5. 秘密の刻印
数日後の午後、時計学校の実習室には、いつもより張りつめた静けさが漂っていた。
高い窓から差し込む淡い光が、整然と並ぶ机の上を斜めに横切っている。研磨剤と金属、わずかな油の匂い。壁際では古い振り子時計が、規則正しく時を刻んでいた。オデットの机には白い作業布が敷かれ、その中央に、銀の懐中時計が置かれていた。母、ヴィヴィアンの形見。裏蓋には、レマン湖を渡る白鳥を思わせる優美な彫刻が施されている。長い年月を経た銀は柔らかな曇りを帯びていた。オデットは椅子に腰を下ろしたまま、まだ工具には触れず、懐中時計を見つめていた。
「緊張していますか」
傍らに立つクレイが、穏やかに尋ねた。
「はい」
オデットは小さく息を吐いた。
「普通の時計なら、ここまで怖くはないと思います。もし壊してしまったらーー。母から残されたものは、これだけなので」
クレイは白い布の上の時計へ目を落とした。
「時計は、壊さないために閉じておくものではありません。再び時を刻ませるために、開くのです」
その言葉に、オデットはゆっくりとうなずいた。
少し離れた場所で。健と鈴木が見守っていた。
健は、若い時計師の育成と、神崎ホールディングスのスイス工房との連携についてクレイと話し合うため、再び学校を訪れていた。会談を終えたところで、オデットが母の形見を自らオーバーホールすると聞き、作業を見学させてもらうことになったのだ。
「私たちは後ろで見ています。どうか気にしないでください」
健が言うと、オデットは会釈した。
「ありがとうございます」
鈴木は、その隣で黙って懐中時計を見つめていた。白鳥の彫刻。銀のケース。古い時代のやわらかな丸み。胸の奥で、説明のつかない感覚がわずかに揺れた。しかし、よく似た懐中時計など珍しくはない。まして二十年も前の記憶だ。だが、しかし……。
オデットはルーペを目に当てた。
まずケースの状態を確かめ、巻き真や蝶番の動きを見る。やがて細い工具を差し入れ、慎重に裏蓋を開いた。現れたムーブメントは、古い懐中時計としてはごく端正なものだった。だが歯車の面取りや受けの仕上げには、作り手の誠実さが残っていた。一本目のねじへドライバーを当てる。焦らない。力をかけすぎない。小さなねじが静かに外れ、部品皿へ置かれた。次に、受け板。歯車。香箱。オデットの指先は迷いなく動いた。だが、そこには慣れからくる乱雑さがなかった。ひとつ外すたびに位置を確かめ、白い布の上へ順序正しく並べていく。
健は、その所作を見つめていた。
経営者として時計を学んできた彼には、オデットの手の確かさが分かった。一つの部品に宿る役割を理解している者の手だった。鈴木もまた、作業台から目を離さなかった。ただし彼が見ていたのは、技術だけではなかった。懐中時計の奥へ近づくほど、胸の中の古い記憶が、ゆっくり形を持ちはじめていた。
「ここからは、少し固着しています」
オデットが言った。地板に近い薄い受けを外そうとしていた。長く開けられなかったためか、油が乾き、金属同士がわずかに貼りついている。クレイが横から覗き込む。
「無理に持ち上げないことです。周囲を少しずつ緩めなさい」
「はい」
オデットは工具の角度を変えた。ごくわずかに、受けが浮く。さらに力を逃がしながら持ち上げると、薄い金属板が静かに離れた。その下に、これまで隠れていた地板の一部が現れた。オデットは手を止めた。
「……何か、あります」
微細な傷とも装飾ともつかないものが、光の角度によって浮かんでいた。クレイが首を傾ける。
「文字でしょうか」
オデットは作業灯を寄せた。健も目を凝らしたが、遠目には何が刻まれているのかわからない。
「続けます」
オデットがクレイに尋ねた。
「ああ。刻まれた面を傷つけないように」
オデットは再びルーペをつけた。地板の角度を変え、光を横から当てる。すると、浅く細い文字が、少しずつ形を現した。
「フランス語ですね」
クレイが言った。オデットの唇が、最初の言葉をなぞる。
