霧の中に消え去った。
「行くぞ」
街道の終点に達すると、巨大な門が重々しい音を立てて開いた。
閾に立ち、魔王は問いかけた。
「どの神の世界へ向かう?」
男はしばし沈思黙考し、記憶の底に沈んでいた古い断片を呼び覚ました。
「最高神の名は覚えていない。だが、その象徴が『アイリスの花』であることだけは覚えている」
初めて、魔王の顔に大きな笑みが浮かんだ。
彼は腹の底から響くような、地響きのような高笑いを響かせた。
「あの男の元へか? 面白い選択をしたものだ」
開かれた門の隙間から眩い光が差し込み、二人はこの世界を後にした。
ここまでが一つの区切りです。お付き合いいただき、ありがとうございました。
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