生還の谷
死の森を生き延びた子供たちを待っていたのは、果ての見えない巨大な谷だった。
次なる試験――「生還の谷」。
その名の通り、待ち受けるのは生き残ることだけが許される過酷な試験。
しかし、試験が始まる前に、カイレンは仲間だと思っていた者たちによって崖から突き落とされてしまう。
誰もが彼の死を確信した。
だが――カイレンの物語は、そこで終わらなかった。
生還の谷
ナイは子供たちの前に立っていた。
死の森を終えたばかりの彼らの顔には、はっきりと疲労の色が浮かんでいる。
もはや誰にも話す力は残っていなかった。
それでも全員が、次に何が待っているのかを知るため、ナイを見つめていた。
ナイはしばらく彼らを眺めると、静かに口を開いた。
「次の試験は……生還の谷だ」
静寂が広がった。
一人の子供が勢いよく顔を上げる。
「何だよ、それ……?」
ナイの表情は変わらない。
「いくつかの段階がある。それをすべて、翌朝の日の出までに突破しろ」
それだけ言うと、ナイは背を向けた。
「以上だ。幸運を祈る」
そのまま立ち去ろうとする。
子供たちは驚いたように彼の背中を見つめた。
「待って!」
ナイは振り返らない。
「それだけなのか!? せめて詳しく説明してくれ!」
ナイはため息をついた。
「死の森で散々説明しただろ。もう説明する気力が残ってない」
少しだけ振り返る。
「俺は寝る」
そして、片手を軽く上げた。
「もう一度言っておく。幸運を祈る」
そう言い残し、去っていった。
子供たちはその場に立ち尽くした。
互いに顔を見合わせる。
誰もナイの言葉を理解できていない。
「……あいつ、何なんだ?」
しかし、カイレンはあまり気にしていなかった。
ゆっくりと崖の縁へ向かう。
歩くたびに、風の音がはっきりと聞こえてくる。
そして、足を止めた。
下を覗き込む。
その瞬間、カイレンの呼吸が止まった。
谷はあまりにも巨大だった。
両側には、果てしなく続いているかのような山々がそびえ立ち、黒々とした岩肌が、遠く見えない谷底へと続いている。
谷底から吹き上げてくる強い風が、カイレンの顔を叩き、髪を激しく揺らした。
カイレンは唾を飲み込む。
そして、ミラへ振り返った。
「どう思う、ミラ?」
ミラが近づいてくる。
「え?」
カイレンは谷を指差した。
「俺たち……この試験を突破できると思うか?」
ミラは谷底を見下ろした。
だが、すぐには答えられなかった。
その瞳は岩場や遠くの崖を行き来している。
まるで、どうやってこの場所を越えるのかを探しているようだった。
その時――
カイレンは背後に気配を感じた。
振り返る。
目を見開いた。
そこには、22番が立っていた。
その隣には56番、4番、そして23番。
彼らの視線には、どこか異様なものがあった。
先ほどまでとは明らかに違う。
22番が口を開く。
「……悪いな」
一拍置いてから、冷たく続けた。
「だが、お前には死んでもらう。よそ者」
「……何?」
カイレンには意味が分からなかった。
その時、ミラの姿が目に入る。
彼女は後ろで両腕を拘束されていた。
「カイレン!」
ミラが叫ぶ。
「逃げて!」
だが、23番が彼女の片腕を掴み、4番がもう片方の腕を押さえている。
「ミラ!」
カイレンが一歩前へ出る。
「何をしてる!?」
誰も答えない。
56番が言った。
「動くな」
「どうしてだ?」
困惑したまま、カイレンは彼らを見つめる。
「俺がお前たちに何をした?」
22番が答えた。
「何もしていない」
そして、一歩近づく。
「だからこそ問題なんだ」
「どういう意味だ?」
「俺たちは、お前を知らない」
カイレンは22番を見つめた。
「それが理由になるのか?」
「ここではな」
22番は冷たく笑った。
「それで十分だ」
ミラが叫ぶ。
「カイレン、近づかないで!」
彼女は拘束を振りほどこうとする。
「離して!」
23番が腕を強く掴む。
「落ち着け」
「離して!」
そして、カイレンを見る。
「カイレン、崖から離れて!」
だが、カイレンはすでに追い詰められていた。
背後には崖。
目の前には22番。
56番が言った。
「俺たちは、いつお前に突き落とされて裏切られるか分からない」
「俺はそんなことしない!」
「どうやってそれを証明する?」
カイレンは黙った。
答えられなかった。
22番がさらに一歩近づく。
「危険を冒している時間はない」
そして、手を伸ばす。
カイレンの表情が変わった。
「待て……」
だが――
22番は彼を突き飛ばした。
足元から地面が消えた。
「……え?」
目を見開く。
そして、身体が落下した。
「うわああああああああああああっ!」
力の限り叫ぶ。
上を見上げる。
そこにはミラがいた。
彼女は必死に名前を叫んでいる。
「カイレン!」
だが、彼女の顔は急速に遠ざかっていく。
風が顔面を激しく叩く。
「何が起きてる!?」
何かに掴まろうと手を伸ばす。
だが、指先が掴んだのは虚空だけだった。
下を見る。
谷底が急速に迫ってくる。
「待て……」
目を見開く。
「待て、待て、待て、待て……!」
両腕を無我夢中で振り回す。
「嫌だ!」
そして――
「嫌だああああああああああああああっ!」
そのまま、落下していった。
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上では、22番が崖の縁に立ったままだった。
下を見下ろし、呟く。
「これで片付いた」
56番が安堵の息を吐いた。
「よくやったな、兄貴」
そして崖を見下ろす。
「これで安心できる」
少し黙ってから続ける。
「いつあのよそ者に突き落とされて、裏切られるか分からなかったからな」
