エピローグ
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パリの夜は深い。ランウェイの喧騒も、レセプションの祝祭も、すべて遠い過去の出来事のように過ぎ去っていった。
深夜、私は仕事を終わらせメイクも落とさないまま、深夜のパリの路地を抜けて彼の店へ向かった。
迷わず彼が独り籠る聖域へと足を向けた。「スメラギ」の頂点ではなく、たった一人で黙々と魂を削る、彼だけの聖域だ。
仕込みをしていたレン先輩の背中が、私の足音に気づき硬直する。
私は彼が振り返るのを待たずに、ずっと喉元に刺さっていた言葉を吐き出した。
「レン先輩。……あのとき、紫のアネモネの花になぞらえて、『信じて待ってて』って、言ったよね?」
彼はゆっくりと振り返る。そこには、メディアで見せる余裕の笑みも、冷徹な仮面もなかった。ただ、数年間の孤独と、私を想い続けた執着だけが混ざり合った、少年の瞳があった。
「……どうして」
震える声で呟く彼に、私は精一杯の笑みを浮かべる。
あの空港で、彼が私にくれた紫のアネモネ。その言葉に縛られ、毎日を磨き続けてきた私の答えを、今、届けるために。
「待ちくたびれちゃったの。だから、レン先輩の予定なんて全部無視して、私から迎えに来ちゃった」
私は一歩踏み出し、距離をゼロにする。
「……馬鹿だな、君は」
その声はひどく掠れていて、でも、どんなに甘いスイーツよりもずっと甘く響いた。
「俺が世界で一番いい男になって、絶対に迎えに行くって決めてたのに……全部、君にさらわれちゃったよ」
私は彼の腕の中で、静かに問いかける。
「……ねえ、最近ずっと気になっていることがあるの。私のキャリアが軌道に乗るたびに、いつも絶妙なタイミングで浮上するあなたのスキャンダル」
私の言葉に、レンの抱きしめる力が一瞬だけ強くなる。
「一度や二度じゃない。私が危うい場所に立つたびに、あなたは自分の名前を火種にして、私への注目を全部そらしてきたでしょう。……薄々、気づいていたのよ。あなたは自分の名声を燃やして、私ことを守ってくれていたのね」
レンは私の肩に顔を埋めたまま、自嘲気味に、けれど隠すこともなく呟いた。
「……気づいてたのか。鈍感な君のことだから、てっきり何も知らないと思っていたよ」
「……全部、確信したかったの。あなたが私を突き放していた理由が、ただの優しさじゃないって。」
彼は何も否定しなかった。彼が守ろうとしたのは、私を傷つける世間の悪意だけではなかった。彼自身が積み上げてきた「スメラギ」という完璧なブランドを、幾度も幾度も犠牲にしてまで、私の汚名を塗りつぶそうとしていたのだ。
「料理界の名門の汚点なんて、君の将来に比べればどうでもよかった。……君が何者にも邪魔されず、ただ真っ直ぐに自分の足で立つその日まで、僕が汚れ役を引き受ける。それだけが、あの時決めた僕の誓いだった」
その言葉を聞いて、胸の奥が熱く焼けるようだった。
三年間、私が「突き放された」と思っていたあの冷たさは、すべて彼なりの必死な愛の形だったのだ。
「……馬鹿なのは、レン先輩の方よ」
私は彼の手を握りしめ、心臓の鼓動を聴く。
ようやく、呪いは解けた。アネモネの花言葉はもう、どこにもいらない。私たちが今、ここでこうして隣り合っているという事実が、何よりも確かな約束だから。
「ねえ、レン先輩。もう迷わないで。……次、また自分の名声を盾にして私を守ろうとしたら、今度は私があなたの心も、その名門の誇りも、全部私の実力で塗り潰しちゃうんだからね」
彼は小さく笑い、額を合わせてきた。
夜はまだ始まったばかり。これから始まるのは、誰の影も支配もない、私たち二人だけの新しい物語だ。
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