第十六章 痛むかぎり
マルクスは、とうに時間を数えなくなっていた。
魔王の世界では、一日は太陽ではなく痛みで区切られる。灰色の光が城砦の上に張りつき、石に打ちつけられたまま置き去りにされたもののように動かない。移ろいも、老いも、終わりの気配もない。
あるのは、鈍い継続だけ。
下層から響く低い唸りは壁を這い、胸の奥に沈み、やがて呼吸の一部になっていく。
はじめのうち、マルクスは目印にすがっていた。
新しい試合。
向かいに立つ別の顔。
黒い石板への落下。
重い目覚め。
肉が自分を組み直していく、あの吐き気を伴う感覚。
やがて、その目印さえ薄れていった。
ここで時間は流れない。
残るのは、摩耗だけ。
最初に削られるのは身体だった。
その秩序を告げる最初の戦いは、マルクスが怒るより早く終わる。
長い腕を持つ痩せた魔族が、訓練場へほとんど気だるげに出てきた。人間の戦いで頼りになる手がかりは、どこにもない。構えは見えない。怒気も立たない。肩は不自然なほど静かだった。
ただ関節だけが真実を語っている。
緩く、間違っていて、別の設計図で組まれたもの。
魔族が一歩踏み出す。
距離が消える。
マルクスは腕を上げ、身体をずらし、肩の動きを拾う。人間同士なら、それだけで攻撃の線は読める。だが、その肩は餌だった。肘は動き出したあとで軌道を変え、手首が下からしなり、拳の骨が肋骨の下へ食い込む。
息が胸から抜けた。
次は腿。短く、ほとんど雑に見える一撃。狙いは、体重が移るその一瞬。膝が落ちる。踏みとどまろうとしたときには、もう手首を取られている。掌を半指ぶん捻られ、手首から肩まで火が走った。
片膝が石に触れる。
首は残される。
その程度の慈悲。
魔族は退き、静かに彼を見下ろした。敵を見る目ではない。長く研がれる道具を見る目。
「もう一度だ」
壁際から巨人の声。
マルクスは立ち上がる。
何度か繰り返すうちに、まず壊されるのは、目を信じる癖だった。
美しさは邪魔になる。計算より先に出る力も邪魔。怒りは、ほとんどいつも彼を相手の手へ渡す。
手首に目を止めれば膝をもらう。肩を信じれば肋を開ける。まっすぐ退けば背中を壁に差し出す。強く返そうとすれば、そのぶん重く、遅い。
ここでは身体そのものが仮の形だった。
魔族たちは、自分たちの領域では容易に壊れ、すぐに戻る。黒い血が垂れているうちに鼻はまっすぐになり、砕けた指は湿った音を立てて組み上がる。捻じ曲げられた腕も、数息ののち、また掴むために上がった。
落下。
骨折。
失神。
それらすべてが、訓練の輪の中。
マルクスにも再生はある。
だが、質が違う。
遅い。
汚い。
つながったあとも消えず、別の深さに残る疼き。
痣は重い染みになって広がる。腫れた指はなかなか動きを取り戻さず、拳は半分までしか閉じないことが多い。鼻は二度折られた。三度目には、恐怖より先に骨の音を聞いた。
一度、肘をあまりにきれいに外された。
最初に来たのは痛みではない。
白く、冷たく、間違った空白。
身体が苦しみ方を思い出すのは、そのあと。
声は出ない。
そのための息すら残らない。
手当てはなかった。
マルクスは倒れた場所に置かれる。再生はすぐには始まらない。まず身体が静まり、戻る価値があるかどうかを確かめるような沈黙。それから皮膚の下で、遅い動きが目を覚ます。肉が縮み、裂け目の端が互いに寄り、関節が元の位置を探す。
肋骨は熱を帯び、内側で軋みながら寄り合う。
戻るたび、別の波が来る。鈍く、深く、ほとんど悪意を持った熱。死は一歩退く。だが、去りはしない。立ち上がるたび、命をもう一度だけ買い戻しているような感覚。
最初は息だけ。
少しして、座る。
さらにあとで、足が体重を受け入れる。
その頃には、魔族たちはもう元通り。
差はすぐに血へ染み込む。
彼らは試すために壊れる。
マルクスは、失敗のたびに本当に支払う。
洞窟のことが戻ってくるのは、何度目かの落下のあとだった。
あそこでは、すべてが都合よすぎた。
恐怖。
跡。
血。
