4
◇
深夜の撮影スタジオ。重い照明機材を片付けるスタッフの喧騒を背に楽屋で休憩をしていた。
鏡台に映る私は、誰が見ても非の打ち所がない『今、最も旬なモデル』の顔をしている。けれど、ふと目を逸らせば、指先は三年前の記憶を辿るように、震えを隠すだけで精一杯だった。
「……また、見てるの?」
静かな声に振り返ると、ソファで寛いでいたレイナが、手元で分厚い楽譜を指先でリズミカルに弾きながら、冷めた瞳で私を見ていた。彼女は私のデビュー当時からの親友で、圧倒的な歌唱力で世界を席巻している歌姫だ。彼女の視線の先には、私のスマホがある。
「別に見たいわけじゃないの。ただ……なんとなく」
「なんとなく、で開くものじゃないでしょ?」
レイナは楽譜を弾いていた指をピタリと止め、テーブルに置くと、ヒールの音を響かせて立ち上がった。彼女の纏う香水の香りが、冷え切った楽屋の空気に混ざる。
「あなた、まだ『あの頃』の約束を抱えてるの?」
胸を、鋭い刃物で刺されたような気がした。
三年前。高校の家庭科室で、タルトの焦げた匂いと、彼の真っ直ぐな瞳に包まれていたあの夜。あれから私の時間は、あの日の「約束」一点で止まったままだ。
「レン先輩は、言ったのよ。絶対に迎えに来るって」
「で、その迎えはいつ来るわけ? 三年だったけど、あっちに行った彼はパリで綺麗な女優やモデルと連れ添って笑ってるわよ」
レイナの言葉は容赦がない。けれど、彼女が私のことを誰よりも心配していることも知っている。だからこそ、私は言葉を詰まらせた。
「……彼は、そんな人じゃないもの」
「そうやって、彼を『思い出の中の王子様』として祀り上げてるだけじゃない? あんたが待ってるのは、あの日の彼であって、今のパリにいる彼じゃないでしょ」
レイナは私の肩に手を置き、鏡の中の私と目を合わせた。彼女の瞳には、弱々しく笑うことしかできない私への、呆れと、拭いきれない慈しみが混ざっている。
「モデルとしては最高に輝いてるわよ。でもね、恋愛に関しては三年前で時が止まってる。いい加減、目を覚ましなさいな。あんたは『待つ』ために生まれてきたんじゃない。誰かに支配されるための人形でもないんだから」
突き放すような言葉。でも、それは彼女なりの、私を泥沼から引きずり出そうとする必死の救命信号だった。
レイナが楽屋を出ていく。ドアが閉まる音がやけに重く響いた。
私はもう一度だけスマホの画面をつけた。そこには、砂糖細工のアネモネを誇らしげに掲げる、私の知らないレン先輩の姿がある。
(……私は、何を待ってるんだろう)
喉の奥が熱くなる。
三年間、私が大切に守り続けてきた『約束』が、レイナの言葉で少しずつ、ひび割れ始めているのを感じていた。
◇
レイナの言葉が胸に刺さったまま、数日が過ぎた。
私の周囲は、相変わらず騒がしい。パリのコレクションに向けた準備で、私はこれまで以上に多くのメディアの目にさらされている。
その日、事務所のデスクで私は耳を疑う話を小耳に挟んだ。
大手週刊誌の記者が、私の「熱愛疑惑」をでっち上げるために、プライベートな隠し撮りや、捏造した目撃情報を集めていたというのだ。ライバルモデルが業界の有力者に手を回し、私を蹴落とすための醜聞を仕立て上げようとしていた。
「あの子を潰せば、枠が空くわ」
廊下の先で、ライバルの声が聞こえた気がした。胸が締め付けられるような恐怖と怒りを感じた。もし、本当にそんな記事が出たら、モデルとしてのキャリアも、パリへの道も閉ざされてしまう。
けれど、次の日。
私は驚くべきニュースを目にした。
『大手週刊誌、今朝の号で異例の謝罪広告。記者が、横領疑惑で即刻解雇』
その記者は、昨日まで私を追い回していたあの男だった。ライバルのモデルも、なぜか突然の仕事キャンセルが重なり、業界の表舞台から姿を消したという。
(あまりにタイミングが良すぎる……)
事務所の廊下を歩いていると、偶然、ベテランの広報スタッフがヒソヒソと話しているのが聞こえてきた。
「……パリの『レン』から、極秘の圧力がかかってたって噂よ。彼女の身辺調査をしていた連中が、次々と裏取りをされて潰されたらしいわ」
「でも、どうして? 『レン』が?」
足が止まった。
(……パリの『レン』? レン先輩?)
