9. 翼を広げる白鳥たち
深夜を過ぎると、スワンレイクはようやく一日の騒がしさを脱ぎ始める。
古い建物の窓の向こうには、ジュネーブの夜が広がっていた。遠くを走る車の音。石畳を渡ってくる冷たい風。そして、レマン湖の方角から漂ってくる、かすかな水の匂い。けれど、その夜のスワンレイクは、まだ眠る気配を見せていなかった。居間では、女たちが思い思いに夜を過ごしていた。ソファに長い脚を投げ出して雑誌をめくる者。鏡の前で化粧を落とす者。キッチンから持ち出したチーズを勝手につまんで、キットに叱られている者。
「それ、明日の朝食用よ」
「一切れだけ」
「さっきもそう言ったでしょう」
キットの声に、部屋のあちこちから笑いが起きた。部屋の隅では、古いラジオが鳴っていた。誰がつけたのかも分からない。いつもそうだった。音楽が流れていることもあれば、ニュースが流れていることもある。誰も真剣には聴いていない。それでも、ラジオが消えると妙に部屋が寂しくなるので、いつの間にか誰かがまたスイッチを入れる。
その夜は、若い男性のDJが、親しげな声で話していた。
「今夜最後にお届けするのは、最近ライブハウスで注目を集めているシンガーソングライターです」
誰も気に留めなかった。キットは帳簿を閉じ、眼鏡を外した。ソファでは誰かが大きなあくびをした。
「ジュネーブの小さなライブハウスで歌っている、まだほとんど無名の新人歌手です」
オデットが、ふと顔を上げた。
「先日、偶然彼女の歌を聴く機会がありました。荒削りですが、不思議な声をしています。うまく説明できません。けれど、一度聴くと、もう一度聴きたくなる。そんな声です」
オデットの手が止まった。
「……ねえ」
誰も答えない。
「名前は、オディール」
時間が止まった。少なくとも、その部屋にいた全員には、そう思えた。
「え?」
最初に声を上げたのは誰だったのか。次の瞬間、ギターの音が流れた。聞き慣れた音だった。何度も、何度も、この家のどこかで聞いた音。みんな知っていた。
「ちょっと待って」
ひとりの女が立ち上がった。
「これ……」
「しっ!」
別の女が叫んだ。
「静かにして!」
全員がラジオを見た。まるで、その小さな箱の中にオディール本人がいるかのように。そして、歌声が流れた。低く、少しかすれていて、けれど夜の暗がりをまっすぐに進んでくる声。オディールの声だった。
「嘘……」
誰かが呟いた。
「オディールよ」
「わかってるわよ!」
「ラジオよ!」
「ラジオでオディールが歌ってるのよ!」
その一言を合図に、部屋が爆発した。
「オディール!」
「どこにいるの、あの子!」
「呼んできて!」
「音を大きくして!」
女たちが一斉に動き出した。
オデットは動けなかった。ただ、ラジオから流れる親友の歌を聴いていた。
あの歌を知っている。ずっと前から知っている。狭い部屋のベッドの上で、オディールがギターを抱えていた。ノートの隅に歌詞を書き、気に入らなければ線を引き、また書いた。『いつか、誰かが聴いてくれるかな』あの頃のオディールは、そう言って笑っていた。世界一の歌手になりたい、とは言わなかった。有名になりたい、とも。ただ、自分の作った歌を、知らない誰かがどこかで聴いてくれたら。それだけでいい。そう言っていた。今、その知らない誰かの部屋にも、この歌が流れている。ジュネーブのどこかで。車の中で。一人きりの寝室で。夜勤をしている店で。名前も顔も知らない誰かが、初めてオディールの声を聴いている。オデットは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「オデット!」
呼ばれて振り返ると、階段の上にオディールが立っていた。髪は少し乱れ、古いシャツを着ていた。眠っていたのか、片方の靴下しか履いていない。
「何なの、この騒ぎ」
誰も答えなかった。代わりに、全員がラジオを指さした。オディールは怪訝そうな顔をした。そして、自分の声を聞いた。その表情が消えた。