先へ進むための扉。
彼に見せられた脅威は、進ませるのに足りる量だけ。狩る者になったつもりで、裁く者になったつもりで、罰を下す手になったつもりで歩く。
そして道は、彼のために用意された場所へ自然につながっていた。
洞窟での彼は、自分で獲物を追っているつもりの獣。
血の匂いに沿って歩いただけ。
その考えは、誰かを殴りたい衝動を呼ぶ。
いちばん殴りたいのは、自分。
次に出てきたのは、低い獣だった。胸が広く、脚が短い。人間の感覚では鈍重に見える。その誤りは、片目を失いかけるほど高くつく。
獣はまっすぐ来ない。沈み込み、線を折り、横から撃ち出し、扱いにくい角度へ入る。最初の一撃は腿の外側。次は顔。マルクスは頭を引いたが、爪が眉の上を裂く。血が目に流れ込んだ。
彼は退く。
獣が追う。
今度は顔を空ける。入りやすいと思わせ、体重が移る瞬間を待つ。足が横から足首を打つ。短く、振りかぶりのない一撃。関節が鳴り、支えが一瞬消える。
それで足りる。
マルクスは肩から腕の下へ入り、肘で顎を跳ね上げ、顎の付け根へ指を食い込ませる。頭を捻る。殺すためではない。身体の中から灯りを落とすため。
獣が崩れる。
三息後、首が戻り、足首が濡れた音を立てて組み直される。獣は起き上がり始めていた。
「遅い」
魔王の声。
彼は訓練場の端、粗い岩の突起に腰を下ろしていた。玉座も武器も傍らにはない。それで危険が減るわけでもない。暗い衣は重く垂れ、鈍い金は光を拾わない。目だけが動かない。
マルクスは眉から流れる血を拭う。
「止めた」
「目を差し出してからな」
「残ってる」
「今日はな」
マルクスは血を吐く。
「慰めるのが上手いな」
「まだ慰めていない」
獣はもう立っている。
血で視界の半分が曇る。
魔王がわずかに顎を動かした。
「もう一度」
「次は入り方を変える」
「ようやく見たか」
二巡目、獣は攻撃を変える。爪は肘になり、跳躍は足払いへ。マルクスはかろうじて距離を切るが、腿の古い火がまた燃えた。
彼らは学ぶのが早い。
一度通じた技は、ほとんどその場で死ぬ。魔族たちは角度を変え、拍子をずらし、歩幅を変える。敗北を身体で覚える。マルクスは腫れと裂け目と乱れた呼吸を通して追いつくしかない。
その不公平さは腹立たしい。
そして、どこかを熱くする。
はじめは、その感覚を恥じた。やがてやめる。まだ燃えるものを選んで捨てられるほど、彼の中に生きたものは残っていない。
マルクスは暴力を愛してはいなかった。相手の苦しみに喜びを見出してもいない。骨の音、指につく血のぬくみ、倒れる直前の震え。どれもまだ嫌悪を伴う。
それでも、競い合う感覚だけは彼を掴む。
先に届くこと。
早く終わらせること。
欲望ではなく、遅れればまた弱いものが台の上に載せられるという、それだけの理由で壊すこと。
その考えは都合がよかった。
都合がよすぎるほどに。
彼のどこかは最初からそれを知っている。だが、嘘は強く噛みしめられる。肋が燃えているあいだも、指が閉じないあいだも、その嘘は使える。子どもたちの顔、洞窟、雪の上の血、他人の命で猶予を買った親たちが胸の内に浮かぶたび、そこへ身を隠せる。
うまくいった試合のあと、あの顔たちは少し遅れて来る。
ときには、目を閉じた暗がりの中まで来ない。
マルクスは、その遅れにしがみつく。
訓練場はいくつかあった。
血が細い溝へすぐに吸われていく、滑らかな黒い床の広い場。
二枚の壁に挟まれた狭い場。肩を広げられず、肘、膝、頭突き、指一本ぶんの空間の取り合いだけが残る場所。
三つ目は城砦の下層の上に張り出している。床の裂け目から、罪人たちが見える。鎖。動く石板。休息というものを忘れた顔。
マルクスはその場を最も嫌う。
そして、最もよく選ぶ。
下からは戦いの中へ別の音が混じる。鉄の擦れる音。潰れた息。囁き。神ではなく、願う習慣そのものに向けられた、遅すぎる祈り。
ある試合の途中、罪人たちが顔を上げる。
早すぎた。
飢えすぎていた。