彼は海外にいるはずだ。どうして、私のことなんて忘れて、海外で遊んでいるはずの彼が、私の歩く道を整えているの?
(……私、そんな頼りない子供扱いされてたの?)
守られているという事実は、本来なら安心感に繋がるはずだ。
でも、今の私の胸に浮かんだのは、猛烈な屈辱だった。
私は三年間、彼にふさわしいモデルになろうと必死に自分を磨いてきた。それなのに、今のこの状況は一体何だろう。まるで私が自分一人では何もできない、庇護下にある小さな人形のままだと、彼はずっと決めつけているみたいだ。
窓の外、東京の空を見上げる。
(……違う。そうじゃない)
彼があの時、「迎えに来る」と言ってパリへ行ったのは、私の成長を待つためじゃない。私がいつまでも彼のいない世界で足踏みし、あの日の記憶に縛られ続ける「人形」でいることを望んでいたからではないだろうか。
(あの言葉は、未来への愛なんかじゃなかった。)
私を今の場所に縛り付け、彼という記憶の檻の中に閉じ込めておくための、重たく冷たい「鎖」だったのかもしれない。
◇
その夜、私は自室のクローゼットの前に立っていた。
そこには、この三年間で買い集めた服が整然と並んでいる。レン先輩が日本を発つ前に「こういう服、似合いそう」と冗談めかして言った言葉を、頑なに守り続けていた服たち。清楚で、誰からも愛され、そしていつか彼が迎えに来たときに「いい子だったね」と微笑まれるような、そんな『守られるための服』ばかりだった。
「……もう、いらない」
私はハンガーからそれらを力任せに引きずり出した。彼に会うためだけに選び、大切に手入れしてきた服たちが、今はどれもこれも、私の狭い世界を象徴しているようで、見ていてひどく息苦しかった。
その時、スマホが短く震えた。レイナからだ。
『さっきの撮影の帰り、あんたの事務所のスタッフが「パリのレン」について話してるのを聞いちゃった……。あんた、パリのコレクションの最終審査、実力でもぎ取ったんでしょ? さすが私の親友ね』
続けて、一枚の画像が送られてきた。そこには、レイナお気に入りのパリの凄腕スタイリストに宛てたメッセージが写っている。
『私の親友がパリへ行くわ。彼女は誰の手も借りない、自分の足で立つモデルよ。あんたが責任を持って、彼女の強さを最大限に引き出す、最高に彼女に似合うものを用意しなさい。あの子の美しさを知らしめるために』
画面の向こうから、レイナの頼もしい声が聞こえてくるようだった。
(……ありがとう、レイナ)
私は、誰かに愛されるための「可愛らしい人形」を演じるのは、今日で終わりにする。
私はクローゼットの奥から、ずっと「今の私にはまだ早い」と封印していた箱を取り出した。
それは、海外の雑誌で見かけて一目惚れしたものの、あまりに主張が強すぎて手を出せなかった、意志を剥き出しにしたような鋭いカッティングのジャケットや、肌を大胆に見せる黒のドレスだった。
鏡の前で着替える。
ジャケットを羽織ると、肩のラインが鋭く張り出し、鏡の中に映る私はまるで鎧を纏った戦士のようだった。三年前、空港のゲートで彼を見送ったあの弱々しい少女は、もうどこにもいない。
私はスマホを手に取り、パリ行きの航空券を表示させた。
画面の端には、相変わらず海外で笑うレン先輩の記事が流れている。
(待ってて、レン先輩)
彼の「守護」という名の支配を、この手で完全に壊しに行く。彼が大切に守り抜いてきた「完璧な日常」を、私のこの靴で踏み荒らしてやる。
私はテーブルの上に置いてあった、三年間肌身離さず持ち歩いていた、あの日のアネモネの写真にそっと触れた。
(信じて待つのは、もうやめる。三年間、この甘く呪わしい約束を抱えて我慢してきたけれど、私の心はもう限界だった)
私はその写真を潰すことなく、丁寧に手帳の奥深くにしまい込んだ。
捨てるのではなく、私の一部として封印する。
空港で交わした「魂の契約」は、今この瞬間、私の手で破棄した。
もう、彼のいない世界を彷徨うのは終わりだ。
私は、私という名前の物語を取り戻しに行く。
◇