「……え?」
歌は続いていた。オディールは階段を一段、降りた。また一段。まるで近づけば、本当に自分の歌なのか確かめられるとでもいうように。
「これ……」
声が震えた。
「私?」
「他に誰がいるのよ!」
女たちが一斉に叫んだ。歓声が上がった。誰かがオディールに飛びついた。それをきっかけに、次々と女たちが彼女を囲んだ。
「ちょっと、やめて!」
「ラジオよ!」
「わかってる!」
「あなたの歌がラジオで流れてるの!」
「だからわかってるってば!」
そう言いながら、オディールは笑っていた。けれど、その目には涙が浮かんでいた。キットは少し離れた場所に立っていた。腕を組み、いつものように呆れた顔をしている。
「たった一回ラジオで流れたくらいで、大騒ぎするんじゃないわよ」
女たちが振り返った。
「キット!」
「何よ」
「嬉しくないの?」
「誰がそんなこと言ったの」
キットは鼻を鳴らした。そして、誰にも見られないように顔をそむけた。けれどオデットには見えた。キットが、ほんの一瞬、目元を指で拭ったのを。
曲が終わり、部屋が静かになった。DJの声が戻ってくる。
「オディール。覚えておいてください。もしかしたら、これから何度も耳にする名前になるかもしれません」
再び、歓声が上がった。
「聞いた!?」
「何度もですって!」
「スターよ!」
「まだ早いわよ!」
オディールが叫ぶ。
「まだ何も始まってない!」
オデットが人の輪を抜け、彼女の前に立った。二人は顔を見合わせた。騒いでいた女たちが、少しずつ静かになった。オデットは何も言わず、オディールの手を握った。
「ほらね」
「……何が?」
「言ったでしょう」
オデットは笑った。
「あなたの歌は、いつか誰かに届くって」
オディールの唇が震えた。
「たった一曲よ」
「最初は、みんな一曲よ」
「深夜のラジオ」
「それでもラジオよ」
「明日になったら、誰も覚えてないかもしれない」
オデットは首を振った。
「一人は覚えてる」
「誰?」
「私」
オディールは笑った。
「あなたは前から知ってるじゃない」
「じゃあ、二人」
「誰よ」
「今夜、どこかで初めてあなたの歌を聴いた誰か」
オディールは黙った。窓の外にはジュネーブの夜が広がっていた。無数の窓。無数の部屋。そのどこかで、本当に誰かが今、自分の名前を覚えたのだろうか。オディールには信じられなかった。
「シャンパン!」
突然、誰かが叫んだ。
「記念日だから!」
「何の記念日?」
「オディールがスターになった日!」
「なってない!」
オディールの抗議は、再び巻き起こった笑い声にかき消された。結局、誰かが冷蔵庫の奥から一本の安いスパークリングワインを見つけ出した。栓が天井に当たり、キットが悲鳴を上げた。オディールは、その真ん中にいた。笑っていた。泣いていた。何度も「大げさよ」と言いながら、差し出されたグラスを受け取った。
その夜、スワンレイクの窓には、遅くまで灯りがともっていた。まだ誰も知らなかった。深夜のラジオから流れた、ほんの数分の歌が、これから少しずつ多くの人の耳へ届いていくことを。そして、一人の少女の夢が、この家に暮らす女たちの未来まで変えていくことを。オディール自身さえ、まだ知らなかった。階段は、目の前に現れたばかりだった。彼女はまだ、その最初の一段に足をかけたにすぎなかった。
ラジオで歌が流れた翌朝も、ジュネーブの街は何ひとつ変わっていなかった。パン屋にはいつものように焼きたてのパンが並び、路面電車は決まった時刻に停留所へ滑り込み、レマン湖の上には薄い朝靄が漂っていた。オディールもまた、いつもの部屋で目を覚ました。昨夜の騒ぎが嘘だったように、椅子には脱ぎ捨てた服があり、椅子の背にはギターのストラップが引っかかっていた。テーブルの上には、書きかけの歌詞と、飲み残したコーヒー。何も変わっていない。そう思った。
