2. 運命の歯車
ジュネーブ国際空港の到着ロビーは、時計フェアの季節らしい光景に満ちていた。
世界中から集まった時計関係者の熱気に包まれ、いくつかの言語が交差するその場所では、皆、スーツケースを引きながら足早に歩いていく。
神崎健は、到着ゲートを抜けた瞬間、少しだけ足を止めた。
健は、日本の老舗時計メーカー「神崎ホールディングス」の若き二代目であり、専務取締役であった。例年スイスの時計フェアには、父親であり神崎ホールディングスの社長である神崎智と訪れていたが、今回はスケジュールの都合で智が参加できなくなり、長年神崎家につかえる秘書の鈴木とのフライトとなった。
「今年もこの空気ですね」
隣りで鈴木が、懐かしそうに言った。六十代に入っても姿勢はよく、灰色のスーツには皺ひとつない。ただ、長時間のフライトのせいか、丸い眼鏡の奥の目には少し疲れがみえた。
「鈴木さんは、毎年この街に来るのを楽しみにしていますね」
健が言うと、鈴木は咳払いをした。
「いえ、仕事でございますから」
「チョコレート店へ行く予定はもう入れてあるんでしょう?」
鈴木は一瞬だけ、目を泳がせた。
「それは、その……お土産の調査も兼ねておりまして」
健は笑った。鈴木がジュネーブでチョコレート店を巡るのは、神崎家ではもはや恒例だった。スイス出張のたびに箱いっぱいのチョコレートを買って帰る。本人は甘いものが特別好きなわけではないと言い張るが、健はそれ以上聞いたことがない。鈴木には鈴木の楽しみがあるのだろうと思っていた。
荷物を受け取り、二人は空港のロビーを歩き出した。そのとき、鈴木が小さく、ほとんど息のように言った。
「……今度こそ、お嬢様を見つけなければ」
「鈴木さん?」
健が振り返る。鈴木の肩がぴくりと跳ねた。
「はいっ」
「今、何か言いましたか?」
鈴木はにこりと笑った。少し笑いすぎだった。
「お、お嬢様ではなく、お客様でございます」
「お客様?」
「ええ。今年も、良いお客様との出会いを見つけなければ、と。ほら、時計フェアでございますから」
健は黙って鈴木を見た。鈴木はさらに笑顔を深める。
「若い才能との出会いも、お客様との出会いも、すべて一期一会でございます」
「ーーそうですね」
健はそれ以上追及しなかった。鈴木がときどき、妙に芝居がかった言い訳をすることには慣れていた。
しかし、鈴木の胸の内では、二十年前から止まったままの時計が、また音を立てはじめていた。
お嬢様。その言葉を、鈴木は一度も本人に向けて口にしたことがない。顔も知らない。生まれているかどうかさえ、長いあいだ確かではなかった。それでも、社長、健の父である神崎智は言った。
「探してくれ」
智の妻、つまり健の母親は、健が幼い頃に病死していた。
妻の死後、健は仕事で訪れたジュネーブで、ヴィヴィアンという名の女性と恋に落ちた。ショコラティエだと聞かされていた。彼女が身ごもった智の子ども。日本から遠く離れたこの街のどこかにいるかもしれない、神崎家のもう一人の血……。それ以来鈴木は、この街へ訪れるたびに時計フェアの仕事をこなし、空いた時間にチョコレート店を訪ね歩き、古い名簿を調べ、私立探偵に会った。だが、ヴィヴィアンという名前のショコラティエは、どこにもいなかった。それでも鈴木は決してあきらめず、長年にわたりヴィヴィアンを探し続けていたのだった。もちろん、健は、そのような鈴木の想いを知る由もなかった。
「車を回してあります」
鈴木はいつもの秘書の顔に戻り、言葉を続けた。
「今日はフェア会場の前に、時計学校へ寄りましょう」
「理事長とは面識が?」
「何度かご挨拶を。誠実な方です」
ハイヤーの窓の外に、ジュネーブの街が流れていく。
湖沿いの道に出ると、レマン湖が朝の光を受けて眩しく輝いた。健は少し窓を下げ、冷たい風を入れた。
「相変わらず、きれいですね」
「ええ」
鈴木は湖を見た。白鳥がいた。二十年前も、いたのだろうか。ヴィヴィアンもこの湖を見たのだろうか。もしあの子が無事に生まれていたなら、その子も、この白鳥を見ながら育ったのだろうか?鈴木の記憶は、自然と二十年前へ戻っていった。
