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◇
パリの空港に降り立った時、肌を刺すような冷たい風が吹いた。
今までの3年間はこの日のためだけに会ったのかもしれない。レン先輩が去ったあの日のまま、私はただ彼を待ち、いつか彼に「立派になったね」と笑ってもらえるよう、必死に自分を磨き続けてきた。
パリの冷えた空気を吸い込む。
ここには彼がいる。それだけで、心臓が痛いくらいに高鳴っていた。もちろん、私がパリへ行くことを彼が知っているはずもない。けれど、今の私なら、三年前よりは少しだけ彼に近づけているはずだ。そう思うだけで、足取りは自然と軽くなった。
空港のロビーで、私は人混みの中に彼を探していた。
(……もちろん、会えるはずなんてない。そんなことは分かっているのに、どうしても期待してしまう)
タクシー乗り場へ向かおうとした私の視界に、一台の黒いセダンが滑り込んできた。
窓が開き、見知らぬ男が私に声をかける。レンの側近だと名乗るその男は、表情ひとつ変えずにタブレットを差し出した。
画面に映し出されたのは、冷徹な一言だけだった。
『君のパリでの成功は、何者にも邪魔されるべきではない。僕と会うことは君のキャリアに深刻な影響を与えることになる。今の君は、僕と関わらないほうがいいだろう。理解してほしい』
心臓が、大きく跳ねた。
三年間、ずっと私の胸の奥で灯っていた火が、氷水をぶっかけられたように急速に冷えていく。
「……どういうこと? これは、レン先輩からの言葉なの?」
側近の男は、視線を正面に向けたまま、淡々と告げた。
「レン様は君のキャリアを案じておられる。パリというこの街で、君が根も葉もない噂やスキャンダルに塗れず、ただの『モデル』として静かに成功することを望んでおられるのだ。……分かっていただきたい。これ以上君が近づけば、君のみならず、レン様がこの地で築き上げた名声までもが傷つく」
その言葉の意味を理解した瞬間、全身の血が凍りついた。
彼は私の幸せを案じているのではない。彼が大切に守り抜いてきた「完璧で汚れのない日常」に、泥のついた靴を履いた私が踏み込むことを、ただ恐れているのだ。
三年間、私が大切に磨き続けてきた「約束」は、彼にとっては単なる「邪魔なノイズ」に過ぎなかった――。
男は私をホテルの前で降ろすと、一言の挨拶もなく車を走らせた。
深夜の石畳の上に、私はただ一人、取り残される。
期待に浮き立っていた自分の心が、酷く惨めだった。
空港のゲートで彼がくれたアネモネ。あの日の言葉。私はそれだけを握りしめて、ずっと彼を待っていた。なのに、彼にとってその約束は、とっくに忘れ去られた重荷だったのか。
私は、彼の日常を壊すために来たわけじゃない。
ただ、彼に会いたかっただけなのに。
(……ああ、そうか。私はとんだ道化だったんだ)
歓迎されるためにここへ来たんじゃない。自分一人で勝手に三年前の記憶を美化して、独りよがりに彼を追いかけてきただけ。
パリの冷たい夜風が、私の頬を叩く。恥ずかしさと、やり場のない悲しみ。そしてその奥底で、ドロリとした黒い熱がせり上がってきた。
(……関わるつもりはない、って)
そんなはずはない。あの日、空港で彼が私に向けたあの瞳は、嘘じゃなかったはずだ。なのに、三年の月日は、彼をこんなにも冷酷な人に変えてしまった。
その夜、ホテルの窓から見上げる空は、東京で見たものよりもずっと高く、そして冷たかった。
私の脳裏にスマホの画面に表示された、あの冷たい警告文が浮かび上がる。
胸の奥で、悲しみよりも先に、熱い何かがふつふつと湧き上がっていた。
(――信じて待ち続けて、これ? 私の三年間を、この冷たい警告一つで終わらせるつもりなの?)
(彼が私を「何も知らない人形」として扱い、遠くから手綱を握り続けるのなら――。その手綱を、今こそ私が引きちぎる時が来たのかもしれない)
◇
パリに到着して数日が経った。私はパリのコレクションという、人生最大の戦場に立っていた。
けれど、スタジオの空気は凍りつくほどに冷たい。華やかな衣装を身に纏い、完璧にメイクを施しても、バックステージの喧騒の中にいるモデルたちの視線が、私の前を通り過ぎる時だけ鋭い針に変わるのを感じた。
「……あの子、聞いた?」
「ええ。レン・スメラギが裏で相当な額を積んだって噂よ。彼女のキャスティングを決めたのは、審査員じゃなくて彼の資金力なんですって」
更衣室のカーテンの向こうから、冷笑交じりの声が聞こえてくる。
「実力で見せるはずのランウェイが、パトロンの接待なんてね。レンのお気に入り様は、お気楽でいいわよね」
その言葉は、私の心を直接切り裂いた。
私はこの三年間、彼に会いたい一心で、自分を殺して、モデルとしての実力を証明するために血を吐くような努力を積み重ねてきた。誰に頼ることなく、自分の足でこの場所に立った。それなのに、周囲からは「レンの愛人のコネ出演」としてしか見られていない。
私の努力も、積み上げてきた軌跡も、彼という巨大な権力の影に全て塗り潰されていたのだ。
(レン先輩、あなたは一体、何をしたの?)
いても立ってもいられず、私は現地のコーディネーターを問い詰めた。彼がなぜ、私のランウェイにまで介入してくるのか。その真実を知りたくて。
しかし、返ってきた言葉は、予想を遥かに超えていた。
「君は感謝すべきだよ。レン・スメラギからの指示で、君はパリの業界全体における『特別保護対象』になっているんだ。君の周囲にいる人間、君が契約しようとしているブランド、すべて彼のチェックが入っている」
背筋が凍りついた。
私の人生のあらゆる選択肢が、彼という名の「監視網」で固められていたのだ。
彼がパリの業界でバラ撒いた「金」と「権力」という名の盾は、私を敵から守るためではない。私が彼の手の届く範囲から一歩も外に出られないよう、飼い殺しにするための鎖だった。
鏡の中の自分を見つめる。
そこには、清楚な人形を演じ続けていた、あの日の弱々しい少女がまだ残っていた。
周囲の冷たい視線も、実力を否定される屈辱も、すべては彼が私を「ただの人形」として扱い続けた結果。
私の名前は、パリのどのブランドも、どのデザイナーも、実力なんて見ていない。ただ「あのレン・スメラギの愛人」として認識されている。
怒りよりも、激しい憤怒が、私の内側を真っ黒に染め上げた。
(私をどこまで子供扱いすれば気が済むの?)
彼が私のために築いた完璧な安全圏。その中で、私は彼の顔色を伺うだけの無力な存在として、一生を終えるはずだった。
けれど、今の私には、彼の愛が吐き気を催すほどの束縛にしか見えない。
私は、彼の権力などいらない。
彼の差し出した庇護など、いらない。
私は私の足で立つ。そして、今日このランウェイで、誰の庇護も借りず、ただ私の実力だけで、このパリの空気をねじ伏せてみせる。
もう、彼の影は私には必要ない。
彼が敷いた安全圏という名の檻を、今ここで粉々に粉砕してやる。
◇




