4. 時を刻む人々
再び時計学校を訪れた健は、理事長のクレイに案内され、校内を見学していた。
午後の光が大きな窓から斜めに差し込み、机の上に並ぶ細かな歯車やねじ、ピンセット、ルーペを静かに照らしている。学生たちはそれぞれの席で、黙々とムーブメントに向き合っていた。健は、その光景に目を細めた。教室の一角では、昼休みになってもオデットだけが机を離れようとしなかった。クレイが穏やかに笑う。
「彼女は時間を忘れてしまうんです」
健も微笑んだ。
「私も学生時代、時計の構造は勉強しました。でも、職人にはなれませんでした」
クレイが興味深そうに尋ねた。
「後悔はありませんか?」
健は静かに首を振った。
「ありません。私の仕事は時計を作ることではなく、時計を作る人たちが最高の仕事のできる環境を整えることです」
そして、教室のなかを見渡した。
「優れた職人や技術者と出会い、その才能を信じ、世界へ届ける。それが経営者である私の役目だと思っています」
クレイは嬉しそうにうなずいた。
「だから神崎ホールディングスは長く愛されているのでしょう」
オデットは設計図と向き合っていた。分解されたムーブメントを前に、彼女の手がふと止まる。課題は、ほとんど終わっていた。そこへクレイが近づいてきた。
「どうした?」
オデットは顔を上げた。
「いえ。もう少しで終わります」
「それは見ればわかる」
クレイは椅子の背に手を置いた。
「君は正確だ。手もいい。だからこそ、聞いてみたい。君は、どんな時計を作りたい?」
思いがけない問いだった。
「ーーどんな、時計?」
「正確な時計を作れる者はいる。美しい時計を作れる者もいる。複雑な機構を組める者もいる。では、君は何を作りたい?」
オデットは答えられなかった。時計師になりたい。それは、ずっと思っていた。手に職をつけること。自分の力で生きていくこと。誰にも奪われない技術を身につけること。けれど、その先を考えたことはなかった。自分は、何を作りたいのだろう。クレイは答えを急がせなかった。
「今すぐわからなくてもいい。だが、いつか考えることになる。技術は、何かを形にするためにあるからね」
そう言って、クレイは次の机へ歩いていった。オデットは、もう一度、目の前のムーブメントを見た。小さな歯車が、光を受けて静かに輝いている。何十年たっても、大切にしてもらえる時計。以前、オディールに話した自分の言葉を、ふと思い出した。それだけでいいと思っていた。けれど、もし。その時計を手にした誰かが、忘れたくないものを思い出せるとしたら。遠く離れた人を、ほんの一瞬でも近くに感じられるとしたら。オデットは、自分でもまだ名前をつけられない思いを胸の奥にしまった。窓の外から、教会の鐘が聞こえた。まだ、答えはなかった。けれど初めて、時計師になることの先にあるものを考え始めていた。
オデットの机に歩み寄った健は、設計図をのぞき込み、苦笑した。
「正直に言います。部品の名前も構造も分かります。でも、その設計図までは読み切れません」
オデットは少し驚いた。健は続けた。
「だからこそ、職人を尊敬しています。私には作れません。でも、本当に良い仕事かどうかを見抜く努力は続けています」
オデットは初めて、健を経営者として尊敬の眼差しで見つめた。この人は、知ったかぶりをしない。わからないことを、分からないと言える人なのだ。健は机の上の設計ノートを見つめた。ページいっぱいに描かれた線。何度も書き直された跡。その努力が、何より雄弁にオデットの才能を語っていた。この少女には、才能がある。それは、一人の経営者として健が抱いた確信だった。
その夜、スワンレイクの二階では、同じ短い旋律が何度も繰り返されていた。オディールはベッドの端に腰掛け、ギターを抱えていた。一度歌っては止まり、コードを書き直す。また歌って、首を傾げる。向かいのベッドで本を読んでいたオデットは、とうとう顔を上げた。
「さっきのほうが好き」
「どの、さっき?」
「三回くらい前」
「わからない」
「私も」
