失われゆく日々
――魔法暦7200年。
王都の喧騒から遠く離れた、小さな村。
そこに、一人の少年が暮らしていた。
特別な力を持っているわけでもない。
有名な家柄でもない。
大きな夢を抱いているわけでもなかった。
ただ、彼には自分を愛してくれる家族がいた。
共に笑い合える友人がいた。
そして、自分が故郷だと思える村があった。
少年は信じていた。
明日も今日と同じ日が続くと。
笑い声も、ずっと続いていくと。
大切な人たちも、いつまでも自分のそばにいてくれると。
――しかし、彼はまだ知らなかった。
幸せな日々というものは時に……
嵐が訪れる前の、ほんのひとときの静けさにすぎないことを。
十一年前――
魔法暦7200年。
ゼフィリア王国の外れに、小さな村があった。
その名はナイル村。
裕福な村ではなかった。
貴族も、有名な魔法使いも存在しない。
しかし、そこには笑顔が溢れていた。
初めて訪れた旅人でさえ、まるで最初から家族の中にいるような温かさを感じる場所だった。
ある土の道の上で――
一人の少年が全力で走っていた。
小さな石を飛び越えながら、楽しそうに笑っている。
ササキ。
年齢:9歳。
「ははは!」
遠くから一人の老人が手を振った。
「おお、ササキじゃないか!」
少年はすぐに足を止める。
「こんにちは、おじさん!」
老人は笑った。
「この箱を運ぶのを手伝ってくれないか?もう腰が限界でな。」
ササキは迷うことなく笑顔を見せた。
「もちろん!」
彼は小さな上着を脱いで横に置き、箱を一つずつ運び始めた。
子供の彼には重すぎる荷物だった。
それでも、彼は止まることなく作業を続けた。
仕事を終えると、老人は額の汗を拭った。
「今日は助かったよ。」
ササキは微笑む。
「大丈夫だよ。」
老人は彼の頭を優しく撫でた。
「大きくなったら、きっと素晴らしい青年になるぞ。」
ササキは手を振りながら離れていく。
「またね!」
そして村の道を歩き続けた。
彼の姿を見ると、村人たちはあちこちから声をかける。
「ササキ、この柵を直すのを手伝ってくれないか?」
「少し待ってて、おじさん!」
「パン屋にも寄ってくれないか?君のお母さんが今朝パンを作ったんだ。」
「分かった!」
「この籠をマリーおばあさんのところへ届けてくれるか?」
「任せて!」
村の誰もが彼を知っていた。
そして、誰もが彼を愛していた。
彼は誰かの頼みを断ったことがなかった。
たとえ、そのせいで家に帰る時間が遅くなったとしても。
最後の頼みを終えた後――
彼は野花に囲まれた、小さな木造の家の前に立った。
勢いよく扉を開ける。
「ただいま!」
温かな料理の香りが彼を迎えた。
台所では、一人の若い女性が鍋の前に立っていた。
セリント。
年齢:25歳。
分類:引退した冒険者。
魔法:治癒。
彼女は振り返り、優しく微笑んだ。
「おかえりなさい、あなた。」
ササキは靴を脱ぎながら笑う。
「すごくいい匂い。」
彼女は笑った。
「もう少し待ってね。夕食はもうすぐできるわ。」
その時――
大柄な男が部屋の中から出てきて、手を拭きながら歩いてきた。
ヴァル。
年齢:27歳。
分類:冒険者。
魔法:強化。
彼はササキに近づき、頭を強く撫でる。
そのせいで髪がぐしゃぐしゃになった。
「また村のみんなを手伝っていたそうだな。」
ササキは笑う。
「うん。」
ヴァルは誇らしそうに笑った。
「さすが俺の息子だ。」
彼が続けて話そうとした、その時――
コン……コン……コン……
全員が扉の方を見る。
ササキが走っていく。
「今行く!」
扉を開ける。
