7. 小さなステージ
薄暮が街を藍色に染め始める頃、小さなライブハウスの扉が静かに開いた。
客席は三十席ほど。古いアップライトピアノと小さなステージだけが、この店の誇りだった。
「次は、新人シンガーのオディールです」
紹介はそれだけだった。拍手もまばらなまま、オディールは愛用のギターを抱え、ゆっくりとステージへ歩く。日雇い契約の歌手。今日歌えたとしても、明日もこの店に立てる保証はない。それでも彼女は深く息を吸い、静かに微笑んだ。最初の曲では、客たちはグラスを傾け、思い思いの会話を続けていた。だが二曲目、自ら作詞作曲した歌を歌い始めると、店の空気が少しずつ変わる。飾らない声は、どこか切なく、それでいて未来を信じる力を秘めていた。曲が終わる頃には店内は静まり返り、やがて温かな拍手が広がる。オディールは何度も頭を下げた。その拍手だけで、今日も歌い続けてよかったと思えた。楽屋と呼ぶには小さすぎる控室でギターをしまうと、店主が封筒を差し出した。
「今日の出演料だよ。また都合が合えば頼む」
決して多くはない金額だったそれでもオディールは大切そうに封筒をバッグへしまい、「ありがとうございます」と答えた。
店の外へ出ると、オデットが待っていた。
「お疲れさま」
「待たせちゃった?」
「ううん。最後の曲、本当に素敵だった」
オデットはそう言って、そっと親友を抱きしめる。
「いつかもっと大きなステージで歌えるよ」
オディールは照れくさそうに笑い、首を横に振った。
「今はね、こうして一人でも私の歌を聴いてくれる人がいるだけで幸せ」
二人は駅前の小さなカフェへ入った。ワインのグラスを傾けながら、夢の話をする。
「あなたは世界一の時計職人になって」
「じゃあ、あなたは世界中に歌を届けて」
二人は顔を見合わせて笑った。
「まだ小さなステージだけれど、一曲一曲、大切に歌っていきたい」
オディールはグラスを見つめながら微笑んだ。その横顔を見て、オデットも静かに頷く。
「きっと大丈夫。あなたの歌は、人の心にちゃんと届いているもの」
そのとき、店のベルが澄んだ音を立てた。
「失礼。ここ、空いているかな」
振り返ると、そこにはジュリアンが立っていた。
「ジュリアン!」
驚く二人に、彼は少し照れたように笑った。
「実は、さっきまでライブハウスにいたんだ。後ろの方で聴いていた」
オディールは目を丸くする。
「来てくれていたの?」
「終わったあと声を掛けようと思ったけれど見失ってしまって。外を歩いていたら、窓辺に君たちの姿が見えたんだ」
そう言うとジュリアンは、そっと花束を差し出した。
「今日のステージも、本当に素晴らしかった。おめでとう。君の歌声に敬意を表して」
オディールは少しだけ目を潤ませながら、その花束を両手で受け取る。
「ありがとう……。こんな花束をもらったの、初めて」
「君の歌に、お礼を言いたかっただけさ」
テーブルを包む空気がふっと柔らかくなる。オデットはそんな二人を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「今日は乾杯がもう一回必要ね」
三人はワイングラスを静かに重ねた。澄んだ音がカフェに響く。それは、友情と、まだ名前のついていない小さな想いが、静かに動き始めた瞬間だった。




