1 . スワンレイク
いつものように「SWAN LAKE」というピンクのネオン看板がでている店の裏口からオデットは帰宅した。
スワンレイクの朝は、レマン湖よりもずっと賑やかだった。古い建物の二階からは誰かの笑い声が落ちてきて、台所では焦げかけたパンの匂いとコーヒーの香りが混ざっている。階段の途中には昨夜のステージ衣装が掛けられ、玄関脇には、誰のものかわからない羽飾りのついたヘッドピースや、片方だけのハイヒールが転がっていた。
「おはよう、オデット」
背後から声がした。
振り向くと、キットが腕を組んで立っていた。派手なガウンを羽織っていても、どこか女王のような風格がある。スワンレイクの女たちは、彼女をマダムと呼ぶ。けれど、オデットにとっては母親代わりの女性だった。キットは近づくと、オデットの髪に顔を寄せ、わずかに眉を動かした。
「また吸ったね」
オデットは、しまった、という顔をした。
「一本だけ」
「一本でも一本だよ」
キットは大げさにため息をついた。台所にいた店の女たちが、また始まった、という顔で笑っている。
「だめだめ。あんたは私らとは違うんだ」
「キットも吸うじゃない」
「私はもう手遅れ」
きっぱりと言い切るその調子に、台所の奥で誰かが吹き出した。キットは振り返りもせず、オデットの頬にそっと手を当てた。
「あんたにはね、アジアの血が流れてるんだ。せっかくそんなきれいな肌をしてるんだから、煙草なんか吸っちゃだめ」
キットは真顔で言った。
「女の子はね、自分の顔で泣く日もあれば、自分の手で食べていかなきゃいけない日もある。どっちも大事。でも、あんたにはなるべく、泣かないですむほうの人生を選んでほしいの」
その言葉に、オデットは少しだけ黙った。キットは何も知らない子どもに説教しているのではない。自分が知りすぎている人生を、オデットには歩かせたくないだけだった。
「時計学校に遅れるよ」
キットは話を切り替えるように、オデットの肩を軽く叩いた。
「今日は理事長先生が来る日だろう?」
「うん。外部の視察もあるんだって」
「なら、ちゃんとしなさい。あんたの手は、未来を作る手なんだから」
オデットは微笑んだ。
「行ってきます」
「行っといで」
キットはそう言って、自分の煙草を箱から一本取り出した。だが、火をつける前にふとオデットの後ろ姿を見て、煙草を箱に戻した。
その小さな仕草に、オデットは気づかなかった。
《副音声コメンタリー》
「SWAN LAKE」って、夜の商売的な…?それは読み進めていくうちに明らかになります。そこで働く女たちには様々な過去があるけれど、強く、明るく、たくましく生きています。きっとそれは、マダムのキットが皆に愛情を注いでいるからーー。(by 作者)




