第九話 閾
登りは、すぐに始まった。
マルクスは一瞬の休みも自分に許さなかった。村で見つけた細い道は、黒い松と岩の張り出しのあいだを縫うように上へ伸びていた。まるで山そのものが、人の目からそれを隠そうとしているようだった。足元では雪が軋み、ところどころ氷がのぞき、凍った表皮の下からは粘つく泥が顔を出していた。風は顔を打った。鞭のようではなく、重く、執拗に、ゆっくりと彼を下へ押し返そうとしていた。村へ。光のある場所へ。まだ人間のままで引き返せる場所へ。
数十歩も進まないうちに、マルクスは自分が震えていることに気づいた。
最初は、寒さと失った血のせいだと思った。だが違った。冷たさは外から来ていた。震えは内側から上がってきた。筋肉よりも深く、疲労よりも深い場所で、それは生きていた。体は、彼自身より先に、上で待つものを知っているかのように震えていた。
彼は立ち止まり、手を岩についたまま、しばらく呼吸だけを整えた。空気は胸を裂いた。脇腹の傷は鈍い重さで応えた。肩は引きつった。みぞおちの奥では、粘りつくような感覚がゆっくり広がっていた。上に待っているのは、ただの死ではない。
道は、それでも彼を放さなかった。
岩の上には足跡があった。古いもの、新しいもの。粗い男の靴底。小さな足の崩れた痕。何かを引きずった跡。棘だらけの灌木には、子どもの服の切れ端が引っかかっていた。少し上の平たい石には、雪に覆われず残った褐色の染みがあった。さらに上へ行くと臭いが濃くなった。腐敗、血、濡れた獣毛、糞尿、酸っぱいもの、古いもの、それでいてまだ生きているもの。
登るほどに、はっきりしてきた。
ここは、ただの巣ではない。
とうの昔から、他人の不幸を餌にしてきた場所だ。
洞窟の入口まで来たところで、マルクスは止まった。
岩の裂け目はそれほど広くなかったが、その向こうの闇は最初から完全だった。中から流れ出してくるぬるく、粘るような臭気に、彼は一瞬よろめいた。その臭いの中にはすべてがあった。古い血、濡れた石、腐った泥、脂の腐臭、獣の尿、錆、排泄物。そして、それ以上のもの。もはや臭いですらない。ただ、あまりにも長く罰されずに生き延びた穢れそのものの気配。
マルクスは入らなかった。
引き返したかったからではない。体が止まったのだ。見えない壁にぶつかったように。中で目にするかもしれないものが、あまりにもはっきり分かってしまったからだった。死ではない。死はもう知っている。もっと悪いものだ。子どもたちの残りかす。生きている子ども。半ば生きている子ども。そこへ届く前に、たとえ中で動くものをすべて殺しても、もう間に合わない子どもたち。
彼は動かずに立ち、そのあいだに、つい最近まで人間と呼べたものすべてが皮膚の下で冷えていくのを感じていた。
そのとき、彼の内側の深い場所で、ほとんど無音のまま、ふたつの声がかすかに身じろぎした。
正義。
憤怒。
それらは対話の相手として語りかけてきたわけではなかった。言い争いもしなかった。ただ、短い切り傷のように内側を走った。
何を立ち尽くしている。
中身は、おまえがいちばん知っている。
行け。
さもないと、また間に合わない。
マルクスはほんの一瞬だけ目を閉じ、息を吐き、それから上着を脱ぎ始めた。
指は素早く、荒々しく動いた。防寒の上着を脱ぎ、上衣を開き、傷の上の包帯を引き剝がした。凍って張りついた布はすぐには離れず、皮膚に食い込んだ部分は引き裂くしかなかった。痛みは澄んだ塊のように走り、血はたちまち寒気の中でぬるくなった。入口脇の岩の窪みに服を置き、雪に飛ばされないよう石で押さえつける。彼の体には、古い血でとっくに黒ずんだ下の服だけが残った。
もし中にまだ生きている者がいるなら、手探りで時間を無駄にはできない。新しい血の臭いに、奴らのほうから出てこさせる。少なくとも、相手より先に姿を見られる。