二人は顔を見合わせ、笑った。オディールはギターを置き、枕元にあった一枚の紙を手に取った。
「これ、見つけたの」
オデットに差し出したのは、小さなライブハウスの出演者募集の紙だった。そこには『新人歓迎。オリジナル曲可』と書かれていた。
「応募するの?」
オデットが聞いた。
「わからない」
「歌いたいんでしょう?」
「歌いたい」
「じゃあ」
「でも、怖い」
その言葉は、思ったより小さかった。オデットは黙った。オディールは自嘲するように笑った。
「変よね。歌手になりたいって言ってるくせに、人に聴かれるのが怖いなんて」
「変じゃないと思う」
「そう?」
「怖くないなら、夢じゃないのかもしれない」
オディールは、オデットを見た。
「何それ」
「今、思った」
「適当」
「うん」
また二人は笑った。
数日後、ジュリアンはスワンレイクを訪れていた。彼はキットとも顔なじみで、女たちの賑やかさにも、もう驚かない。その日も一階では誰かが大声で笑い、別の誰かが電話の相手と口論し、台所からは焦げた匂いがしていた。
「今日も静かだね」
ジュリアンが言うと、キットは呆れた顔をした。
「どこがだい」
二階から、ギターの音が聞こえた。ジュリアンは顔を上げた。
「朝から同じところを何十回もやってる。そのうち床が覚えるんじゃないかね」
ジュリアンは笑った。
しばらくしてオディールが階段を下りてきた。ジュリアンは、彼女の手に握られた紙を見た。
「それは?」
オディールは反射的に紙を背中へ隠した。
「何でもない」
ジュリアンはそれ以上聞かなかった。その態度がかえって気になったのか、オディールはしばらくして自分から紙を差し出した。
「小さなライブハウス。出演者を募集してる」
ジュリアンは、ライブハウスの出演者募集の紙を読んだ。
「応募するの?」
「まだ決めてない」
「どうして?」
「私より上手い人なんて、いくらでもいるからーー」
ジュリアンは紙から顔を上げた。
「上手いかどうかだけじゃないと思う」
オディールは黙った。ジュリアンは少し考えてから言った。
「君が歌うと、聴いている人が、少しだけ自分のことを考える」
「……どういう意味?」
「うまく言えないけど。自分が忘れていたこととか、誰かに言えなかったこととか。そういうものを思い出す」
オディールは、いつものように冗談で返そうとした。けれど、できなかった。ジュリアンの顔が真剣だったからだ。
「それは、誰にでもできることじゃない」
「でも、失敗したら?」
「また歌えばいい」
ジュリアンは微笑んだ。
その夜、オディールは応募用紙に名前を書いた。彼女は小さく息を吐いた。夢が叶ったわけではない。何も始まってすらいない。それでも、それは彼女が自分の意志で選んだ最初の一歩だった。
同じ頃、健はジュネーブのホテルの一室で、時計学校から受け取った資料を読み返していた。
窓の外には、夜の街の灯りが広がっている。テーブルの上には、フェアの資料、新作の市場分析、取引先との面談予定。その一番端に、学生たちの実習内容についてまとめた書類があった。健は、そのページを何度も開いていた。若い時計師を育てること。技術を継承すること。言葉にすれば簡単だ。だが、学校を卒業した若者たちが、全員、自分の作りたい時計を作れるわけではない。工房に入れない者もいる。生活のために別の道を選ぶ者もいる。そして、才能があることと、その才能を生かせる場所があることは、同じではなかった。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは鈴木だった。
「明日の予定表をお持ちしました」
「ありがとうございます」
鈴木が予定表を置こうとしたとき、健の前に開かれた書類に気づいた。
「鈴木さん。ああいう若い人たちが、卒業したあとも時計を作り続けられる場所って、どのくらいあるんでしょうね」
鈴木は少し考えた。
「十分とは言えないでしょうな」
「ですよね」
健は窓の外を見た。
「僕には、あの人たちのように時計は作れません。ムーブメントの構造は学びました。時計がどう作られるかも知っている。でも、僕は職人じゃない」