剃られた頭の女が、鉄輪の束の下で止まる。枯れた腕の老人が鎖を引く手を止める。下の列から漏れた囁きは唸りに呑まれるが、唇だけは読める。
来た。
向かいの魔族は、その一瞬を逃さない。拳が鎖骨の下に入り、次の一撃が腹を潰す。マルクスは折れかけながら首への掴みを通し、内側へ腕を差し込む。相手の顎を胸へ押しつけ、横へ強く踏む。背骨の線が崩れる。膝が腿へ入る。身体を回し、相手を石板へ落とし、肘で後頭部を押さえ込む。
魔族の身体から、数息だけ力が抜ける。
マルクスは立ち上がる。
下はまだ見ている。
彼はそちらを向く。
言葉は要らない。
ここに救いはない。
彼からも。
今日も。
すでにこの罰の仕組みに組み込まれた者たちにも。
その程度のことは、目だけで足りる。
下の希望は、揃っては消えない。ある顔では憎しみに変わり、別の顔では空洞になり、また別の顔では理解しそこねたまま固まる。老人は再び頭を下げ、鎖を引く。鉄輪の女も歩き出した。
先に目を逸らしたのは、マルクス。
打撃より難しい。
その日から、罪人たちは彼を違う目で見るようになる。恐れる者。憎む者。それでも目を上げる者。
希望は、身体より遅れて死ぬらしい。
ある日、魔王が口を開く。
「下がまた見ていた」
マルクスは狭い訓練場で彼と向かい合っている。額を流れる汗は、裂けた唇の血と混じる。
「それで?」
「お前がずれた」
「打たれたからだ」
「打撃は後だ」
マルクスは腕を上げる。
「あいつらは見てるだけだ」
「違う。引いている」
「鎖でか」
「希望でだ。あれのほうが強い」
魔王は剣を持たずに出てくる。武器があれば、危険は形として追える。今は身体そのものが危険だった。
「俺が出せると思ってる」
「そう思わせたくないのか」
「勝手に思ってるだけだ」
「なら、なぜ腹を立てる」
マルクスは答えない。
魔王が一歩踏み出す。
動き出しは見えない。
距離が一気に消える。
掌が胸に入る。外から見れば軽い接触。だが内側で、身体のつながりが切れる。踵が床を離れ、背中が壁を打つ。呼吸が壊れる。マルクスは右へ抜けようとするが、魔王はすでにそこにいる。速いのではない。正確だった。彼が出口を探す前に、そこへ立っている。
マルクスは肘を打つ。
指一本ぶん、外れる。
それで足りる。
手首を捕らえられる。関節は折られず、限界に置かれる。細い圧が走り、世界がその一点まで狭まる。
「ここだ」
魔王の短い声。
マルクスは頭突きを入れる。
魔王はずれる。
手首が燃え、指から力が抜ける。マルクスの膝が上がるが、腿の横を短く押される。脚が他人のものになり、身体が落ち始める。
彼は落下を許す。
最後の瞬間、捕らえられた腕を胴へ引き寄せ、てこの長さを殺す。肩を返し、踵で魔王の足を打つ。折るためではない。支えを盗むため。
魔王が半歩退く。
半歩だけ。
満足する暇はない。
開いた掌が耳を打つ。世界が弾けて横へ流れる。次は肝臓。脚が折れる。三つ目の接触は喉で止まる。
魔王の指が、マルクスの首に置かれていた。
本当の戦いなら、そこで終わり。
「ましになった」
魔王が言う。
マルクスは身体を折り、息を探す。
「半歩だぞ」
「生き物には生意気な距離だ」
「褒美に書いとけ」
「今、喉にある。握らなかっただけだ」
手が離れる。
マルクスは片膝をつく。
身体は横たわりたがる。頭もそれに同意している。だが、もっと頑固で暗い何かが彼を立たせる。
「もう一度」
魔王は褒めるでもなく見下ろした。
「終わりだ」
「終わりは俺が言う」
「もう言った。身体でな」
「身体は嘘をつく」
「生きた身体はあまり嘘をつかない。嘘をつくのは、それを立たせるほうだ」
マルクスは唇の血を拭う。
「なら、まだ嘘はつける」
魔王の口元に、慣れた愚かさを認めるような影がわずかに動く。
「つける。長くはない」
次の戦いは短かった。
マルクスは石板の上で目を覚ます。
同じ光が上にある。脇腹が焼け、頭が鳴り、右手の指は別人のもののように鈍い。身を起こそうとすると、肋が鋭く返し、肘の奥で熱い空洞が脈打つ。拳の皮膚は、新しい血の膜で引きつっている。