「À Vivian……」
その名が実習室に落ちた瞬間、鈴木の中で何かが決定的に結びついた。
ヴィヴィアンーー!二十年間、智が探し続けてきた女性。私立探偵を雇い、わずかな手がかりに希望をつなぎ、それでも見つけられなかった名前。健は、刻印とオデットを交互に見た。
「ヴィヴィアン……、お母さまのお名前ですか?」
オデットは目を上げた。
「はい。母の名前です」
鈴木は息を呑んだ。彼は一歩進み、深く頭を下げた。
「オデットさん。大変失礼ですが、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「お母様のお名前を、あらためてお聞かせいただけますか」
オデットは、なぜだろうという顔をした。しかし鈴木の真剣な表情を見て、静かに答えた。
「ヴィヴィアンです。ヴィヴィアン・リングウォルドといいました」
鈴木の視界が、わずかに滲んだ。間違いない。この懐中時計は、社長がヴィヴィアン様に贈られたものだ。そして、その形見を母から受け継いだこの目の前の若い女性は……。鈴木は、声を失った。
オデットは再び刻印へ視線を戻した。
「続きがあります」
小さな文字を、光の中で一語ずつ追っていく。
「Pour que notre temps ne s’arrête jamais.」
クレイが静かに訳した。
「僕たちの時間が、決して止まらないように」
実習室の壁で、古い振り子時計が時を刻んでいた。止まった懐中時計の奥から現れた言葉は、まるで二十年の沈黙を越えて、その場にいる者へ届いたようだった。オデットは何も言わず、刻印を見つめた。母には、こんな言葉を贈った人がいた。自分が知らない、母の時間。誰かと過ごし、誰かに愛された時間。胸の奥に、小さな痛みと温かさが同時に広がった。
「最後に、イニシャルがあります」
オデットが言った。刻まれていたのは、たった一文字だった。『T』。
健が低く繰り返す。
「T……」
クレイも首を傾けた。
「贈り主のイニシャルでしょう」
「母から聞いたことはありません」
オデットは言った。
「父のことも、この時計を誰からもらったのかも。母は何も話さないまま亡くなりました」
健は、オデットの横顔を見つめた。その言葉に、自分でも説明できない痛みを覚えた。だが鈴木には、もう説明がついていた。T。智。二十年前、若き智が、完成した懐中時計を光にかざしていた。鈴木が「何か刻まれたのですか」と尋ねると、智は時計の蓋を閉じ、照れたように笑った。鈴木は、目の前の懐中時計を見た。智がヴィヴィアンへ贈った時計。ヴィヴィアンの名。智のイニシャル。そして、その時計を形見として持つオデット。疑う余地はなかった。この方は、社長の娘だ。同時に、健の妹なのだ。鈴木は、健へ目を向けた。健はまだ何も知らず、ただオデットの知られざる家族の痕跡に、静かな同情を寄せていた。今ここで告げてはならない。この真実を口にする権利は、自分にはない。社長ご自身が娘に伝えなければならない。そして健にも。鈴木は、胸の内に込み上げるものを押し戻した。
「鈴木さん?どうかしたの?」
健が、たずねた。今はまだ真実を言えない。
「確認しなければならないことがございます」
静かに、そう答えた。
「帰国後に」
それ以上、鈴木は語らなかった。
オデットは、隠された秘密の刻印を、じっと見つめていた。
「この言葉を残した人は、母を愛していたのでしょうか」
誰にともなく、彼女は呟いた。クレイが答える。
「この時計を作ったとき、その人は二人の時間が永遠に続くことを願っていたのでしょう」
オデットは、かすかに微笑んだ。
「だから、君が直すのです」
クレイの言葉に、オデットは顔を上げた。そして深く息を吸い、分解した部品へ視線を移した。「直します。必ず」
その声には、作業を始めたときにはなかった強さがあった。母の時計を動かすためだけではない。母が誰かと生きた時間を、自分の手で失わせないために。