神崎ホールディングスの後継者として、時計について学んできた。だが、ピンセットを持ち、一つの時計に何百時間も向き合う人間とは違う。
「だからこそ、できることがあるのではないでしょうか」
鈴木が言った。
「職人ではなく、経営者だからこそ作れるものもございます」
「経営者が作るもの?」
「場所です」
鈴木は静かに言った。
「才能のある人間が、才能を使い続けられる場所を」
健は黙った。昼間の教室が浮かんだ。ルーペを目に当て、時計に向き合う若者たち。ーーそして、オデット。
「場所、か」
健は呟いた。神崎ホールディングスは、これまで何を継承してきたのだろう。技術。ブランド。けれど、それだけではないのかもしれない。人が育つ場所を残すこと。次の世代が、自分たちには作れなかった時計を作れるようにすること。それもまた、継承なのではないか。
「鈴木さん」
「はい」
「帰国したら、若手の育成について、もう一度会議を開きましょう」
鈴木は、ほんの少しだけ目を細めた。
「かしこまりました」
まだ何も決まってはいなかった。ただ、一つの考えが、初めて健の中に生まれていた。時計を作る人間と、時計を作り続けられる場所。その二つをつなぐことが、自分の仕事なのかもしれない。
数日後。
時計学校の実習室で、クレイがある提案をオデットにしていた。
「ところで、オデット。前に話していた、お母さんの形見の懐中時計があったね」
オデットは胸元に手をやった。
「はい。数ヶ月前に針が止まってしまって」
胸のポケットから、古い銀製の懐中時計を取り出した。裏蓋には、レマン湖の白鳥のモチーフが刻印されていた。
「今の君なら、この懐中時計のオーバーホールに挑戦できると思う」
クレイが言葉を続けた。
「卒業制作とは別に、特別な課題としてやってみないか。自分にとって大切な時計と向き合うことは、きっと君のこれからにもつながる」
オデットは、手の中の懐中時計を見つめた。母が遺した時計。幼いころから、何度となく掌に載せてきた時計。
「私に、この古い懐中時計のオーバーホールができますか?」
クレイは微笑んだ。
「時計師なら、いつか大切な時計ほど自分の手で触れなければならない時が来る」
オデットはしばらく黙っていた。やがて、懐中時計を両手で包み込むようにして、きっぱりとうなずいた。
「やります」
その日の夕方、オデットはオディールとレマン湖のほとりを歩いていた。夕方の水面に、白鳥が一羽、ゆっくりと進んでいる。
「出した」
突然、オディールが言った。
「何を?」
「応募用紙」
オデットは足を止めた。
「本当に?」
「そんなに驚く?」
「驚く。だって、ずっと迷ってたから」
オディールは湖を見た。
「まだ出られるって決まったわけじゃない」
「うん」
「落ちるかもしれない」
「うん。でも、出したんでしょう?」
オディールは少しだけ笑った。
「出した」
二人はまた歩き始めた。
「オデットは?」
「私?」
「どんな時計を作りたいか、わかった?」
オデットは少し考えた。
「まだわからない」
「じゃあ、私と同じね」
「何が?」
「まだ夢の途中」
オデットは笑った。胸元には、母の銀の懐中時計があった。一人は、歌を誰かに届けるための一歩を踏み出した。一人は、自分が時計に何を託したいのかを考え始めた。そして二人の知らない場所では、その才能を支えるための場所について考え始めた人がいた。まだ、誰の未来も形にはなっていなかった。けれど、それぞれの時間は、もう静かに動き始めていた。
《副音声コメンタリー》
時計学校の理事長・クレイは、複雑な生い立ちのオデットが一人前の時計師となるよう導き育てる、この物語の影のキーパーソンです。そして、もうひとりの愛すべきキーパーソンは、学生時代からオディールに想いを寄せるクレイの息子・ジュリアン。ジュリアンは、いつでもオディールを優しく見守ります。ルックスイメージは、ずうずうしいのですが、若かりし頃のアンドリュー・マッカーシーさんでお願いします。(by 作者)