けれど、変化というものは、たいてい大きな音を立ててやって来るわけではない。最初は、電話だった。ラジオを聴いたという小さなライブハウスから、オディールに出演の依頼が来た。次は、別の店からだった。それから、地元の音楽雑誌の若い記者が、短いインタビューをしたいと言ってきた。
「どうして私なの?」
受話器を置くたび、オディールは同じことを言った。スワンレイクの女たちは、そのたびに同じように答えた。
「歌がいいからでしょう」
「声がいいからよ」
「顔もいいわ。もちろん身体もね 笑」
「最後のは関係ないでしょ」
オディールは呆れたように言った。けれど、口元は笑っていた。
数週間後、彼女がいつものライブハウスの扉を開けると、店の中の空気が少し違っていた。椅子が、いつもより多く並んでいる。
「何これ」
オディールが店主に訊いた。
「客が来るんだよ」
「誰の?」
店主はしばらく彼女を見つめたあと、肩をすくめた。
「君のだろう」
オディールは笑った。冗談だと思った。だが、開演時間が近づくにつれ、一つ、また一つと席が埋まっていった。見たことのない顔があった。いつもの常連客ではない。若い女の子。仕事帰りらしい男。年配の夫婦。店の隅には、腕を組んで静かにステージを見つめる者もいた。オディールは舞台袖から客席を覗き、すぐに顔を引っ込めた。
「帰りたい」
隣にいたオデットが笑った。
「どうして?」
「知らない人がいる」
「ライブハウスなんだから、当たり前でしょう」
「今までは知ってる人ばかりだった」
「それはお客さんが少なかったからよ」
「励ましてる?」
「もちろん」
オディールは睨んだ。オデットは笑いながら、彼女の肩を軽く叩いた。
「歌ってきて」
「簡単に言うわね」
「いつも通りでいいのよ」
オディールは客席をもう一度見た。
「いつも通りじゃない」
オデットは少し考えてから言った。
「じゃあ、誰もいないと思えば?」
「無理よ」
「私だけいると思って」
オディールが振り返った。
「あなたは?」
「一番前にいる」
「それが一番安心する」
二人は笑った。
やがて名前を呼ばれた。拍手が起きた。オディールはギターを抱え、ステージへ出た。照明が眩しかった。客席の顔は、よく見えなかった。最初のコードを鳴らした。一つ音を鳴らせば、次の音が分かる。一行歌えば、次の言葉が出てくる。いつの間にか、客席の人数も、知らない顔も、何も気にならなくなっていた。歌い終わったとき、一瞬の静寂があった。そして拍手が起きた。以前より大きな拍手だった。オディールは少し戸惑ったように笑い、頭を下げた。
その夜を境に、客席は少しずつ変わっていった。満席になる日が増えた。立ったまま聴く客も現れた。ライブのあと、名前を呼ばれることも増えた。地元のラジオ局に呼ばれ、短いインタビューを受けた。
「将来の夢は?」
マイクの前で訊かれたとき、オディールは困った。
「世界一の歌手になることです」
そう答えれば、きっと格好がつく。けれど、彼女は言わなかった。
「歌い続けることです」
それが本当だった。
「私の歌を、知らない誰かが聴いてくれたら。それでいいです」
その言葉は、飾り気がなかった。だからこそ、聴いた者の心に残った。
ある夜、ライブを終えたオディールが裏口から出ると、一人の若い女性が立っていた。まだ十代の終わりか、二十歳になったばかりくらいに見えた。オディールを見ると、その女性は一歩近づき、また立ち止まった。
「あの……」
「私?」
女性は頷いた。
「ずっと待ってたの?」
「少しだけです」
その声は震えていた。オディールは困ったように笑った。
「何か?」
女性はしばらく言葉を探していた。そして、小さく息を吸った。
「あなたの歌に、救われました」
オディールは何も言えなかった。冗談でも、大げさな褒め言葉でもないことは、その顔を見れば分かった。
「私、少し前まで、毎日が嫌で」
女性は続けた。