健は黙ってうなずいていた。鈴木は、その横でオデットを見つめた。ダークブラウンの髪と瞳の深い色に、東洋の温かみをもつ少女。二十年という歳月が、一瞬にして胸を満たした。社長。ようやく、見つけました。あなたが探し続けた、ヴィヴィアン様の娘を。
「申し訳ございません。少し席を外させていただきます」
鈴木は静かに実習室を後にした。
実習室から廊下に出た鈴木は、震える手で携帯電話を取り出した。発信先は東京にいる神崎智だった。
「鈴木か。どうした」
「……社長」
鈴木は深く息を吸い込んだ。
「見つかりました」
長い沈黙。
「お嬢様でございます」
電話の向こうで、椅子がきしむ音がした。
「旦那様がヴィヴィアン様へ贈られた、あの懐中時計をお持ちでした」
再び沈黙が流れる。そして智は、震える声で一言だけつぶやいた。
「……生きていたか」
「はい。大切に育てられ、時計師を目指しておられます」
「私がジュネーブへ行く」
鈴木は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
健と鈴木が帰国した後、数週間かけて、オデットは懐中時計を丁寧に組み直していた。
最後にテンプが静かに揺れる。カチ……、カチ……、カチ……。止まっていた母の懐中時計は、再び時を刻み始めた。オデットは時計を胸に抱き、小さく涙をぬぐった。
「お母さん……」
すべての出張工程を終えた健と鈴木は、ジュネーブをあとにした。
空港へ向かう車窓から、レマン湖に白鳥の群れが静かに泳いでいるのが見えた。健はもう一度、時計学校での出来事を振り帰っていた。あの時計……、ケースの形状からすると、おそらく二十年くらい前のものだと思われるあの懐中時計。そして、オデットが口ずさんだ母の子守唱。なぜあの少女の母親が、日本の、母の子守唄知っていたのだろうか?そういえば、あれ以来、鈴木はぱったりとチョコレート屋を巡ることをやめてしまった。そしていつも何かを考えている。
隣りに座っている鈴木は心に決めていた、健もまだ、あの少女が自分の妹であることも、あの刻印の意味も知らない。社長としっかりお話ができるまでは、この秘密を守り抜こうと。
その頃、卒業を控えた時計学校の生徒たちの間では、卒業制作の話題でもちきりだった。
クレイが穏やかにオデットに尋ねた。
「懐中時計は見事に蘇ったね。卒業制作は、この修復作品で君の評価は十分だ」
オデットは静かに首を振った。
「ありがとうございます。でも……。私はやはり、新しい時計を作りたいんです」
「どんな時計かな?」
オデットは少し照れながら答えた。
「母が歌ってくれた子守唄を、ミニッツリピーターの音色で奏でる時計です」
教室は静まり返った。クレイはゆっくりとうなずく。
「それは、時計をつくるだけではなく、祈りを作る仕事になるね」
「はい、子を想う母親の祈りです」
「ミニッツリピーターは、作るのが難しい複雑機構だよ」
クレイは言葉を続けた。ミニッツリピーターとは、時計内部のハンマーとゴングを鳴らすことで時刻をチャイムで知らせる機構で、永久カレンダー、トゥールビヨンと並び、世界三大複雑気候のひとつとして知られていた。高度な技術が必要とされるため、熟練の時計師しか制作できないものなのだ。それを、まだ若い時計学校の生徒が、卒業制作の作品としたいと言うものだから、まわりにいた生徒たちが驚くのも当然であった。
「子守唄だって?時計が、いったいどのような音色を奏でられるの?」
「オデット、卒業まであと三ヵ月しかないのよ?」
「お母さまの懐中時計の修復で単位はもらえたんだから、もういいんじゃない?」
「素敵なアイディアだと思うけど、現実的じゃないわ」
クラスメートたちがオデットに口々に話しかける。
「ありがとう」
オデットは言葉を続けた。
「自分でも無茶なことを言ってるってわかってる。でも、自分でもわからない何かに導かれて、この子守唄のミニッツリピーターを作りたいという気持ちでいっぱいなの」