22番が頷く。
一方、ミラはまだ必死に抵抗していた。
「離して!」
そして叫ぶ。
「カイレン!」
返事はない。
「カイレン!」
ミラは崖の縁を掴み、下を覗き込んだ。
見えるのは遠くの岩と、深い闇だけ。
身体が凍りつく。
「……そんな」
23番が声をかける。
「ミラ」
返事はない。
「俺たちは行かなきゃならない」
ミラが振り返る。
「でも……落ちたんだよ」
「分かってる」
「もしかしたら……」
言葉が止まる。
きっと、生きているかもしれない。
そう言いたかった。
だが、口にはできなかった。
23番が静かに言う。
「今の俺たちには、何もできない」
ミラは俯いた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、ミラが言った。
「……離して」
23番は彼女を放した。
ミラは崖から離れ、急いで目元を拭った。
「私は……試験を続ける」
前を向く。
「今ここで悲しんでも、何の意味もない」
そして最後に、もう一度だけ崖を振り返った。
「……さようなら、カイレン」
そう言って、4番、56番、22番、23番と共に去っていった。
だが――
彼女は知らなかった。
カイレンが、まだ生きていることを。
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その頃――
カイレンの身体は、まだ落下し続けていた。
風が激しく身体の周囲を吹き抜ける。
もはや何も考えられない。
視界に映るのは、迫り来る岩だけだった。
「嫌だあああ!」
身体を動かそうとする。
だが、恐怖に身体が完全に固まっていた。
その瞬間――
カイレンの身体から、大量の魔力が噴き出した。
本人は気づいていない。
自分の身体に何が起きているのかすら分かっていなかった。
しかし、魔力は最後の瞬間、彼の身体を包み込んだ。
そして――
激突。
ドォンッ!!
谷底に、凄まじい衝撃音が響き渡った。
カイレンは動かなかった。
数秒。
そして、数分。
やがて、ゆっくりと目を開ける。
視界はぼやけていた。
「……痛い」
腕を動かそうとする。
「……すごく痛い」
再び目を閉じる。
そして、もう一度開いた。
頭上には岩の天井があった。
しばらくそれを見つめる。
やがて、身体を起こそうとする。
「くっ……!」
背中を押さえる。
「何が……起きたんだ?」
周囲を見回す。
ここがどこなのか分からない。
そして――
思い出した。
22番。
崖。
ミラ。
落下。
カイレンは目を大きく見開いた。
「俺は……」
自分の手を見る。
そして身体を見る。
「どうして……まだ生きてる?」
答えは見つからなかった。
カイレンは知らなかった。
落下した瞬間、無意識に魔力が身体から放出され、衝突の威力を和らげたことを。
彼が分かっているのは――
ただ、自分が生きているということだけだった。
ゆっくりと立ち上がる。
身体は痛んだ。
それでも立つことはできた。
「……よし」
周囲を見回す。
辺りは暗く、四方を岩に囲まれている。
「気にしても仕方ない」
深く息を吸う。
「これから、どこへ行けばいい?」
歩き始める。
岩の間には、いくつもの道があった。
そのうちの一つを選ぶ。
「試験のルートから外れたんだろうな」
進んでいく。
すると、広い洞窟の入口が見えてきた。
足を止める。
「……別の場所に繋がってるかもしれない」
洞窟の中へ入る。
内部は冷たく、湿っていた。
天井から水滴が落ちている。
ポタ……
ポタ……
ポタ……
その音が洞窟全体に響き渡る。
カイレンは歩き続けた。
少し進むと、壁の中で何かが光っているのが見えた。
近づく。
「……ダイヤモンド?」
小さな結晶に触れる。
そして壁を見る。
そこには金属の鉱脈が走っていた。
「鉄まである……」
さらに進む。
天井から水が染み出し、小さな水たまりを作っている。
どれほど時間が経ったのか、カイレンには分からなかった。
ただ歩き続けた。
そして別の通路を曲がったところで――
足を止める。
周囲を見る。
表情が変わった。
「……何だ?」
一歩進む。
そして、もう一歩。
「ここ……さっき来なかったか?」
見覚えのある岩。
壁にある同じ亀裂。
同じ小さな水たまり。
足元の石まで見覚えがある。
「くそ……」
来た道を振り返る。
「同じ場所に戻ってきたのか?」
ため息をつく。
「……分かった」
振り返る。
「同じ道は戻らない」
別の道を選ぶ。
歩き続ける。
今度は通路が広くなっていた。
しばらく進むと、地面に奇妙なものが見えた。
足を止める。
「……何だ、これ?」
近づく。
古びた鉄のレールが洞窟の奥へと伸びていた。
「鉄道……?」
しゃがみ込み、触れてみる。
錆と埃に覆われていた。
その脇には、朽ちた木材が転がっている。
カイレンは顔を上げた。
「……鉱山か」
そして父の言葉を思い出す。
「父さんが話していた鉱山……」
カイレンはレールの上を歩き始めた。
一歩進むたびに、足音が洞窟の中で反響する。
進めば進むほど、洞窟は広くなっていった。
やがて、レールの終点に辿り着く。
崖から落ちたカイレンは、奇跡的に生き延びていた。
しかし、そこは試験の道から完全に外れた、誰も知らない地下の世界だった。
暗い洞窟の奥で彼が見つけたのは、古びた鉄のレール。
それは、かつて誰かがこの場所で何かを掘り出していた証だった。
父が語っていた――古い鉱山。
カイレンは、錆びついたレールを辿りながら、洞窟のさらに奥へと進んでいく。
その先に何が待っているのか。
そして、この地下に隠されたものとは――。
カイレンの生還は、まだ始まったばかりだった。