「何をしても意味がないような気がして。でも、ラジオであなたの歌を聴いて……、うまく言えないんですけど、もう少しだけ頑張ってみようと思いました」
オディールはギターケースの持ち手を握りしめた。自分の歌が。自分の部屋で、誰にも聞かせるつもりもなく書き始めた歌が。知らない誰かの夜に入り込んでいた。
「ありがとう」
女性が言った。オディールは慌てて首を振った。
「違う」
「え?」
「私のほうが、ありがとう」
女性は少し驚き、それから笑った。オディールも笑った。その女性が去ったあとも、オディールはしばらくその場に立っていた。街灯の下に、細い雨が降り始めていた。
やがてオデットが裏口から顔を出した。
「何してるの?」
「……何でもない」
二人は並んで歩き出した。しばらくして、オディールが言った。
「ねえ」
「何?」
「歌って、変ね」
「何が?」
「自分のものなのに、歌った瞬間から自分のものじゃなくなる」
オデットは彼女を見た。
「誰かのものになるってこと?」
「たぶん」
オディールは夜の街を見上げた。
「さっき、知らない女の子に、私の歌に救われたって言われた」
オディールは笑った。オデットも笑った。二人は再び歩き出した。昨日までと同じ帰り道だった。同じ石畳。同じ夜風。けれど、オディールには、世界がほんの少しだけ広くなったように思えた。
翌週、ライブハウスの壁に新しいポスターが貼られた。そこには、以前より少し大きな文字で彼女の名前が印刷されていた。不思議だった。自分の名前なのに、自分ではない誰かの名前のように見えた。何人もの人が通り過ぎていく。立ち止まる者もいた。名前を読む者もいた。その中の何人かは、次のライブにやって来るのだろう。階段は、まだ長い。どこまで続いているのかも分からない。けれどオディールは、もう最初の一段にはいなかった。気づかないうちに、二段目へ。三段目へ。彼女は、自分の足で上り始めていた。
オディールの名前が少しずつ街に知られるようになると、スワンレイクでは変化が起こり始めた。最初に変わったのは、居間の壁だった。ある朝、キットが階段を下りてくると、壁の真ん中に新聞の切り抜きが貼られていた。地元紙の小さな文化欄。そこに、ほんの数行だけオディールの名前が載っていた。『ジュネーブのライブシーンで注目を集める若きシンガー、オディール』記事は、それだけだった。けれど、切り抜きの周囲には、金色の紙で作った星が貼られ、その上には大きな文字で、『第一号』と書かれていた。
「何よ、これ」
キットが言った。ソファに座っていた女の一人が、得意げに答えた。
「記念すべき第一号の記事」
「壁に貼る必要がある?」
「もちろん」
「ここは新聞社じゃないのよ」
「でも、歴史は保存しなくちゃ」
キットはため息をついた。翌日、その隣に二枚目の切り抜きが増えた。その次の日には、ラジオ番組の放送時間を書いた紙。スワンレイクの女たちは、誰に頼まれたわけでもないのに忙しくなった。ある者は、オディールが掲載された新聞や雑誌を見つけるたびに買ってきた。一部では足りない。
「保存用と、閲覧用と、予備」
「予備って何よ」
「何かあったときのため」
「何があるのよ」
別の女は、ライブのたびにオディールの衣装へ口を出した。
「それは駄目」
出かけようとするオディールを玄関で止める。
「どうして?」
「地味すぎる」
「歌を歌いに行くのよ」
「だからよ」
「これでいい」
「よくない」
そこへ別の女が現れる。
「派手すぎるのも駄目よ。歌より服が目立つ」
「じゃあ、どうすればいいのよ!」
結局、三人がかりでオディールの服を選び始める。さらに髪に触る者が現れ、靴を持ってくる者が現れ、最後にはキットが怒鳴った。
「その子は着せ替え人形じゃないのよ!」
オディールは深く頷いた。
「そうよ」
キットは彼女を上から下まで見た。
「でも、その靴は変えたほうがいいわね」
「キット!」
また笑いが起きた。
電話番を始めた者もいた。
「はい、スワンレイクです」
