3. 白鳥たちの家
売春宿「スワンレイク」ーー。
夜になるとピンクのネオンが灯るその場所を、街の人々はさまざまな目で見た。けれどオデットにとっては、そこは家だった。扉を開ければ、スープの匂いと笑い声がある。誰かが洗濯物をたたみ、誰かが口紅を塗り、誰かがまた誰かの失敗を大げさに笑っている。
「おかえり」
キットの声はいつも一番奥の厨房から聞こえた。オデットは「ただいま」と答え、鞄を椅子に置く。
「今日は実習だったんだろう?」
「うん。先生に褒められた」
その一言で、店の女たちがいっせいに拍手した。誰も大げさに理由を聞かない。褒められたなら祝う。それがスワンレイクのやり方だった。スワンレイクには、それぞれが自然と引き受けている役割があった。毎朝、新聞やチラシを広げて、街の噂や催しの記事を誰より早く見つける女がいた。ファッションセンスがよく、スワンレイクのステージ衣装を担当している女がいた。几帳面に予定表を作る女がいて、誰の仕事が何時から入っているのかをキットより正確に覚えている女もいた。
「あんたたち、そんなに人の世話が好きなら、いっそ仕事にしたらどうだい」
キットがそう言うと、女たちは一斉に笑った。
「いまさら新しい仕事なんて」
「そうそう、好きでやっているだけ」
ここにいる女たちは、皆、何かが上手なのだ。ただ、それを自分の才能だと呼ぶ機会がなかっただけなのかもしれない。
オデットは、スワンレイクでキットに育てられた。身体が弱く、オデットが幼い頃に病に倒れ帰らぬ人となった実の母・ヴィヴィアンがどんなふうに自分を抱いていたのか、彼女はもうあまり覚えていなかった。けれどキットの腕の温かさを知っている。熱を出した夜、徹夜で額を冷やしてくれた手。初めて時計学校の白衣に袖を通した朝、誰よりも先に泣きそうな顔をした人。
ある冬の夜のことを、オデットはぼんやり覚えている。まだ幼かった彼女は、階段の陰で大人たちの話を聞いていた。いつも冗談ばかり言う女が、ワインのグラスを片手に笑った。
「スイスで生まれたら、人生なんてだいたい決まってるのよ。時計を作るか、チョコレートを作るか、銀行で働くか。それとも、この店に来るか」
誰かが笑い、誰かがため息をついた。そのとき、キットが静かな声で言った。
「ヴィヴィアンに頼まれたんだ。オデットだけは、私たちと同じ人生を歩ませないでくれって。だからこの子は、時計学校へ通わせる」
それから、その言葉は家のなかで改めて語られることはなかった。けれど毎朝、皆がオデットを時計学校へ送り出した。
「忘れ物は?」
「ルーペ持った?」
「帰ったらシチューだよ」
それだけで、約束は守られているとわかった。
夕食を終えると、オデットと、オディールは自分たちの部屋へ戻る。同い年のふたりはスワンレイクで同じ部屋に暮らすルームメイトだった。決して広くはない部屋だったが、二人にとっては世界でいちばん落ち着く場所だった。窓を開けると、レマン湖から吹く風が白いカーテンを揺らす。オデットは机に向かい、ムーブメントの図面を描き始める。その横で、オディールはベッドの上に腰を下ろし、ギターを抱えた。一つコードを鳴らしては止まり、ノートパソコンへ録音する。首をかしげ、消す。もう一度歌う。また録音する。
「今日は何回録り直したの?」
オデットが笑う。
「もう数えてない」
オディールも笑った。しばらく部屋には、時計の設計図を描く鉛筆の音と、ギターの優しい音色だけが流れていた。やがてオディールが天井を見つめながら言った。
「ねえ、オデット」
「なに?」
「いつか、小さなライブハウスでもいいから、自分の歌を歌えたらいいな」
オデットは鉛筆を置き、優しく微笑む。
「絶対に聴きに行く」
「一番前の席で?」
「もちろん」
二人は笑った。今度はオディールが尋ねる。
「オデットは?」