マルクスは洞窟の中へ足を踏み入れた。
外の冷気は、すぐに背後へ置き去りになった。中の空気は重く、湿っていて、その湿り気は肌にも傷にも顔にも貼りついた。最初の通路は狭く、身をかがめねばならなかった。靴の下にあるものが何なのか、判然としない。水か、粘液か、泥か、砕けた骨か、古い屑か。何度か、何かがひどく小さく砕ける音がした。何を踏み折ったのかは、考えたくなかった。
ほどなくして、もうひとつ異常なことに気づいた。
闇が、闇のままでいてくれない。
目が、あまりにも早くその中を見分け始めた。普通の人間が夜目に慣れるような速度ではなかった。もっと鋭く、もっと深く。最初に壁の輪郭が浮かび、次に突き出た岩、さらに岩に打ち込まれた鎖の影、錆びた輪、切れた革紐、骨の山が見えてきた。床には人と獣の骨が混じって白く散っていた。壁際には、鎖で繋がれたまま肉を食い尽くされた死体が垂れ下がっていた。ほとんど腱とぼろ布と、黒く空いた眼窩しか残っていないものもあった。
奥から、鈍い金属音が響いた。
もう一度。
どこか深い場所で、鉄が怠けたように石へぶつかっている音だった。視界の届かないさらに奥からだ。そのあとに、押し潰されたような悲鳴が来た。長くはない。喉のところで止められたみたいに、あまりにも急に切れた。
マルクスは歯を食いしばり、先へ進んだ。
最初に聞こえたのは、連中の足音ではなかった。
擦る音だ。柔らかく、湿っていて、規則のないもの。そこに途切れ途切れの荒い呼吸が重なり、最後に低い、泡立つような囁きが届いた。その音だけで、首筋の皮膚に霜が立つようだった。
彼は動かなかった。
闇の中から輪郭が這い出してきた。
猫背で、腕が長く、二本脚で歩いてはいるが、関節のつながり方そのものがおかしい。身につけているのは汚れた布切れと服の残骸で、脂や血や、とうに乾いた褐色の何かが染み込んでいた。顔を顔と呼ぶのもためらわれた。鉤のように曲がった鼻。薄い唇。乾いた剥き歯。濁った目。その目の中の白っぽい光は反射ではなく、沼のガスみたいに内側で鈍く燻っていた。手には、釘の打ち込まれた棍棒や、曲がった鉄片。
奴らは飛びかかってこなかった。
血の臭いを嗅いだのだ。
一体が息を吸い込み、灰色の唇を細く、長すぎる舌で舐めた。もう一体が短く喉を鳴らして何かを告げた。その濁った囁きにあったのは警戒ではなく、慣れきった好奇心だった。新しい獲物が来た。新しい供えものが来た。ただそれだけだった。
供えもの。
マルクスは待った。
最初の一体が、顔をよく見るために首を伸ばし、すぐ目の前まで来た。棍棒に打ち込まれた釘、そのあいだにこびりついた乾いた肉片、柄に筋で縫い留められた、もうほとんど干からびた小さな子どもの指まで見えた。恐ろしい護符のように。
彼は振りかぶりもせずに動いた。
指が自然に、その首のつけ根――頭蓋が脊椎に乗る場所へ食い込んだ。考えたわけではない。動きを選んだわけでもない。手がただ閉じたのだ。掌の下で何かが急に沈み、ひどく乾いた音を立てた。骨ではなく、腐った木製の留め具を潰したような音だった。体は即座に弛んだ。
彼は離さなかった。
そのまま石床に倒れるのを許さず、死んだ体を捻り、もう一体の顔へ叩き込んだ。至近距離だった。骨が湿った鈍い音で割れた。二体目は悲鳴を上げる暇もなく、小さく痙攣して崩れた。
マルクスは二つの死体を支えたまま、ゆっくり床へ下ろし、耳を澄ませた。
奥では、またあの怠い金属音が続いていた。
誰も駆けてこない。
彼は先へ進んだ。
今度はもっと遅く。周囲の空間を、一本一本の神経で測るように。通路はいくつにも枝分かれしていた。あるところではひどい腐臭が流れ、またあるところでは空気がわずかに冷えていた。窪みには年齢の違う人間の骨が転がり、石には黒い垂れ跡が筋になっていた。片方だけの子どもの靴が、褐色の乾いたこびりの中で妙にきちんと壁際へ置かれている場所もあった。別の場所では、岩に打ち込まれた輪状の留め具が長く並んでいて、その高さだけで、ここに繋がれていたのが大人ではないと分かった。