キットが振り返る。
「ちょっと待ちなさい。どうしてあんたが店の電話に出るのよ」
「オディールへの出演依頼かもしれないでしょう。キットは愛想が悪いから」
「何ですって?」
受話器を押さえながら、その女は小声で言った。
「ほら、こういうところ」
その日の午後、電話の横には一冊のノートが置かれた。表紙には大きく『オディール予定表』と書かれていた。誰かがライブの日程を書き込み、誰かがラジオ出演の時間を書き加えた。に、
オデットは、その光景を少し離れたところから眺めていた。不思議だった。
ほんの少し前まで、スワンレイクの女たちは、それぞれが自分の一日を生きることで精いっぱいだった。過去を語らない者もいた。未来を考えない者もいた。明日のことなど、明日になってから考えればいい。そうやって生きてきた女たちだった。けれど今、彼女たちはオディールの明日の予定を気にしている。次のライブを心配し、衣装を考え、記事を集め、電話を取り、誰より大きな声で彼女の成功を喜んでいる。
ある夜、ライブから戻ったオディールが扉を開けると、居間には十人近い女たちが待っていた。
「何?」
全員が黙っている。
「怖いんだけど」
一人が新聞を差し出した。
文化面に、オディールの写真が載っていた。今度は数行ではなかった。小さいながらも、彼女の音楽についての記事だった。オディールはしばらく黙って読んだ。その間、女たちは彼女の顔を見つめていた。
「……だから?」
オディールが言った。
一瞬の沈黙。そして、歓声が上がった。
「載った!」
「見て、この大きさ!」
「前より十倍!」
「十倍はないわよ」
「いいの、気持ちの問題よ!」
誰かがオディールを抱きしめた。次の一人も抱きしめた。
「苦しい!」
「スター!」
「やめて!」
「私たちのスター!」
「まだスターじゃない!」
その言葉に、キットが奥から顔を出した。
「そうよ」
女たちが静かになった。キットは腕を組んで言った。
「あんたたち。まだグラミー賞を獲ったわけじゃないのよ」
すると、ひとりの女が真顔で答えた。
「じゃあ、今から準備しておかなくちゃ」
一拍置いて、部屋中が笑いに包まれた。キットまで吹き出した。
「馬鹿ね、あんたたちは」
そう言いながら、誰よりうれしそうだった。オディールは、笑い声の真ん中に立っていた。胸の奥が熱かった。自分が成功することを、こんなにも喜んでくれる人たちがいる。泣きたくなった。
「ねえ」
オディールが言った。
誰も聞いていない。
「ねえってば!」
ようやく静かになった。オディールは少し照れたように言った。
「ありがとう」
女たちは顔を見合わせた。そして一人が言った。
「何が?」
「もういい!」
再び笑いが起きた。
その夜、新聞の記事は壁の中央に貼られた。キットは少し離れたところから、壁の切り抜きを見上げていた。そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「羽ばたきなさい、オディール」
その目には、母親のような誇らしさがあった。居間では、また誰かが騒ぎ始めた。
「次のライブ、何を着る?」
「だから、勝手に決めないで!」
「髪は?」
「触らないで!」
「写真を撮られるかもしれないわよ!」
「もう寝る!」
オディールは階段を駆け上がった。その後ろを、笑い声が追いかけていった。スワンレイクは、まだ何も変わっていなかった。古い壁。きしむ階段。狭い部屋。けれど、その家の中には、これまでにはなかったものが生まれ始めていた。誰かの夢を、自分の夢のように信じる気持ち。そして、新しい未来のかたちが。
オディールの名前が街のあちこちで聞かれるようになっても、ジュリアンの生活は、表向きには何も変わらなかった。朝が来れば起き、仕事へ行き、夜になれば家へ帰る。けれど、街角の小さなポスターに彼女の名前を見つけるたび、足が止まった。よく笑い、思ったことを隠すのが下手で、ギターを抱くと急に別人のような顔をする女。今、その名前を知らない人たちが口にしている。