誰も近づかない。
それもまた、教えの一部。
長く横たわる。呼吸が整う。皮膚の下で、馴染みのある不快な動きが始まる。身体は一つの細胞、一つの繊維ずつ戻っていく。熱と震えと吐き気を伴いながら、鈍い針で肉を急いで縫われているようだった。
マルクスは目を閉じる。
耐える。
指が曲がる。
膝が重さを受ける。
彼は立つ。
その先の時間は、また形を失う。
相手は変わっていく。
骨をほとんど持たないものもいた。それは歩かずに訓練場へ現れる。影から流れ出し、身体らしき形にまとまり、頭とも言えないものを傾ける。マルクスは先に打つ。拳は人間なら鎖骨がある場所へ入り、柔らかな肉の中へ沈む。返答は下から。打撃ではなく、絡みつき。冷たい塊が手首を包み、横へ引く。
彼はそれを折ろうとした。
指は虚ろへ沈む。
相手は力に逆らわない。譲り、流れ、受けた圧を別の角度から返す。膝を入れても、構造ではなく粘ついた深みを打つだけ。もう片方の手で肩らしき場所を掴む。肩はずれ、伸び、手の中から流れ出る。
次に、胸を締められる。
強くはない。
息を短くするには足りる。
マルクスは退くが、相手は流れて追う。低い獣のように距離を壊すのではない。長腕の魔族のように関節で騙すのでもない。周囲の空間を奪い、どの一歩も粘りつかせ、狭くしていく。
真っすぐな打撃は的を見つけられない。
折る場所もない。
掴んでも残らない。
柔らかな塊が顔を打つ。濡れた砂袋のような重い衝撃。視界が揺れる。次の波が膝裏へ入り、脚が滑る。肩が壁に当たった。
壁。
この相手にとっての骨は、それだった。
マルクスは関節を探すのをやめる。
後ろではなく、内側へ踏む。柔らかな質量に左腕を巻かせ、そのまま全身で石板と壁の角へ押し込む。右へ流れようとする。膝で塞ぐ。下へ伸びる。足で端を踏みつける。上へ逃げる。肩と前腕で光へ続く出口を閉じる。
相手はまだ動ける。
だが、選べる方向はもうない。
骨ではなく、空間を押さえる。
数息ののち、質量が震え、形を失い、重い襞となって石板に落ちる。
マルクスは離れ、荒く息をする。左腕は肩から指先まで燃えている。小さな裂け目はすでに閉じ始めているが、熱は皮膚のさらに下。
魔王は黙って見ていた。
マルクスは手の甲で口を拭う。
「これも勝ちか」
「許可が要るのか」
マルクスは低く息を吐く。
「壊してない」
「ようやくか」
角で、流動する身体がまた形を集めている。
「勝ちは音を立てるとは限らない」
魔王の声は平らだった。
「手の自慢を始める前に覚えておけ」
マルクスはその塊を見る。
身体から選択を奪うだけで足りることもある。
ほかの相手は、ほかの法を持っていた。四本腕で、首だけが妙に細いもの。首は罠で、遅れるのは下の二本の腕。見るより早く動きを聞くもの。そいつには呼吸を変え、拍子をずらし、視線ではなく沈黙で騙す必要がある。
マルクスは何度も負ける。
汚く。
見苦しく。
顔を石へ打ちつけられ、指を捻られ、息を閉じられる。鼻も、唇も、肋も、次は楽になるという期待も折られる。先に相手の機能を落とせたのは、まれ。逆に相手を一度だけ誤らせることもある。理由を掴む前に倒される試合もあった。
それでも、身体は覚える。
腫れを通して。
恐怖を通して。
訓練場へ出る前の吐き気を通して。
倒れたままでいたい欲求と、その欲求への憎しみを通して。
力は、正しい瞬間を外せば、ただ骨を差し出すだけ。
マルクスは初撃に賭けるのをやめる。
空いた場所を信じるのもやめる。
手ではなく、相手が体重を運ぼうとする先を見るようになる。
強く打つより早く打つ。
痛い場所ではなく、身体が働かなくなる場所を選ぶ。
脛。
足首。
膝。
指。
肝臓。
喉。
頭蓋の付け根。
呼吸。
視界。
支え。
あるとき、長腕の魔族を三つの動きで倒す。
踏み出しの瞬間、足の端を踏む。
掌で肘を内側へ落とし、腕の線を壊す。
肩の裏へ入り、顎を抱え、相手がもう足を置けない方向へ胴を回す。