二十年前。
東京の神崎家には、重厚な木の扉を備えた書斎があった。その向こうには、壁一面に時計の本が並んでいた。時計師たちの伝記、天文時計の図録、スイスの時計の歴史ーー。当時の神崎智は、まだ若い経営者だった。妻を病で亡くし、幼い健を育てながら、会社と家を行き来する日々を送っていた。会社の事業拡大に情熱を注ぐことで、喪失の痛みをから何とか立ち上がろうとしていたとも言える。その頃から智は毎年ジュネーブを訪れていた。妻を亡くして数年。幼い健を日本に残しての出張だった。仕事以外の時間をどう過ごせばよいのかわからず、彼はしばしばレマン湖のほとりを歩いた。そこで、ヴィヴィアンと出逢った。彼女は湖畔のベンチのそばで、風に飛ばされたスケッチブックを追いかけていた。智が拾い上げると、ページには小さな店の絵が描かれていた。店先にはチョコレートが並び、窓には花が飾られている。
「ありがとうございます」
顔を上げた彼女は笑った。どこか寂しげで、それでも人をあたためる笑顔だった。
「お店ですか」
智が尋ねると、ヴィヴィアンは恥ずかしそうにうなずいた。
「いつか、こんな小さなチョコレート店を持ちたいんです。まだ夢ですけれど」
「私は、時計の仕事でこの街に訪れています」
「時計……、この街らしいお仕事ですね」
それが最初の会話だった。
どこにでもある短い会話。それなのに智は、その笑顔を忘れられなくなった。再会は数日後の同じ湖畔だった。ヴィヴィアンは自分の店をもつ夢を語った。子どもにも大人にも、食べるだけで少し幸せになれるチョコレートを作りたい、と。智はその夢を信じた。鈴木もまた、智から聞かされる彼女の話を信じた。ヴィヴィアンはショコラティエを目指す女性だと。
季節が巡るたび、智はジュネーブを訪れた。二人はレマン湖を歩き、時計の話をし、チョコレートの話をし、ときには何も話さずに湖を眺めた。ヴィヴィアンは智の亡き妻のことも、幼い健のことも聞いた。
「健くんに、いつか会ってみたい」
彼女はそう言った。智はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
やがてヴィヴィアンは、静かに新しい命を宿した。レマン湖の夕暮。智は彼女の手を取り、正式にプロポーズした。
「君のことを想ってつくった、特別な時計なんだ」
智は、ヴィヴィアンに銀の懐中時計を手渡した。裏蓋には、レマン湖の白鳥のモチーフが刻印されている世界にひとつの時計だった。
「日本へ来てほしい。健と、そして生まれてくる子と、四人で暮らそう」
ヴィヴィアンは泣きながら微笑んだが、返事はすぐにはできなかった。
その夜、智はヴィヴィアンのお腹にそっと手を当てた。そして、亡き妻が幼い健を寝かしつけるときによく歌っていた日本の子守唄を、ゆっくりと歌った。ヴィヴィアンには言葉の意味がわからなかったが、それでも、その旋律を何度も口の中で繰り返した。しかし彼女には、どうしても告げられないことがあった。自分が本当は、売春宿「SWAN LAKE」で働く女であること。愛する人にも、唯一無二の親友であるキットにも、二つの世界を会わせることが怖かった。智をキットに会わせれば、自分の本当の暮らしが知られてしまうだろう。キットに智のことを話せば、自分が守ろうとした小さな夢が壊れてしまうかもしれない。ヴィヴィアンは悩みながらひとりで決めた。ーーそして、何も語らないまま、彼女は智の前から姿を消したのだった。
視察で訪れる時計学校は、街の喧騒から少し離れた静かな通りにあった。古い石造りの建物で、窓枠には磨かれた真鍮が使われている。入口には、フランス語で学校名が刻まれていた。理事長のクレイは、玄関で健と鈴木を迎えた。穏やかな物腰の紳士だった。
「ミスター・カンザキ。遠いところをようこそ」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
握手を交わす健の横で、鈴木が深く頭を下げた。クレイは鈴木を見ると、親しみを込めて微笑み、握手を交わした。