「オディールって知ってる?」
「ラジオで聴いた」
「今度、ライブに行くんだ」
そんな会話が、カフェの隣の席から聞こえてくることがあった。ジュリアンは、そのたびに何も知らないふりをした。けれど、心の中では小さく笑った。知っている。彼女がまだ誰にも知られていなかった頃から。夢を語るときだけ少し恥ずかしそうにすることも。自分の歌を褒められると、素直に喜べず、わざとそっけない顔をすることも。知っている。オディールは、自分の力で歩いている。誰かに道を用意されたのでもない。彼女自身の歌が、扉を一つずつ開けている。それが、ジュリアンには何よりうれしかった。その夜も、ジュリアンはオディールのライブハウスへ向かった。入口の前には、以前にはなかった小さな列ができていた。若い男女が話しながら開場を待っている。その光景を見て、ジュリアンは誇らしかった。自分には何の権利もないのに。客席のいちばん後ろに立った。そこなら、彼女からは見えないと思った。
照明が落ちる。ざわめきが消える。
オディールがステージへ現れた。拍手が起きた。ジュリアンも拍手をした。以前より少しだけ、彼女は堂々として見えた。けれど、ギターを抱える仕草は変わらない。最初の音を鳴らす前、一度だけ小さく息を吸う癖も。変わっていない。そう思うと、なぜか安心した。
歌が始まった。客席は静かだった。何十人もの人間が、たった一人の声を聴いている。ジュリアンは、その光景を見つめた。昔、オディールが言ったことを思い出した。『知らない誰かが、私の歌を聴いてくれたらいい』。その知らない誰かが、今、こんなにいる。夢というものは、叶う瞬間には音がしないのかもしれない。気づかないうちに、少しずつ現実へ姿を変えていく。
ジュリアンは、ステージの上のオディールを見つめた。きれいだと思った。衣装でも、照明でもない。自分のいるべき場所を見つけ始めた人間の顔だった。ライブが終わっても、客たちはなかなか帰ろうとしなかった。オディールの名前を呼ぶ声。感想を語り合う声。次のライブの日程を訊く声。ジュリアンは、人の波を避けるように出口へ向かった。会わなくていい。今日も、ただオディールの歌を聴きたかった。それだけで十分だった。
外へ出ると、夜の空気が冷たかった。ジュリアンは上着の襟を立て、歩き始めた。
「ジュリアン」
足が止まった。振り返ると、オデットが立っていた。ライブハウスの扉の前で、腕を組んでいる。
「やっぱり来てたのね」
「……気づいてたのか」
「私はね」
「オディールは?」
オデットは少し笑った。
「さあ」
ジュリアンは視線をそらした。
「言わなくていい」
「どうして?」
オデットは彼の隣まで歩いてきた。二人はしばらく、何も言わずに通りを見ていた。
「喜んでるでしょう」
オデットが言った。
「何を?」
「オディールのこと」
「もちろん」
「だったら、そう言えばいいのに」
「言わなくてもいいこともある」
オデットは彼を見た。
「どうして、そんなに遠くにいるの?」
ジュリアンは答えなかった。通りの向こうを、一台の車が走り過ぎた。
「彼女は今、大事な時期だ」
ようやくジュリアンが言った。
「だから?」
「余計なものはいらない」
「自分が余計だと思ってるの?」
それは、彼が初めて口にした本音だった。オデットは黙った。
「彼女はこれから、もっと忙しくなる。もっと多くの人に会う。もっと遠くへ行くかもしれない」
「そうね」
「俺がそばにいる必要はない」
オデットは少し考えてから言った。
「必要かどうかを決めるのは、あなたじゃないんじゃない?」
ジュリアンが彼女を見た。
「オディールが決めることよ」