奥へ行くほど、はっきりしてくる。
ここは、ただ殺す場所ではない。
働いているのだ。
獲物は偶然ここへ落ちてくるのではない。連れてこられ、留められ、壊され、整えられ、どこかの秩序に従って処理されている。どういう形なのか、まだ全部は分からない。それでも、仕組みがあることだけは、もう疑いようがなかった。
いくつか角を曲がったところで、新しい音がした。
最初は、押し殺したような擦れ。
次に、重いものを引きずる音。
マルクスは岩の張り出しに体を寄せ、そっと覗いた。
二体。
一体は袋を引きずり、もう一体はその横を歩きながら、手にした鉄片で壁を怠そうに叩いていた。そのリズムには意味があるようには見えなかった。長いあいだ同じ音だけを聞いてきた者の、半ば無意識の癖のようだった。袋は小さい。小さすぎた。中身のことは考えたくなかった。
背後へ通すわけにはいかない。
彼は連中がもう少し進み、揺れる松明の光が輪郭を裂くまで待った。
それから追いついた。
後ろを歩いていた一体は、壁へ押しつけられた。前腕が喉へ深くめり込み、呻きは肉の厚い首の中で終わった。ほとんど同時に、もう片方の手で袋を引く一体の顔を掴み、後ろへ、下へ、岩の角へ向けて引き倒す。首がそこで折れた。袋が鈍く床を打った。マルクスはすぐにそれを受け止め、音を先へ逃がさなかった。
奥の金属音は変わらなかった。
まるで洞窟そのものが、また二つ終わったことに気づきもしなかったかのように。
ここで彼は悟った。
このままでは、もっと先へは行けない。
いつか誰かが嗅ぎつける。血の臭いだけではない。獲物の臭いと、殺す側の臭いは違う。
彼は死体のひとつのそばへしゃがみ込み、その身についたぼろ布を剝いだ。どろりとした不快な液で濡れた布だ。その一部を自分の服の上へ重ね、さらに別の血を手で掬い、自分の胸、袖、首、顔、髪へ塗りつけた。暗い、重い粘りだった。吐き気が腹を攫った。釘の打たれた棍棒を拾い、何度か前後に歩いてみる。背を丸め、片脚をわずかに引きずり、連中と同じように。
ひどくおぞましかった。
だが、効いた。
奥の松明は不安定で、明かりは震え、輪郭は崩れた。そのせいで遠目には見分けがつきにくくなっていた。二度、別の化け物が彼の脇を通った。一体は鎖の束を抱え、もう一体は布を巻いた荷を引きずっていた。その先からは小さな手が突き出していた。どちらも濁った目で彼を一瞥し、それ以上は見なかった。背の高い一体が喉を鳴らして何か言ったが、返事がないまま去ると、それで満足したように向きを変えた。
マルクスはさらに深く進んだ。
やがて通路は広がり、大きな自然洞へ出た。
臭いは、もう波ではなく壁だった。
中央に長い台があった。粗い板と骨で組まれ、それごと岩へ打ちつけられている。その上には一つの肉塊――いや、かつてそう呼ばれていたもの――が横たわっていた。あまりにも酷く壊されていて、最初は獣なのか人なのかも分からない。黒い血が台の上を流れていた。その上へ身をかがめ、一体の化け物が作業していた。二メートルを明らかに超えている。
他の連中とは、種類そのものが違って見えた。
首は丸太のように太く、肩は異様に広い。顔は潰れ、捻じれ、どこか豚を思わせた。重い顎。突き出た牙。押し潰れた軟骨質の鼻。だが、目に獣の鈍さはなかった。あったのは、自分の仕事を知り、それを好んでいるものの、嫌になるほど落ち着いた理性だった。
そいつは巨大な鉤で肉塊を裂き、その一部を足元の鉄の盥へ放り込んでいた。
さらに奥――この部屋の先、もっと深いところから、またあの鈍い金属音が来た。
今度は、はっきりと。
ただの物音ではない。
作業だ。
