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◇
ショーの開始を告げる鐘が鳴り響く。
バックステージの出口。目の前に広がるのは、パリという街で最も厳しい審査員たちが並ぶランウェイだ。
審査員席の中央、レン・スメラギは微動だにせずステージを見下ろしていた。
彼の手元の採点表には、すでに私の名前が記されているだろう。だがその表情は冷たく、どこか苦悶を押し殺しているように見えた。彼が築いてきた権謀術数の渦巻くこの世界に、私を染めたくない――。その不器用な優しさが、私を深く傷つけたというのに。
(……分かってる。あなたが私を守ろうとしていたことくらい)
心の中で冷たく呟き、私は一歩を踏み出した。
これはただのウォーキングではない。私の三年間、彼に会いたくて流した涙と奪われた自由、そして今この瞬間に燃える怒りのすべてを乗せた、宣戦布告だ。彼が差し出した「安全な枠」を、自らの手で粉々に踏み破るために、私はここに立っている。
音楽と鼓動がシンクロし、ランウェイを支配していく。
彼が用意した「スメラギという権力」の枠組みなど、最初から存在しなかったかのように、私の放つ光が会場を塗り替えていく。審査員たちが驚きに目を見開く。陰口を叩いていたモデルたちの表情が、嫉妬から畏怖へと変わっていく。
ランウェイの中央。私はあえて、彼の目の前で足を止めることはしなかった。
通り過ぎざま、私は彼の目を見据えた。
レンはペンを握る手を止め、私を凝視した。その瞳には、私が彼の必死に隠してきた「弱さ」を完全に見抜いていることへの動揺が浮かんでいる。
(見ていて、レン先輩。これが、私が手に入れた『私の実力』よ)
審査員席から彼が送り出す「評価」など、私には不要だ。彼が必死に守り抜こうとした「無力な少女」の時代は、今この瞬間、砂時計が崩れるように終わりを迎えた。
フィナーレ。私は誰よりも高く顔を上げ、会場の誰一人として逃さない強気な視線を突き刺した。
会場を包み込む熱狂は、スメラギ・レンという名への賞賛ではない。そこに現れた、全く新しいカリスマ――「私」に向けられた歓喜だ。
ステージを降りたレンの瞳は、もう「審査員」のそれではなく、自分の築いた壁が崩れ去るのを呆然と見つめる、ただ一人の男のものだった。
◇
会場はシャンパンの泡と、高揚した招待客たちの喧騒に満ちていた。
私は次々と名刺を差し出す大手メゾンのディレクターたちに囲まれている。さっきまで私のことを「コネ出演」と笑っていたモデルたちさえ、今は媚びた笑みを浮かべて私の背中を追いかけてくる。
私は、誰の力も借りず、ただ自分の歩みだけでここまで辿り着いた。その確信が、私をかつてないほど誇り高くさせていた。
ふと、会場の視線が一点に集中する。
人波を割って進むのは、料理界の名門スメラギの御曹司、レン・スメラギ。
彼は社交界の太陽だ。周囲には常に有力な投資家やデザイナーが群がり、誰もが彼の一言に平伏する。その完璧な立ち居振る舞いは、私がずっと憧れ、追いかけてきた「レン先輩」の姿そのものだった。
私たちは同じ会場にいる。
けれど、その間には「スメラギ」という絶対的な格差の壁がそびえ立っていた。
遠くから彼を観察する。レンは誰に対しても慇懃無礼なまでの完璧な笑みを崩さない。だが、時折、彼が周囲から視線を外し、グラスの縁越しに会場のどこか――私の方を、一瞬だけ探すような素振りを見せるのを見た。
(まだ、私を監視しているの?)
いや、違う。その瞳の奥にあるのは、監視ではない。
彼はこの華やかな場所で、私が他人の誘いに応じて、再び「誰かの庇護」の下へ入らないかと怯えているのかもしれない。あるいは、今の私にはもう自分が必要ないという事実を、突きつけられることを恐れているのか。
彼はスメラギという名の鎧をまとい、近づくことすら許さない神聖な領域にいる。
今ここで彼に話しかけようとすれば、周囲は「スメラギの庇護下にいるモデルが、パトロンに媚びを売っている」としか見ないだろう。
私は優雅にシャンパンを口にし、あえて彼から視線を逸らした。
彼が私のことを大切に想い、守ろうとすればするほど、彼は「公の場での私」と「私的な本心」の板挟みで、身動きが取れなくなっていく。
(レン先輩。あなたは今、どんな気持ちでその高い席に立っているの?)
私はもう、ただ待っているだけの少女じゃない。
この華やかなパーティという劇場が閉幕したあと、彼がどこへ帰るのか……私は知っている。あの冷たくて、けれど彼が唯一、独り言をこぼせる場所。
私は華やかな光に満ちた会場の中、静かに決意を固めていた。
スメラギの名に守られた、完璧な社交界の仮面。それを剥ぎ取れるのは、この会場で誰よりも輝いている今の私だけだ。
パーティの喧騒が遠ざかるように感じる。
夜は、まだ始まったばかりだった。
◇
あれから、三日が過ぎた。
業界は私の話題で持ちきりだ。有名なカメラマンが私を撮りたがり、格式あるブランドのディレクターが私の次のスケジュールを確保しようと躍起になっている。
私は、三年前の私が必死に夢見た場所に立っている。ようやく、彼と対等に渡り合える場所に。
それなのに。
彼からの反応は、何もない。
冷たいパーティ会場で、彼と視線が重なったはずだった。あの時、彼が浮かべた動揺は、間違いなく私の存在を「一人の人間」として認めた証拠だったはずだ。
ランウェイで、彼が敷いた安全圏を粉砕したことだって、彼には伝わっているはずだ。
(……まだ、私を拒絶するの?)
夜、ホテルの窓からパリの夜景を眺める。街の灯りが、あの時空港で感じた冷たい風のように私を突き刺す。
彼は料理界の名門・スメラギの跡取りとして、今も完璧な日常を生きているのだろう。投資家と笑い、完璧なレシピを考案し、私という存在を「なかったこと」にしようと必死に自分を律しているのかもしれない。
その沈黙が、私を焦らせる。
三年前の私は、ただ彼に追いつきたくて、彼の手の中で踊らされていた。でも今の私は違う。
私は、彼の庇護なんて求めていない。
彼が私を突き放す理由が「優しさ」からくるものだとしても、そんな独りよがりな優しさは、もう私には必要ないのだ。
(黙り込むつもりなら、私から引きずり出してやる)
私はスマホを閉じた。
最後の一線を越える準備はできている。彼が自分を押し殺して閉じこもっている「聖域」へ行く時が来たのだ。
彼が何と言おうと、もう引き下がらない。
私の三年間を、この沈黙一つで終わらせるなんて絶対に許さない。
私は鏡の中の自分を見つめ、あの日彼がくれたアネモネの記憶を、心の中でゆっくりと焼き切った。
(明日の深夜、彼にあいにいく。)
レン・スメラギの彼としてではなく、ただの「レン先輩」として、私の目を見て話してもらうために。
◇