その言葉だけを残し、オデットはライブハウスへ戻っていった。ジュリアンはしばらく、その場に立っていた。扉の向こうから、笑い声が聞こえる。オディールの声も混じっているような気がした。扉を開ければ、会える。ほんの数歩だった。けれど、ジュリアンはその夜も扉を開けなかった。彼女の人生に自分が必要なのか。答えはわからない。ただ一つわかっていることがあった。彼女の歌を、これからも聴きたい。彼女がどこまで行くのか、見届けたい。たとえ、いちばん近くでなくても。ジュリアンは歩き出した。その背後で、ライブハウスの扉が開いた。オディールが外へ出てきた。
「……ジュリアン?」
けれど、彼はもう角を曲がるところだった。オディールは、その後ろ姿を見つめた。追いかけることはできた。名前を呼ぶことも。けれど、しなかった。ただ、少しだけ笑った。「やっぱり来てたんだ」小さく呟いた。そして彼女は、しばらく彼が消えた角を見つめていた。ジュリアンは知らなかった。自分が客席のいちばん後ろにいることを、オディールがずっと前から知っていたことを。人が増えても。照明が眩しくなっても。拍手が大きくなっても。なぜか彼女は、彼を見つけることができた。いつも、少し離れた場所にいる人を。
数日後。その夜のライブは、これまでとは少し違っていた。会場は、オディールがいつも歌っていた小さなライブハウスよりも広かった。客席には百を超える椅子が並び、ステージの上には何本もの照明が吊られていた。オディールは楽屋の鏡の前に座り、自分の顔を見ていた。鏡の周りには丸い電球が並んでいる。
「映画みたい」
そう呟くと、背後にいたオデットが笑った。
「緊張してる?」
「少しだけ」
「どのくらい?」
「帰りたいくらい」
オデットは笑った。
「それは、かなりね」
そのとき、楽屋の扉が勢いよく開いて、スワンレイクの女の一人が飛び込んできた。
「何?」
「外、見た?」
「見てない」
「人が並んでる!」
「ライブなんだから、並ぶでしょう」
「そういう意味じゃないの。あなたを見に来た人たちよ!」
その後ろから、別の女が顔を出した。
「新聞の記者もいるわ」
「え?」
「写真を撮ってた」
「聞いてない」
「私も聞いてない」
「誰に聞くのよ」
さらにもう一人が入ってきた。
「髪、大丈夫?口紅は?」
「これでいい」
開演を知らせる声がした。オデットはオディールの肩に手を置いた。
「行ってらっしゃい」
オディールは立ち上がり、ギターを手にした。舞台袖まで歩く。幕の向こうから、人のざわめきが聞こえた。以前なら、その音を怖いと思ったかもしれない。けれど今は違った。あの人たちは、自分の歌を聴くために来た。そう思うと、怖さの中に、別の感情が生まれた。うれしかった。名前を呼ばれた。拍手が起きた。オディールはステージへ出た。光が眩しかった。客席は暗く、最初は何も見えなかった。彼女はマイクの前に立った。
「こんばんは」
拍手が返ってきた。少し笑った。
「こんなにたくさんの人の前で歌うのは、初めてです」
最初の曲を歌った。次の曲。そして、もう一曲。歌うたびに、客席との距離が近くなる。
自分の声が、目の前にいる人たちへ届いていく。その感覚がわかるようになっていた。四曲目を終えたとき、オディールは水を一口飲んだ。そして客席を見た。前の列。中央。通路。最後列。オディールの手が止まった。いちばん後ろの壁際にジュリアンが立っていた。いつものように、少し離れた場所に。彼は拍手をしていた。ただ、静かに。オディールは彼を見た。ジュリアンも彼女を見た。ほんの一瞬だった。けれど、オディールには十分だった。やっぱり来ていた。胸の奥に、小さな灯りがともったような気がした。オディールは、ほんの少しだけ笑った。その笑顔が自分に向けられたものなのか、ジュリアンにはわからなかった。けれど彼も、少し笑った。
オディールはマイクに向き直った。
「次の曲は」
一度、息を吸った。
「まだ、あまり人前で歌ったことのない曲です」
客席が静かになった。
「誰かを好きになることは、いつも、そばにいることなのか。そんなことを考えながら書きました」
ジュリアンは顔を上げた。オディールはギターの弦に指を置いた。