少し考えてから、オデットは答えた。
「何十年たっても、大切にしてもらえる時計を作れたらいいな」
スワンレイクには小さなステージがあった。古びた赤い幕、ところどころ剥げた床、客が余興として眺めるための低い舞台。けれどオディールがそこに立つ時だけ、その場所は別のものになった。彼女は学生時代から歌うことが好きだった。文化祭でも、卒業式でも、歌うのはいつもオディールだった。学校を卒業して、オディールはスワンレイクで働くことになった。他に行く場所がなかったからだ。けれど彼女は、歌だけは捨てなかった。営業前、まだ客の少ない時間に、彼女は小さなステージで歌う。女性たちは手を止め、静かに席に座る。客の中には笑って聞き流す者もいたが、スワンレイクの女たちは誰一人として彼女の夢を笑わなかった。
「今日は新しい歌よ」
そうオディールが言うと、キットが大げさに手を叩いた。
「そりゃ大変だ。世界初公開だね」
女たちが笑う。オデットも舞台袖で笑った。オディールは照れたように肩をすくめ、歌い始めた。歌声は、古びた照明の下でまっすぐに伸び、店のざわめきを少しずつ静めていった。
その客席の後ろでは、時計学校の理事長・クレアの息子、ジュリアンがいつもオディールの歌を聴いていた。ジュネーブの富裕層の家に生まれ、どこへ行っても丁寧に迎えられる青年。だがスワンレイクでは、彼はただの客だった。いや、客と呼ぶには少し違った。彼は誰も指名しない。酒もほとんど飲まず、ただオディールの歌を聴きに来るだけだったのだ。オディールとジュリアンは同じ学校へ通っていた。文化祭の舞台で歌った時、客席の一番後ろで誰よりも真剣に聴いていた青年。卒業式の日、「君の歌は、いつかもっと広い場所で聴かれるべきだ」と言った優しい青年。その言葉を、オディールは今でも覚えている。歌が終わると、ジュリアンはいつも丁寧に拍手した。まるで一曲をきちんと受け取ったと伝えるような温かな拍手だった。歌い終えると、二人は店先で短く言葉を交わす。
「今日の歌も、よかった」
「ありがとう」
「前より、声に深みが出た」
「毎日歌ってるからね」
そんな、何でもない会話。けれどオディールには、その何でもなさが苦しかった。ジュリアンの気持ちに気づいていたからだ。自分は何度もその優しさに救われてきた。けれど近づけなかった。彼は名門時計学校の理事長の息子で、街の人々に未来を約束された人。自分はスワンレイクで働く女。彼の隣りに立つ資格などない、と彼女は思っていた。だから笑う。冗談を言う。好きだからこそ距離をとっていた。
「また今度来る。おやすみ、オディール」
「おやすみなさい、ジュリアン」
オディールは、いつものように手を振って店に戻った。
キットは何も言わず、その様子を窓辺から見ていた。言葉にすれば壊れてしまうものがあると知っていた。オデットが時計学校へ通うことも、オディールが歌い続けることも、ジュリアンがいつも同じ席に座ることも、スワンレイクでは説明する必要のないことだった。そこにあるものを見守る。それが自分の役目だと信じていたからだ。
夜が更け、店の灯りが落ちた後も、オディールは時々ひとりでステージに立った。誰もいない客席へ向かって歌う。その声は二階の廊下まで届き、机でムーブメントの図面を描いていたオデットは、鉛筆を止めて耳を澄ませる。自分には時計がある。オディールには歌がある。夜のレマン湖では、二羽の白鳥が並んで泳いでいた。一羽は静かに水面を見つめ、一羽は少し先へ進もうとしている。湖は何も語らない。ただ、すべての夢を映していた。
《副音声コメンタリー》
ネタバレとなりますが、オディールのインスピレーションソースは、レディー・ガガさんです。オデットの髪の色はダークブラウン、オディールの髪の色はブロンドを想像して読み進めてくださいませ!(by 作者)




