8. 時を越えた約束
成田空港を飛び立った旅客機は、夜明けを追いかけるように北へ向かっていた。
窓の外には、一面の雲海が広がっている。健は隣りに座る智へ、そっと視線を向けた。普段はどんな場面でも落ち着きを失わない父が、今日は違っていた。機内誌を開いても、一ページもめくらない。コーヒーを口に運んでも、ほとんど手が止まったままだ。その横顔には、長い年月を背負った男だけが見せる静かな緊張が刻まれていた。健は何も言わなかった。今は励ましの言葉さえ、父の心には届かない気がしたからだ。やがて智が、小さく息を吐いた。
「……二十年になるのか」
その独り言のような声に、健は静かに頷く。
「長かったね」
智は窓の外へ目を向けたまま、ゆっくりと言葉を続けた。健は、父の話に静かに耳を傾けていた。
「いつかふたりに逢えることを夢見ていた」
智は苦く笑った。
「だが、時間は待ってくれなかった。ヴィヴィアンが亡くなっていたなんて」
健は父の固く握られた拳を見つめた。
「父さん。オデットは、きっと話を聞いてくれる」
智は少しだけ目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
「許してもらおうとは思っていない。ただ……、一度だけ、父親として名乗る機会をもらえれば、それでいい」
やがて機長のアナウンスが流れた。
「まもなく当機は、ジュネーブ国際空港へ着陸いたします」
智は窓の外に広がるアルプスの峰々を見つめた。健は静かにシートベルトを締め直す。この着陸は、止まってしまった家族の時間を、もう一度動かすための第一歩だった。
ジュネーブの朝は、澄みきった光に満ちていた。
工房の窓から差し込む陽射しを受けながら、オデットはルーペを片目に、小さな歯車を丁寧に組み上げていた。静かな工房には、工具の触れ合う音と時計の鼓動だけが響いている。ミニッツリピーターのムーブメントの組み立てをひと区切りつけた頃、教室の扉が開いた。オデットが顔を上げると、そこには健が立っていた。その隣りには、クレイとミスター・スズキ、そして見覚えのない一人の紳士が静かに佇んでいる。
「健!」
オデットの表情がぱっと明るくなる。
「突然ごめん。日本から、どうしても紹介したい人がいて」
健の言葉に、オデットは穏やかに微笑み、その男性へ視線を向けた。智は一歩前へ出る。しかし、用意してきたはずの言葉は胸の奥で止まり、すぐには声にならなかった。オデットは不思議そうに首をかしげる。
「どこかでお会いしたことがありましたか?」
智は静かに首を横に振った。
「……いえ。今日が、初めてです」
その一言には、長い歳月の重みが滲んでいた。健は二人を見守りながら、そっと工房の窓辺へ目を移す。ここから先は、自分が導くのではなく、父が自ら歩かなければならない時間だと思った。
「少し、お時間をいただけますか?」
智は深く一礼した。
「あなたに、お話ししたいことがあります」
オデットは戸惑いながらも、その誠実な眼差しに静かに頷いた。
「応接スペースをおつかいください」
クレイがこたえた。窓の外では、レマン湖から吹く風がやさしく街路樹を揺らしていた。止まっていた時間が、静かに動き始めようとしていた。
応接スペースには、穏やかな朝の光が差し込んでいた。
オデット、健、智は静かに席へ着いた。テーブルには、クレイが運んだ温かな紅茶が並ぶ。しかし、誰もすぐにはカップへ手を伸ばさなかった。智は深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「突然お訪ねした非礼を、お許しください」
オデットは静かに頷く。
「健さんが、大切なお話があるとおっしゃっていました」
智は一度目を閉じると、遠い記憶をたどるように語り始めた。
「私は健の父親です。神崎ホールディングスを創業して以来、毎年ジュネーブを訪れていました。その頃、一人の女性と出逢いました」
オデットの表情が少しだけ変わる。
「その人の名は……ヴィヴィアン」
その名前が工房に静かに響いた。オデットは息をのみ、無意識に胸元へ手を添えた。
智は小さく頷いた。
「私は彼女を心から愛していました。ですが、あなたを身ごもったと知らせを受けてすぐに、彼女は私の前から姿を消してしまったのです」
健は父の横顔を見つめていた。智の声はわずかに震えていた。
「私はヴィヴィアンと、あなたを長年にわたって探していました」
しばらく沈黙が流れた。時計の鼓動だけが静かに時を刻む。やがて智は椅子から立ち上がり、オデットへ向き直った。
「今日ここへ来たのは、過去を言い訳するためではありません」
深く頭を下げる。
「ただ、一つだけ……伝えなければならないことがあります」
オデットは真っすぐに智を見つめた。智はゆっくり顔を上げる。
「ーー私は、君の父親です」
その言葉が静かに部屋へ落ちた。オデットの瞳が大きく揺れる。驚きと戸惑い、そして言葉にならない感情が胸の奥からあふれ出す。彼女は何も言わず、ただ智の目を見つめ続けていた。オデットは何も答えられなかった。紅茶の湯気が細く立ちのぼり、壁に掛けられた古時計だけが規則正しく時を刻んでいる。父親……。幼い頃から一度も口にしたことのないその存在が、突然、目の前に現れたのだから。驚き、戸惑い、信じたい気持ち、信じることへの怖さ。そのすべてが胸の中で静かに揺れていた。
智もまた、言葉を重ねることはしなかった。今さらどれほど説明を重ねても、失われた年月は戻らない。そのことを誰よりも理解していたからだ。健は二人を見守っていた。この時間だけは、自分が入り込んではいけない。そう感じていた。しばらくして、オデットはゆっくりと視線を上げた。
「……母は、幼い頃に亡くしてしまったので、写真でしか見たことがありませんでした」
オデットの瞳には、静かに涙がにじみ始める。
「父親のことは、母にはきっと理由があったんだと思っていました」
智は震える手を膝の上で静かに握り締めた。オデットは小さく息を吸い、そっと微笑んだ。
「少しだけ、時間をいただけますか?」
「もちろんです」
智は静かに頷いた。急がなくていい。二十年以上離れていた父娘なのだから、答えを急ぐ理由はどこにもない。応接室の外の廊下では、鈴木とクレイが手を取り合って泣いていた。窓の外では、柔らかな朝の陽射しがジュネーブの街を優しく包んでいた。止まっていた家族の時間は、まだゆっくりと動き始めたばかりだった。応接スペースを包んでいた静かな空気は、少しずつ柔らかさを取り戻していた。オデットは窓辺へ歩み寄り、レマン湖から吹く風にそっと目を細めた。ていた。健はその光景を少し離れた場所から見守っていた。胸の奥に張りつめていたものが静かにほどけ、思わず小さく息をついた。