「離れていても、見つけてしまう人がいる。そんな歌です」
最初の音が鳴った。それは恋のバラードだった。派手なメロディではない。けれど、言葉が一つずつ、夜の水面に落ちるように広がっていった。ジュリアンは動かなかった。この歌が自分のためのものだとは思わなかった。思う資格もないような気がした。それでも、胸の奥のどこかが温かなものが広がっていた。ステージの上で、オディールは歌っていた。彼を見てはいなかった。けれど、彼がそこにいることを知っていた。歌が終わった。一瞬の静寂。そして、大きな拍手が起きた。ジュリアンも拍手をした。オディールは深く頭を下げた。
その夜、ライブが終わっても、会場の熱はなかなか冷めなかった。オディールの周りには人が集まった。握手を求める人。感想を伝える人。次のライブについて訊く人。スワンレイクの女たちは、いつの間にか自然に動いていた。
「一列に並んで!」
「押さないで!」
「オディール、少し水を飲んで」
「次の人、どうぞ」
オデットは少し離れたところで、その光景を見て笑っていた。キットは腕を組みながら、呆れた顔をしていた。
「まったく」
そう言いながら、その目は誇らしげだった。オディールは何度も礼を言った。何度も笑った。けれど、ときどき入口のほうを見た。ジュリアンの姿は、もうなかった。帰ったのだろう。それでよかった。不思議と寂しくはなかった。彼は来た。それだけでよかった。
夜遅く、オディールたちはスワンレイクへ戻った。扉を開けた瞬間、オディールは立ち止まった。居間には手作りの飾りがぶら下がっていた。テーブルの上には料理が並んでいた。少し焦げたパイ。手作りのケーキ。そしてシャンパンが何本も。
「何、これ」
オディールが言った。
「祝勝会!」
皆が口々に言った。シャンパンの栓が飛んだ。歓声が上がった。音楽が流れた。誰かが踊り始めた。オデットは笑いながらオディールにシャンパンのグラスを渡した。
「おめでとう」
オデットとオディールは部屋を見回した。キットが、女たちが笑っている。歌っている。踊っている。誰かが焦げたパイを切り分けている。誰かがまた新聞の記事を壁に貼っている。きしむ床。不揃いのグラス。何も豪華ではない。けれど、オディールは思った。自分は、ここから出ていくために歌っていたのではない。ここで生まれた歌を、外の世界へ届けたかったのだ。そして、どれほど遠くへ行っても、帰ってくる場所はここなのだ。
「ねえ、オディール!」
誰かが叫んだ。
「次はもっと大きな会場よ!」
「気が早い!」
「その次はパリ!」
「もっと気が早い!」
「その次はニューヨーク!」
「もう黙って!」
笑い声が弾けた。オディールはグラスを掲げた。
「まだ何も始まってないわよ」
その言葉に、少しだけ静けさが戻った。キットが彼女を見た。そして、ゆっくり笑った。
「いいえ」
オディールが振り返る。キットはグラスを持ち上げた。
「始まったのよ」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。やがて一人がグラスを上げた。もう一人。そして全員が。グラスが触れ合う音が、古い居間に響いた。その夜、スワンレイクの窓には、いつまでも灯りがともっていた。笑い声があり、歌声があり、誰かが開けたシャンパンの音がした。まだ誰も知らなかった。この家から、一人の歌手が羽ばたいていくことを。そして、その翼がやがて、ここに暮らす女たちの人生までも、思いもよらない場所へ運んでいくことを。夜が深くなり、宴が少し静かになった頃。オディールは一人、窓辺に立った。遠くには、レマン湖の水面が静かに光っていた。今日も、客席のいちばん後ろにジュリアンがいた。オディールの胸があたたかな感情で満たされた。白鳥は、生まれた場所を忘れない。けれど、飛ぶことを恐れてもいけない。オディールは窓を開けた。冷たい夜の風が、部屋いっぱいの笑い声を揺らした。