そこに立っていたのは、小さな少女だった。
彼女は両手でドレスの端を握っている。
髪の束が風に揺れ、彼女は恥ずかしそうに地面を見つめていた。
リリア。
年齢:10歳。
ササキの親しい友人。
少女はゆっくりと顔を上げる。
「こ……こんにちは、ササキ。」
ササキも照れながら後頭部をかいた。
「あ……こんにちは、リリア。」
セリントは二人を見ながら微笑む。
「あらあら……なんだか可愛らしい雰囲気ね。」
ヴァルは大声で笑った。
「どうやら恋する小鳥たちがまた出会ったようだな。」
ササキの顔が一瞬で赤くなる。
「父さん!」
そして彼の腕を軽く叩く。
「からかわないでよ!」
リリアも耳まで真っ赤になり、顔を上げられない。
ヴァルはさらに笑う。
「ははは!どうやら図星みたいだな。」
セリントは笑いながらため息をついた。
「そのくらいにしてあげて。」
ササキは話題を変えようとして咳払いをする。
「ほら、リリア……入って。」
リリアはすぐに顔を上げる。
「う、うん。」
彼女はためらいながら家の中へ入っていく。
その様子を見て、ヴァルとセリントは楽しそうな視線を交わした。
しかし――
二人はまだ知らなかった。
彼らが過ごしている穏やかな日々が……
あと数年で、誰にも忘れることのできない悲しい記憶へと変わってしまうことを。五年後――
魔法暦7205年。
部屋の窓から差し込む最初の太陽の光が、まだベッドの上で眠っている少年の顔を照らした。
彼はゆっくりと目を開ける。
伸びをしながら起き上がり、窓へ向かって歩く。
カーテンを開けると、冷たい朝の風が彼の顔を撫で、鳥たちの鳴き声が村中に響いていた。
彼は微笑む。
「今日は良い日になりそうだ。」
その少年は――
ササキ。
年齢:14歳。
分類:なし。
魔法:強化。
彼は素早く服を着替え、一階へ降りていった。
台所へ入ると、そこには小さな赤ん坊を抱いている母親の姿があった。
セリント。
年齢:30歳。
魔法:治癒。
腕の中の赤ん坊は笑いながら、母親の髪を掴もうとしている。
ノナ。
年齢:3ヶ月。
ササキは微笑みながら二人へ近づいた。
「おはよう、母さん。」
セリントは優しく微笑む。
「おはよう、あなた。」
そしてササキはノナへ指を差し出す。
「君もおはよう、小さなお姫様。」
赤ん坊は可愛らしい声で笑いながら、小さな両手で彼の指を握った。
ササキは優しい表情を浮かべる。
「大きくなるのが早いな。」
セリントは二人を見ながら言った。
「きっと素敵なお兄ちゃんになるわ。」
彼は自信を持って頷く。
「僕がずっと守るよ。」
その時――
家の扉が開いた。
ヴァルが肩に斧を担いで入ってくる。
「帰ったぞ。」
セリントは笑顔を向ける。
「おかえりなさい。」
ササキも振り向く。
「おはよう、父さん。」
ヴァルは大きく笑う。
「おはよう。」
そして窓の外を見る。
「今日は最高の天気だな。」
その瞬間、ササキの体が突然震えた。
「そ、そうだね……。」
ヴァルは彼の様子に気づき、不吉な笑みを浮かべる。
一方、ササキはゆっくり後ずさる。
「そういえば……部屋に忘れ物をした気がする。」
急いで振り返る。
しかし――
力強い手が彼の肩を掴んだ。
ササキの動きが止まる。
ゆっくりと振り返る。
そこには笑顔の父親がいた。
「何を意味するか分かるよな?」
ササキは唾を飲み込む。
「な、何を?」
ヴァルは彼の耳元へ近づく。
「朝の訓練だ。」
そして突然叫ぶ。
「外へ行くぞ!」
「いやああああ!」
数分後――
ササキは村の周りを全力で走っていた。
「五周!」
遠くからヴァルの声が響く。