魔族は落ちた。
首が鳴る。
数息後には、皮膚の下で戻り始めている。
マルクスはその上に立ち、喜びを感じない。
正しく解いたという空の手応えだけ。
昔なら、それに怯えただろう。
今は一つだけ記す。
使える。
魔王は訓練場の端で見ていた。
「少しは入ったな」
マルクスはそちらを見る。
「何が」
「最後に出すものを、最初に出すな」
床の魔族はもう動いている。
「なら、何のためにここまで痛めつける」
「お前が見えているものに逆らうからだ」
「うまくいってないな」
「正直ではある」
マルクスは返そうとする。
言葉はない。
身体は、誇りより早く覚える。
休みのあいだ、彼は下層へ降りる。
罪人のところへ行くつもりはなかった。
そう自分に言う。
足は結局、鎖が床を擦り、他人の息で空気が重くなる場所へ彼を連れていく。
罪人たちは働いている。石を運ぶ者。壁の中へ消える巨大な輪を回す者。石板の前で膝をつき、爪で文字を刻む女。指は赤い。誰もその瞬間には殴られていない。それでも、すべての動きが、すでに振り下ろされた一撃に合わせていた。
マルクスは格子の前で止まる。
あの老人が彼に気づく。試合中に顔を上げた老人だった。顔が小さく動く。希望はもうない。焼け落ちたあとに残った、弱く生きた憎しみだけ。
「できるだろう」
老人が囁く。
マルクスは黙っている。
「見た。お前は、あいつらと戦える」
首の鎖が張る。老人は格子に近づく。
「開けろ。一つでいい。ここだけでいい。出たあとは自分で――」
声が途切れる。
マルクスは錠を見る。
老人の手を見る。
鎖が床へ消えるところを見る。
「誓うな」
老人が止まる。
「何だと」
「ここで誓いは重さを失った」
老人は格子を掴む。
「できるだろう」
「できる」
その一語で、老人の中に埋めたものが起き上がる。
マルクスは、それを見る。
「だが、開けない」
老人は崩れる。鎖が急に重くなったようだった。
「何のために」
その問いは大きくない。怒りでさえない。人間の声。
マルクスは長く答えない。
この老人は有罪なのか。
何をしたのか。
ここにいる誰が鎖に値し、誰が同じ石臼に巻き込まれただけなのか。
一つ開ければ、彼はまた、遅れて来て、見えないまま選び、それを救いと呼ぶ者になる。
きれいな答えはなかった。
「今日は無理だ」
ようやく言う。
老人は彼を見ていた。
それから笑う。
低く。
乾いて。
ほとんど音にならずに。
「なら、なぜ来た」
マルクスは答えない。
老人は額を鉄に押しつける。
「あいつらは、少なくとも自分が何かを知っている」
その言葉は、笑いより長く残る。
マルクスは去る。
次の訓練で、身体は鈍かった。
簡単な入りを見落とす。遅れる。角度が必要な場所へ力を入れる。三度、床に落とされ、二度、息を閉じられる。一度は階段の端へ投げつけられ、背骨が後頭部から腰まで白く燃える。
魔王が試合を止める。
「下層を持ち込んだな」
マルクスはふらつきながら起きる。
「羨ましいのか」
「何をだ」
「まだ聞こえることだ」
「聞いているのではない。背負っている」
マルクスは血を吐く。
「大差あるのか」
「打つには大差だ」
魔王が近づく。
「今日は相手を殴っていない」
マルクスが顔を上げる。
「じゃあ誰を」
「知らないほうが楽か」
拳が締まる。
「今日はよく喋る」
「今日は弱い」
「訓練している」
「違う。壁に任せれば済む仕事を、俺に渡しているだけだ」
マルクスは笑う。
「壁は返事が下手だ」
「そのぶん正直だ」
その言葉は、打撃より深く入る。
「じゃあ、どうしろと」
「見ろ」
「見てる」
「憎みやすいところだけを拾っている」
石を積む音が遠のく。
魔王は下を指す。
「あれは顔ではない。結び目だ。一つ引けば、別のものが締まる」
「処刑人にしては詩人だな」
「処刑人は、自分の立つ場所を知っている」
マルクスは殴りたかった。
本当に。
魔王は姿勢を変えない。
「それが答えだ」
「何の」
「考える前に手が出る」