「今年もお会いできましたね、ミスター・スズキ」
「はい。今年もお世話になります」
その言葉には、健が知らない年月の響きがあった。
校内は静かだった。
廊下を歩くと、どこからか金属が触れ合う小さな音が聞こえる。カチ、カチ、と、まるで建物全体が心臓を持っているようだった。
「本日は、生徒たちの実習をご覧いただけます」
クレイが言った。
「若い学生たちは未熟です。しかし、未熟だからこそ、時に私たちが忘れた発想を見せてくれるものです」
健はうなずいた。
「若い才能を見たいと思っていました」
「では、ちょうどよい学生がいます」
クレイは少し微笑んだ。
「彼女は、最初から時計が好きだったわけではありません。けれど、手に職をつけるためにここへ来た。そして今では、誰よりも時計に向き合っています」
「彼女?」
健が尋ねる。
「ええ。オデットです」
実習室の扉を開けると、空気が変わった。
生徒たちはそれぞれの机に向かい、ルーペを片目に当て、ピンセットで極小の部品を扱っている。窓際の席に、ひとりの女性がいた。ダークブラウンの髪を後ろで束ね、白衣の袖を肘までまくっている。横顔にはスイスの光が似合っていたが、瞳の深い色にはどこか東洋の温かみがあった。美しい人だと健は思った。けれど、それ以上に目を奪われたのは、その指先だった。彼女の手は迷わない。小さな歯車を置く。角度を確かめる。わずかに息を止める。ネジを締める。一つひとつの動きが、正確で、静かで、そして不思議なほど美しかった。
「彼女がオデットです」
クレイが小声で言った。
「キットが、彼女の将来を案じて私に相談してきました。女の子がひとりで生きていくには、手に職が必要だと」
「キットさん?」
健が聞き返す。
「彼女の育ての母親のような女性です」
クレイの声には、説明以上の温かさがあった。
「私は席を用意しただけです。合格したのは、彼女自身の力でした」
健はオデットから目を離せなかった。
そのときだった。
オデットが、ほんの小さく鼻歌を口ずさんだ。それは、実習室の静けさに溶けるほど微かな音だった。ほとんどの学生は気づかない。クレイも気づかなかったかもしれない。けれど健は、立ち止まった。胸の奥で、古い扉が開くような感覚がした。幼い頃、夜になると母が歌ってくれた子守唱。病気がちだった母の膝の上で、何度も聞いた旋律。ただ、その歌が聞こえると安心した。母がいなくなってからも、その旋律だけは、健の中に残り続けていた。なぜ。どうして、ここで。
「……その歌」
オデットが顔を上げた。深いダークブラウンの瞳が、まっすぐ健を見た。
「え?」
「その歌を、どこで覚えましたか?」
実習室の空気が、わずかに揺れた。オデットは少し考えるように瞬きをしたあと、微笑んだ。
「母が、歌ってくれたそうです」
「そうです、とは?」
「私は小さかったので、よく覚えていなくて。キットが、いえ、私の育ての親が、母の子守唄だったと、よく歌ってくれました」
健は言葉を失った。鈴木が後ろで、かすかに息をのむ音がした。
「私の母もーー」
健はようやく言った。
「その歌を、よく歌っていました」
オデットは驚いたように目を見開き、それから、少し嬉しそうに笑った。
「不思議ですね」
「ええ」
健も笑おうとした。けれど胸の奥で、何かが静かに鳴り続けていた。時計の音ではない。もっと古い、もっと遠い、記憶の音だった。その日、健はまだ知らなかった。その子守唄が、単なる偶然ではないことを。オデットもまだ知らなかった。母が遺した銀の懐中時計の奥深くに、二人を結ぶ真実へと続く手がかりが刻まれていることを。ただ、実習室の窓の外では、朝の光がレマン湖のほうから差し込み、遠くで白鳥が水面を渡っていた。時はまだ、静かに動き始めたばかりだった。
《副音声コメンタリー》
神崎健さんは、かなりのイケメンさんを想像しながら読み進めていただけますと、より一層この小説をお楽しみいただけます 笑。父親・智のイケメン度も、言わずもがなです!(by 作者)