マルクスは影の中で固まり、距離を測った。
そのとき、右手の壁際、ほとんど床の高さのところに、細い窪みがあるのに気づいた。濡れた布、皮、骨の屑、正体を考えたくないようなものが押し込まれている。その奥で、三人の男が体を重ね合うように潜んでいた。恐怖と洞窟の汚れと冷えで、顔の違いはほとんど消えていたが、それでも一人は白髪が混じり、もう一人は若く頬が割れ、三人目は肩幅の広い頑丈な体つきをしていた。もっとも、その頑丈さすら、ここではすでに折れかかっていた。
若い男が、ほとんど唇だけを動かした。
「……音を立てるな……」
マルクスはごく短く首を振った。
彼の目は、すでにあの巨体へ戻っていた。
計算する。
上から打てば、吠える時間を与える。
正面から行けば、鉤を振るか、盥をひっくり返す。
立ったまま頭を狙えば、重い骨に一撃目を受け止められ、その音が洞窟じゅうへ走る。
要るのは、いちばん脆い場所だけだった。
肉屋は、ちょうど体重を移し、背後の何かへ少しだけ向きを変えた。
マルクスはその瞬間に動いた。
最後の数歩は速くではなく、鋭く、ほとんど地を舐めるように詰めた。鉤が振り向きかけたときには、もう棍棒が膝裏へめり込んでいた。もう片方の脚を全身で払う。巨体が崩れ、台が軋んだ。その同時に、マルクスの狙いは喉へ移っていた。棍棒の端が喉仏へ深く食い込み、重く湿った音が鳴った。頭が跳ねた。まだ足りない。
彼は呻きを外へ出させなかった。
上から体重をかけて、さらに首を折る。そしてほとんど体勢を変えぬまま、棍棒を二度、顔面へ叩き込んだ。骨が沈んだ。血が黒く、厚く溢れた。二撃目のあと、すべてが弛んだ。
彼はそのまま耳を澄ませた。
どの通路からも駆けつける気配はない。
ただ、さらに深い場所で、金属が変わらず怠そうに鳴りつづけていた。
マルクスは息を吐き、窪みのほうを向いた。
「出ろ」
最初に動いたのは若い男だった。次に白髪の男。三人目は脚がすぐには伸びず、立ち上がるまでに時間がかかった。三人とも、恐怖と寒さと洞窟の悪臭そのものを身に染み込ませていた。
「……もっと下だ」
若い男が唾を呑み、やっと言った。
「子どもは、下に連れていかれる」
マルクスは動きを止めた。
「何人だ」
男はゆっくり首を振った。
「分からない……俺たちは、そのあとここへ置かれた……外から連れてこられるのは大人もいる……でも、子どもはこの部屋に置かれない……ここは……選別する場所だ……」
最後の言葉で、白髪の男の顔がぴくりと引きつった。
マルクスは、倒れた巨体、血の溜まった盥、台の上の残骸、壁の骨を見回した。
そこでやっと分かった。
ここまでに見てきたものは、まだ外側だったのだ。
いちばん手前の層。
外には村があった。
恐怖があった。
供えものがあった。
沈黙があった。
ここには見張りがいて、屑拾いがいて、解体する者がいる。
だが、子どもがまだ生きているなら、本当の場所はさらに先だ。
「どう行く」
マルクスが低く聞くと、白髪の男が喉を鳴らし、部屋の奥の黒い通路のひとつを指した。
「……あっちだ。下へ……俺たちは行ってない……連中も、命令なしでは入らない……」
マルクスは指された闇を見た。
そこから来る臭いは、強いというより悪かった。乾いていて、冷たく、ほとんど血の気がない。だからこそ余計に怖い。その奥からは、石の中に隠れた巨大な病んだ臓器が呼吸しているような気配があり、その底を貫くように、あの鈍い金属音が、今度はほとんど規則を持って鳴っていた。
背後で三人の男が重く息をしていた。
前には、本当の洞窟が始まっていた。
マルクスは壁際に転がる死体を顎で示した。
「武器を取れ」
それから短く手を振った。
「ついてこい。音を立てるな」
彼は次の下りへ向かって歩き出した。
そこでようやく、今まで見てきたものが巣ではなかったと悟った。
あれはただの入口だった。