拳が下がるまで、時間がかかった。
「お前は考えてから手を出すのか」
「俺には命令がある」
「便利だな」
「違う。便利さは、言い訳を選ぶ者に要る」
マルクスは口の端を歪める。唇が裂け、血の味。
「じゃあ俺も命令になれってか」
「お前はずっとそれを望んでいる。言葉だけ替えている」
「力か」
「救い。罰。義務。今日は訓練だ」
マルクスは長く見る。
そして腕を上げる。
「もう一度」
「やらない」
「慣れられるのが怖いか」
「怖い?」
魔王の声に、はじめて何か生きたものが混じる。笑いではない。影。
「いいや、マルクス。今のお前は、壊されれば何かが説明されると思っている。そのために相手は要らない。壁で十分だ」
魔王は背を向け、訓練場を出ていく。
マルクスは一人になる。
戦いより悪い。
敵がいれば、痛みには向きがある。去られれば残るのは、逃げようとしていたものだけだ。沈黙。息。唸り。まだ生きすぎている身体。石へ叩きつけても壊れない記憶。
彼は長く立っていた。
やがて床に座る。
疲れたからではない。
立っている必要が、ただ消えた。
洞窟が戻ってくる。
子どもたち。
血。
顔。
声。
信じていた古い言葉。
守る。
救う。
止める。
間に合う。
どれも清潔すぎた。
そして、遅すぎる。
一つずつ拾ってみる。
どれも血より重くならない。
肩が細かく震える。脇腹が脈打つ。皮膚の下では、吠えたくなるほど遅い作業が続いている。再生は贈り物ではない。猶予だった。新しい裂け目が閉じるたび、記憶だけは前より深く残る。
しばらくして、巨人が隣に座った。
床がかすかに揺れる。
二人は黙っている。
「痛むか」
巨人が聞く。
マルクスは裂けた唇で笑う。
「ここでは、それしか聞けないのか」
「違う」
「なら、なぜ聞く」
巨人は彼の手を見る。
「黙って嘘をつくな」
マルクスは拳を握る。
鈍い熱がすぐに返る。
「ついてない」
「なら?」
「生きてる」
巨人は頷く。
「今はな」
それは、どんな慰めよりもわずかにましに聞こえた。
マルクスは立ち上がる。
ゆっくりと。
重く。
自分で。
下では罪人たちが鎖を引いている。上では灰色の光が変わらずにある。どこか奥で、魔王は次の戦いか、次の問いか、次の過ちを待っている。マルクスが壊した魔族たちも、彼を壊した魔族たちも、もう元通り。
彼だけが違う。
だから一歩ごとに意味がある。
マルクスは訓練場の中央へ出る。
向かいには、新しい相手が立っていた。背が高く、青白く、目のない顔を持ち、細い腕が四本ある。そいつは頭を傾け、マルクスの呼吸を聞いている。灰色の光の奥には、魔王が動かずに立つ。
マルクスは息を吐く。
今度は先に動いた。
短い一歩だった。攻撃ではない。問い。相手に距離を誤ったと思わせるには足りる。
一本目の腕が喉へ来る。マルクスはそれを通し、前腕で手首を逸らして線をずらす。二本目が下から上がる。掴まない。前足を踏み、膝で腿を打ち、二本の腕のあいだの死角へ入る。
三本目が肩をかすめた。
熱が燃える。
彼は通り抜ける。
肘が肋の下へ入る。指が首の付け根の柔らかい場所を見つける。胴を全体で回す。相手の線が失われる。四本目の腕で立て直そうとしたとき、マルクスはもう横にいる。掌が後頭部を打つ。足払いが残った支えを消す。膝が肩に乗り、圧が下へ落ちる。
相手の身体が石板へ打ちつけられた。
三息だけ押さえる。
十分。
彼は離れ、退く。
相手はほとんどすぐに再生を始める。
マルクスは荒く息をしていた。
勝利ではない。
先に壊されずに済んだ、短い区間にすぎない。
影の中から魔王の声。
「ましだ」
マルクスはそちらを見ない。
「足りない」
「当然だ」
相手が立ち上がる。
マルクスは再び構える。
地下の唸りは壁を通って響き続けている。下では罪人たちが動く。遠くで鎖が鳴る。灰色の光は変わらず、誰が強くなろうと、誰が倒れようと、誰が自分を理解したつもりになろうと、何も関係ないという顔。
マルクスは息を整え、腕を上げる。
「もう一度」