「強化魔法は禁止だ!」
「はい!」
額から汗が流れ、周回するたびに息が重くなる。
村の家々の前を通ると、住民たちは笑いながら手を振った。
「頑張れ、ササキ!」
「お父さんは容赦ないぞ!」
彼は苦しそうに笑いながら、それでも走り続けた。
五周を終え、戻ってきた時には激しく息を切らしていた。
「はぁ……はぁ……終わった……。」
ヴァルは満足そうに頷く。
「よし。」
ササキは笑顔になる。
「じゃあ訓練は終わり?」
「いや。」
笑顔が消える。
「腕立て伏せ百回だ。」
彼は頭を落とす。
「はい……。」
苦しそうに数え始める。
「一……」
「二……」
……
「百!」
地面に倒れ込み、荒い息を吐く。
ヴァルは笑う。
「次はスクワット百回。」
ササキはゆっくり顔を上げる。
「え?」
「何か文句があるか?」
彼はすぐに答える。
「ありません!」
そして二つ目の訓練を始めた。
時間が過ぎ――
ようやく終わった頃には、彼の全身が震えていた。
ヴァルが近づく。
「さて、次は……」
ササキは恐る恐る後ずさる。
「まさか……」
「百――」
しかし、その瞬間。
ゴン!
木のスプーンがヴァルの頭を叩いた。
「痛っ!」
ヴァルは頭を押さえる。
セリントが怒った顔で見ていた。
「もう十分よ。」
「だが……」
「朝から疲れさせすぎです。」
彼女は、立つこともやっとのササキを見る。
そして優しく微笑んだ。
「おいで、息子。」
ササキはすぐに彼女へ駆け寄り、抱きつく。
「母さん……助けて。」
彼女は優しく彼の頭を撫でる。
「大丈夫よ。」
ヴァルは頭をさすりながらため息をつく。
「もっと強くしてやろうと思ったのに。」
ササキは母親の後ろから父を見る。
そして勝ち誇ったように微笑み、軽く舌を出した。
ヴァルは怒ったふりをする。
「このいたずらっ子め……」
その時――
聞き慣れた声が家の外から響いた。
「こんにちはー!」
全員が扉の方を見る。
セリントは微笑んだ。
「どうやら来たみたいね。」
十五歳ほどの少女が、元気よく手を振りながら入ってきた。
リリア。
年齢:15歳。
魔法:なし。
彼女は笑顔で言った。
「おはようございます、セリントおばさん。」
「おはよう、リリア。」
ヴァルは手を上げる。
「よう。」
彼女は笑顔で返す。
「こんにちは、おじ――」
突然止まる。
「……ヴァルおじさん。」
ヴァルは眉を上げる。
「今、じじいと言いかけなかったか?」
リリアは頬を掻きながら笑う。
「まさか。」
「嘘つきだな。」
その言葉で、全員が笑い出した。
そして彼女はササキを見る。
明るい笑顔を浮かべる。
「おはよう。」
ササキも微笑む。
「おはよう。」
リリアは彼の手を迷わず握った。
「行こう。見せたい場所があるの。」
年月が流れ、ササキは少しずつ成長していった。
それでも、彼の日常は変わらなかった。
自分を愛してくれる家族。
温かく迎えてくれる村。
そして、いつも隣にいてくれる大切な友人。
彼は知らなかった。
何気なく過ごしていた、そんな平凡な日々こそが――
いつか何よりも大切な記憶になることを。
そして、あの家を満たしていた笑い声が……
いつの日か、決して忘れることのできない悲しい記憶へと変わってしまうことも。
その朝。
ササキはリリアの手を取り、家から離れていった。
彼は笑っていた。
リリアもまた、笑っていた。
村はいつもと変わらず、穏やかだった。
――だが。
運命はすでに、その糸を紡ぎ始めていた。
すべてが灰へと変わる、その日へ向かって。
残された時間は……
もう、長くはなかった。




